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2014年3月28日 (金)

みんな阿弥陀とともに生きている

2014年3月26・27日 教区得度研修会に際し、大人の部の声明を担当させていただきました。
私がお伝えできることは、時間の許す限りお伝えしたつもりですが、なにしろ人前で話をすることが苦手な人ゆえ、きちんとお伝えできていたかどうか…。
教えるということは、自分が教わるということ。いつのまにか 慣れながら勤めてしまっていた私自身のお声明に、刺激をいただきました。

お得度をこころざすご縁をいただいた方々との出遇いは、思っていた以上にこころ動かされるものでした。大人の部の方々も、子どもたちも。みんな、それぞれの人生があり、いろんな葛藤があり、かけがえのない決心がある。
人間の数だけ、ドラマがありますね。その輪の中に加えていただき、大切な時間を共にさせていただいたことに感謝です。
南無阿弥陀仏

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コメント

先日はありがとうございました
発見しましたのでコメントしてみます

現実にもどり、思い返してみました。
アンケートに書けばよかったかなぁと思ったことです。研修に参加させてもらった時に腕輪念珠を右手にされている寺族の方を見かけました。なので念珠のお話も聴ければ良かったのかなぁ〜と思いました


先生のお蔭で元気づけられました
また、お人柄に感謝しております。
ありがとうございました。

☆岩倉さま
研修会お疲れ様でした。緊張でお疲れになったことと思います。
夕事勤行では、ご負担をおかけして申し訳ありませんでした。でも、とってもお上手でした。安心しておりました。

念珠…右手にしてる方がいましたか。よく見てましたね
左手にするのが基本ですが、腕輪念珠だと、ファッションとして身につける方もいるので、右とか左とか意識してなかったのかもしれません(実際のところは存じませんが)。
お話をしようとすると、いろんなことが出てきますね。今回は、「御文」についてお話を加えさせていただきましたし。

どれだけ皆さんのお役に立てたか分かりません。もっといろいろやること(お伝えすること)があったかなと思うばかりです。
でも、出遇いに感謝です。ありがとうございます。

こんばんは
お忙しいところありがとうございました
夕事勤行では心臓が破裂しそうなくらいな緊張でしたが、先生が隣に居てくださったので心強かったです私にとって貴重な経験をさせていただきました。ありがとうございます

先生の教えはちゃんとみなさんに伝わっていたと私は思います
声明や作法だけではなく、私は先生から真宗の教えを学ばせていただいたと思っております。
先生は食事をする時に盛り上がる話をすることもない私たちと常に行動を共にしてくださいました
何よりの教えだと感動しました

考査がまだなので子どもたちに「お母さん、大丈夫〜??大きい声ではっきり話せば大丈夫だよ!」などと言われてソワソワしてますが、得度研修での感動で楽しく過ごさせていただいております

またどこかでお会いできる日を楽しみにしております。
本当に、ありがとうございました

> かけがえのない決心がある。

「ひとがここにいる」というのは、空間概念ではなくて、時間概念

時間が折り畳まれているということですが、

特に、未来、ですね。

未来が目の前にいるひとに折り畳まれている。

隣にいる、おっさん、尊厳ってどっからくるの?未来からしかありません。分かんないってことからしか来ない。

同時代人、共時的なネットワークっていうことだと、お互いがお互いを反映してますモデル、ミラーニューロンなんで、想像的かんけいと言って、自我と他我といって、簡単に言ったら、同時代、共時的モデルの場合、どうせ、おれと似たようなもんだろ、っていうね、「見切った」「わかった」モデルなんですよね。そっから、「ひとがそこにいる」っていう「わかんない」っていう尊厳は出てこない。

過去ってことからも出てこない。学歴とか、家柄とか、出自とか、県民性とか、ま、なんでもええんですけども、そゆことから、人間の尊厳ってのは出てこない。

このひとは無上だっていう、「わかんなさ」、決定的なわかんなさってのは「未来」が折り畳まれてるってことからしか出てこない。

われわれがまだ見ていないものを見ている人々、我々がここに到来し、そして、去って行ったあとに、ここに到来するものたち…を、いまここで、われわれの中に、見るということ、つまり、時間ということ、特に、未来ということが、「ひとがそこにいる」ということなので、実は、存在とは、時間ですね。

☆岩倉さま
「先生は食事をする時に盛り上がる話をすることもない私たちと常に行動を共にしてくださいました」
研修会受講者の皆さんは、正直とてつもない緊張感をもたれていると思うのです。
本当は、その緊張をほぐしてあげられたらよかったのですが、私のキャラ的に、そういうことが苦手で…。せめて、できる限り同じ場にいることぐらいしかできなくて

今は、お子さまからのプレッシャーが大変だと思いますが、お釈迦さまのお誕生日に、吉報は必ずやって参ります

☆HikkenDokugoさん
『未来ということが、「ひとがそこにいる」ということなので』
なるほど(目からウロコ)
「ひとがここにいる」といったとき、空間概念で考えがちですが、時間概念。未来が内包された 人(いのち)。
「人のため」「子どもたちのため」という表現が、私個人的には苦手(そう思うのですが、なにかちょっと違うような…と、喉の奥に引っかかっている感じ)なのですが、未来が内包された時間概念としてのいのちを想うと、「人のため」「子どもたちのため」がすんなり飲み込めた気がします。

