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2014年5月

2014年5月19日 (月)

心底腹が立ってきた話

1972年5月15日、沖縄 本土復帰

2014年5月15日、安倍首相は、集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈の変更を検討する考えを示した。
恐ろしいことが、平然と行われている。怒りと恐怖を感じています。

集団的自衛権行使の理由として、安倍首相や行使容認派は、「日本を取り巻く環境が急激に厳しさを増しているから」と言う。
怒りや反発は、蓄積されて爆発する場合もあるけれど、たいていは瞬発的に起こるものです。自分のことを思ってみてください。嫌なことをされたら、そのときに怒りが込み上げる。相手が嫌がることと分っていながら、それをして、怒られたこともあるでしょう。「急激に厳しさを増している」? 厳しさを増すと分っていながら、最近急激に相手を刺激していないだろうか。

我が身を守る(我が国を守る)ことを理由にするためには、敵国を作ることがもっとも近道。
私たちは、近隣の国々の何を知っているというのだろう。政府の、マスコミの誘導に、いとも簡単に流されてはいないだろうか。

集団的自衛権を行使する条件を6つ挙げ、「限定的に行使するものである」「戦闘に参加することは決してない」というけれど、ひとたび戦闘に加われば、こちらの言い分なんて聞いてもらえるわけがない。“限定”などありえない。

「集団的自衛権の行使が戦争に結びつくなんて、発想の飛躍じゃないですか?」という声を聞いたことがある。発想の飛躍? 私は、発言主の想像力の欠如を嘆く。
2014年5月15日の安倍首相の会見は、「集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈の変更を検討する考えを示した」ものであり、確定したもの、決定したものではないのかもしれない。しかし、私は想う。この会見は、宣戦布告と受け取る者もいるだろうと。政府やマスコミは、近隣諸国のきな臭さを醸し出すが、国と国との争いは、そう簡単には起こらないだろう(起きてしまうときは、よほどの時であり。もはやどうしようも無いときかもしれない)。危惧すべきはテロ組織。日本の首相が会見でこんなことを言っている。そのことは、会見の内容がたとえ確定・決定したものではないにしても、テロ組織にしてみれば、ターゲットとして日本が名乗りを挙げたものと映ったのではないだろうか。
「それこそ発想の飛躍ですよ」と笑われるだろうか。

現在の日本国憲法が時代にそぐわないと言うけれど、戦後からこんにちまで、この憲法の元で平和な世の中を築いてきたじゃないか!! 今まで通り、この憲法のままで、日本の、世界の平和を築いていく努力をすればいいじゃないか!!
と、思っていたけれど、戦後からこんにちまで、この憲法の元にありながら、平和を感じられずに来た地域・人々がいました。沖縄と、沖縄に住む人々でした。戦時中も、戦後も、本土復帰後も、こんにちに至るまでも、悲しくつらい思いをしている人々がいる。悲しくつらい思いをさせてしまっているわたしがいる。
憲法が時代にそぐわないどころか、いまだに憲法の元で生きていない国なのでした。にもかかわらず、その憲法を変えよう改めようなんて、わたしたち自身が、平和にそぐわない生き方をしていました。

数年後、2014年5月15日が分岐点となるような気がしてなりません。もちろん悪い方への。

2014年5月14日 (水)

めちゃくちゃ腹が立った話

スーパーで買い物をし、買ったものをカゴから袋に移していました。
隣では、赤ちゃんを前抱っこしたお母さんが、寝ている赤ちゃんを気遣いながら袋詰めしています。
その姿を見て、空いたカゴをカゴ置き場に持っていってあげようと思いました。

袋詰めが終わるやいなや、お母さんはカゴをその場に置いて、サッサと店を出て行ってしまいました。その動きの早いこと早いこと。注意をする間もありませんでした。
自分のカゴと、置き去りにされたカゴ、ふたつともカゴ置き場に置いて店を出ました(想定と違ったとはいえ、目標は達したのですが)。

店を出て歩いているうちに、なんだか とても とても腹が立ってきました。

だって、「大変そうだなぁ、手伝ってあげようかな」って、私が勝手に気遣ったことです。
けれども、そのお母さんはカゴを置いてサッサと店を出てしまった。
そのお母さんに対して、私は「ふざけるな!!」と思ったわけです。
ふざけてるのは、私の方です。
「大変そうだな、手伝ってあげようかな」と思ったのなら、その思いを最後まで貫けばいいのです。
仮に「カゴ、片付けておきましょうか」と声をかけるタイミングがあったとして、そのお母さんがお礼のひと言も言わなければ、それもまた私は腹を立てたことでしょう。
こんなことで腹を立てるのならば、気遣いでも優しさでもなく、自己満足です。

