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2014年3月11日 (火)

勿忘の鐘(わすれなのかね)2014 ご報告

2014年3月11日(火) 西蓮寺聞法会「東日本大震災追悼法要」をお勤めさせていただきました。

3.11を迎え、「忘れない」ということばを耳にしますが、“何を”忘れないのでしょう?

 死者      1万5884人
 行方不明者    2633人
 震災関連死    2993人
 避難者   26万7419人

と発表されていますが、それぞれに顔とお名前と人生があり、関係を生きた方々がいます。数字では表現できない体温があります。
漠然とした大きな数字に脅威を覚えるのではなく、ひとりが ここにいるということを感じたい。ひとりを感じれば、想いも風化しない。
「忘れない」ということから、そのようなことを想い、お話しました。

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コメント

おじゃましました

当日、申し上げませんでしたが(話が長くなりすぎるので)、内心、考えていたのは…

http://uuair.lib.utsunomiya-u.ac.jp/dspace/bitstream/10241/8901/1/63-1-yamada.pdf

『3人称的死として位置づけられるのは、医学・生物学・人口統計学等々、自然科学的な観点からみた、いわゆる「客観的」な問題である。これに対して、2人称的死、すなわち、「私」にとってかけがえのない「あなた」の死は、客観的に数量化される3人称的領域に組み込まれることを徹底的に拒否し続ける死である。3人称的観点において捉えられる死は、いわば代替可能な死、何らかの形で取り返し可能な死であると言える。たとえば、自殺者の増加、合計特殊出生率の低下問題等、日本の人口減少が問題になるとしても、地球全体でみれば相変わらず人類は増加し続け、ここでの死者は、次々と他の生によって補填されていく。あるいは、医学的観点からの第三者の死は、たとえば、数値化されデータ処理され、将来の医療、新たな生に寄与するものとして位置づけられる。』 → このあとが、本論なんですけれども、引用は、ここでやめておきます。

でした。

☆HikkenDokugoさん 追悼法要にお越しいただき、ありがとうございます。
面白そうな論文ですね。読ませていただきます。
地球上における生物の総数は変わらないと聞きます。
それだけに、人間の数が増えているのが気にかかってはいるのですが。

〈他者〉(=〈根源的未知性〉)を、普通は(?)、〈時間的隔絶〉で喩えることが多いですね。時間の根源的未知性が〈私〉(=主体)を位置づけるという比喩がメジャーだと思います。善とは二世に渡る善である=いま・ここで、〈この私〉が下す倫理的判断が、とーーーーーい未来の人々にとって、善なのか、悪なのかを、この私にはどーーーしても知ることができない、という、根源的に、自分は善悪がわからないものなのであるという、痛切な経験、究極的に否定的な経験、自分の有限性の受容、すなわち〈断念〉が、主体を創設するというものの考え方が、メジャー。どーしても、分からないのだから、ここまでやっておけば良いだろう、こんなもんだろう、ここまでやっておけばOKということがないことになりますから、身を粉にして…、骨を砕きても…、となり、無限に丁寧になる、という比喩。われわれが、どれほど生前に善根を積んでも、それによって救済の成否が変わったりはしない(善行を行えば、お浄土にお参りさせて頂けるのであれば、自分で舟を作って、自分でお浄土に操縦していくことになるが、そんなことはない)、と。この〈時間的隔絶〉は空間的な記述はできないのだが、強いて、どうしても、ことばにしないといけないのであれば、「そこにひとがいる」という言い方しかできないが、その言い方は、不正確である、というのが、メジャー。

一方で、この〈2人称の死〉というたとえは、別のたとえで、分かり易いように思いました。

※ 補足

〈時間的隔絶〉の喩えは、わたしたちが、いま・ここで、身を粉にしても…、骨を砕きても…、なんとか、真人間な、考え方、感じ方、ふるまい方を、しようと、無限に努力するのは、目的、できあがり、正解を、知っていて、その目的を成就するための手段として、しているのではなくて、真逆で、「知らないからだ」という。わたしたちがまだみたことのない世界を経験しているひとびととのかんけいだけではなくて、わたしたちがもうわすれてしまった世界を経験しているひとびととのかんけいで、この私は成立している…という考え方ですので、ま、無理にいうと、そこ(過去と未来)にひとがいる、という物言いになるのですが、これは、元来、〈他者〉は、〈時間的隔絶〉なのを、それでは、物言いがきわめて難解になるがために、空間的に遠いという比喩に置き換えていますので、ダイナミズム、動態が失われてしまうという恨みがあるわけです。

一方、2人称の死が、私をつくるというのは、別の喩えですが、これは、分かり易いと思いました。

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