道元禅師さまは、有とは時のことだ、えと、存在ってのは時間のことだよ、と、仰っておられるかと思いますが、人間のことば、あるいは、比喩、たとえというのは、空間的なものの喩えの方が分かり易いですよね。

実際には、時間なのだけれども、時間で喩えるというのが、人間のことばでは難しすぎるので、仕方がないので、空間的な喩えにしてある、というようなことが言われますね。仕方ないから「そこにひとがいる」という、空間的な喩えにしてあるのだけれども、中身は、実は時間だと。

〈他者〉というのは、空間的に遠いから「わからない」のではなくて、すでに、ここに到来され、そして去っていかれた方々、あるいは、わたしが既に忘れてしまったものを、いま、見ておられる方々、+、実はこちらの方が大事だったりしますが、われわれが、ここを去ったあとに到来される方々、あるいは、われわれがまだ見ていないものを、いま、見ておられる方々(未来の衆生。ま、佛教では「未だ来たらず」ではなくて、必ず来るので、当来、当に来るべし、ですが)が、折りたたまれているから「わからない」。

これは二つに開くことができて、諸佛の語らいの場所に、己を見出す、あるいは、未来の衆生の場所に、自らを見る、という言い方と、逆に、過去のひとびと、未来の人々を、己の中に見出すという。もっとも、その二つは別のことではないでしょう。

存在とは時間のことだ、という。

時間で喩えた場合でも、過去の方が言い易いんですね。あなたの隣におられる方は、その方のご両親、あるいは祖父母の方々……にとって、みんな、誰でも、特別な人なんです、無上です…というような言い方の方が分かり易いんですね。すんなり口から出易い。

未来の方が、文章がややこしくなるんです。

たとえば、東大法学部に入ると良いことがありますよ、という、「交換」ですね、「贈与」ではなくて、「交換」という物差しの場合、ま、「自己責任」でしょうか?、考えると、そんなことで、人は、ほんとにはがんばれません。そんなことで、生きて行かれないんですね。

別に自分は良いや、おれは良いっすって諦めてしまったら、終わりですし、達成してしまっても終わりです。自分の人生を、何か、「お前のためを思って言っているんだ」という、ルールにのっとって、フェアーに競争して、勝て!ってことでは、人は生きられないです。

隕石が東大に落下して、東大が吹っ飛んだら終わりですし。娑婆世間のルールが壊れたら終わりなんですね。そんなルールは、人間が、勝手に決めてますから、壊れることがあります。そしたらもう終わりなわけで、それは生きる力にはならないんですね。

だいたい、自分が勝つということは、負けて泣いている人いますし。

そうではなくて、何があっても生きて欲しいという願い、というものが、あるわけです。

それは、いまここで共時的なネットワークの「交換」からは出てきません。

それは、未来の関数です。

いまここで、自分が諦めてしまったら、未来のひとびとはどうなるのか?こんなところでは死ねない。そういうことでしか、人は生かされていないわけです。

浄土真宗では「名」ということを言いますから、あまり、言わないですが、大乗仏教全般、一般的に、「佛性」ということを言いますね。

それも考えてみると、「時間」概念なんですね。

どうしても、時間という喩えは、人間のことばではうまく言えないということがありまして、仕方がないので、表面が汚れているけれども、磨けば中に、宝がある、というような、喩えになりがちなんですが、考えますと、実は、本質的には時間概念ですね。

成佛するということは、その果は、智慧が完成・成就するということである。すると、必ず、成佛するのであれば(※註)、その因として、なにらか、智慧のたねってことがあると思念可能、記述可能、言語化可能なはずである。さて、成佛=智慧の完成という果というのは、無分別智である。ここで、無分別智とは、語の定義上、超時間的、時間貫通的である。したがって、単線的な因果かんけいの徹頭徹尾の破棄としての、因果かんけいの完成であり、超時間的、時間貫通的であるところの無分別智は、いつでもつねにすでにそこに、あるのだが、ない、すなわち、潜在性であるという。未来の智慧の完成の「先取り」、予兆を、きざしを、他者に見るということである。

註: 佛教は、成佛教でもあるのではないだろうか、というのは、宇井伯壽博士が、世界の歴史上、初めて、独自の思いつきとして、言われたことだそうで、宇井博士は、みなさん、こう考えたらいかがでしょうか?と学会に問いを出しただけのおつもりなのでしょうが、権威が言っているから…ということで、無反省に、言われているだけである、という説があります。実際、上記の記述は、「わたしが佛に成る」と考えると、日本語として論理がややおかしいわけでして、「佛に成らしめられつつ、ある」という、「受け身」、「受動態」、そして、「進行形」、で、記述することが、ヨリ正確な記述と考えられます。「潜在性」とは「まだ・ない」が「必ず成就する」という概念であり、「可能性」とは異なります。

名 というのも、私見では、時間概念だと思います。

http://blog.zaq.ne.jp/hikken/article/329/

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