カゴを置いていったお母さんに対して腹を立てた自分に、腹が立ちました
「腹立てるなら、最初から手伝おうとするなよ。 “ありがとう”でも言ってもらいたかったのか? 結果的にカゴを片付けられたんだから、それでいいじゃないか」

自販機でアイスコーヒーを買って飲んで、気持ちを落ちつかせてから帰りました

2014年5月 1日 (木)

2014年5月のことば

一悪を以て 衆善を忘れず
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「一悪を以て 衆善を忘れず」とは
たったひとつのミスや気になる行為のために、その人の、それまでの行為や実績を忘れてはなりません。

なにゆえ他者(ひと)に厳しいのか
STAP細胞の作製に成功したと論文で発表した小保方晴子さん。誰もが驚き、功績を讃えましたが、STAP細胞の疑問点が指摘されると、彼女への批判へと転化します。あれだけ持ち上げておいて、突き落とすときの手の平の返しようには驚くばかりです。マスコミや学会の話ではありません。わたしのことです。「まだ若いのに凄いね」「割烹着が可愛いね」などと言いながら、STAP細胞の疑問点が報道されると、「騙された」とか「ひどいことするね」とか「割烹着を買ったのに」とか。批判がメチャクチャです。割烹着を買ったのは、彼女のせいではなく、自分の問題なのですが。
小保方さんの一件を上げるまでもなく、最近、他者に対する批判や非難が、あまりにも厳しく、自己中心的に感じ、こころが痛みます。

例えば、ベビーカー論争は、あまりにも悲しすぎます。電車やバスの中で、「ベビーカーたたむべきだ」「いや、小さい子どもがいるのだから、周りが気を遣うべきだ」云々。お互い言い分もあるでしょうが、「自分が正しい」というところに立って文句を言っているのですから、和やかなこころは生まれず、いやな空気が流れるだけです。
お互いの意見を言い合うということは、新しい視点を生み出し、一人では見いだし得なかった発見があるなど、本来意義のあることです。しかし、「自分が正しい」というところに居座ってものを言う限り、発展的なことは何も生み出しません。このことは、ベビーカー論争に限った話ではありません。
「なにか手伝えることはないかな」
「周りに迷惑をかけてないかな」
わたしの目の前に他者(ひと)がいる。いのちがある。そんな想いを持つだけで、見えてくる風景・感じられる空気は変わってきます。

他者(ひと)を傷付け、自らも傷付く
人は、一人では生きていないのに、どうして争うのでしょう。
気が合う、気が合わないということはあります。でもそれって、多少なりとも関わりがあってこそ分かることです。現代(いま)は、そのとっかかりの関わりさえも持とうとしません。他者と向き合うことすらしません。
それでいて、テレビ・新聞・雑誌等の報道やネット上の情報だけで、隣国の人々に嫌悪感を抱き、存在を否定する。小保方さんへの批判も重なります。わたしは、隣国の人々の、小保方さんの、何を知っているというのでしょう。人間、個と個で向き合うと、酷い人間ってそうはいないと思うのですが。
正しいのか正しくないのかも分からない情報だけを頼りに、他者を判断(批判・非難)する。他者を批判するけれど、批判しているわたしの方も、頼りない情報を基に嫌悪されています。争う必要もない者の間に、争いの土壌が構築されています。
他者を知るということは、根気のいる作業です。すべての人間と、丁寧に向き合うことはできません。しかし、たったひとかけの情報で、たった一側面の印象で、相手を知ったつもりになり、牙を向けるということは、他者の存在を否定するばかりでなく、わたし自身のいのちを おとしめてもいます。

「一悪を以て 衆善を忘れず」再考
「一悪を以て 衆善を忘れず」
…わたしが受けている恩は、たったひとつの情 報・印象で否定されるものなのですか? (いえ、そうではありません)

   

掲示板の人形
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金太郎とクマの置き物です。パズルになっています。
烏山にある、木のおもちゃ専門店「MUKU」で買いました。おじさんがとても優しくて、子どもたちもこのお店が大好きです。

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