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2014年3月 1日 (土)

2014年3月のことば

ないものを 欲しがらんで、
あるものを 喜ばしてもらおうよのう
河村ふで

「ないもの」って、本来「ないもの」です
原発の問題って、その危険性とか、核のゴミの処分の問題とか、汚染水の問題とか、コストの問題とか、いろいろあります。でも思いました。根本の問題は、ないものを欲しがった結果なのだと。
原発は、電気がないところに電気を生み出す装置です。人々は夢や希望を託すことでしょう。そこに喜びを見い出してきたのかもしれません。しかし、ないものを生み出した結果、そこには喜びではなく、悲しみが生じることを、人々は知ったはずです。それにも関わらず、原発を否定しない東京都知事立候補者が当選する現実。
一度享受したものは、手放せないのかなぁ。故郷(ふるさと)を追われている人々の姿に、他者(ひと)の故郷を奪ったのはわたしなんだという想いは芽生えないかなぁ。
鬱々とした想いに潰されそうになりますが、そんな面ばかりではありませんでした。他者の助けになりたいという想いを抱く人・実際に活動している人は、たくさんいます。「わたしは、わたしにできることをしているだけ」という人がいることを忘れてはいけませんでした。それは、特定の、こころある人だけの話ではありません。
他者(ひと)を想う気持ち。それが生じるのは、「自分はひとりでは生きていない」という自覚(めざめ)から。その自覚から、さまざまな想いが生じ、自然と体が動く。それは、誰にでも起こり得ることです。誰もが、生まれながらにして、いのちを想う種を持っています。仏教では、その「種」を「仏性(ぶっしょう)」と言います。
特定の誰か、こころ清い人・一生懸命修行に励む人が持っているものではなくて、生きとし生けるものすべてが持っているもの。それが「仏性」。こころの種なのです。その種が花を咲かせるか、咲かせずに終わるか。それは、他者(ひと)との、おしえとの、自分との出遇いしだいです。

河村ふでさんと河村とし子さん
今月のことばの主、河村ふでさんは、河村とし子さん(元萩女子短期大学教授/自民党 河村建夫議員の母)の義母です。
クリスチャンだった河村とし子さんは、ご主人の家の宗旨が何であろうと、クリスチャンであり続けることを条件に結婚されました。とし子さんは、ご主人のご両親に、毎晩キリスト教の教えを説いて聞かせるのですが、ご主人のご両親は嫌な顔ひとつせず、ニコニコとお話を聞き続けられたそうです。
話し続けているうちに、とし子さんの方にこころの変化が起こります。義理の両親は、どうしてこんなにニコニコしているんだろう。お寺で法座があると、畑仕事を休んででも出かけ、帰ってくると嬉しそうに法座の話をしている。いったいお寺とはどんな所なんだろう、と。そんな疑問から、思い立ってお寺での法座に出かけられました。そこで親鸞聖人のおしえに出遇い、やがて敬慕の念を抱くようになりました。河村家の宗旨は浄土真宗だったのです。
河村ふでさんは、篤信の念仏者でした。お嫁さん とし子さんとの出遇いを喜ばれ、キリスト教の話をされても聞き続け、とし子さんが仏法聴聞に目覚めると、「家のことは私がするから、仏法聴聞のご縁があれば聞き続けてください」と願われた方だそうです。
そんな河村ふでさんのことばです。「ないものを欲しがらんで、あるものを喜ばしてもらおうよのう」。

誰もがみんな仏性を持っている
ふでさんのことばは、「物や、自分の容姿や、彼氏彼女など、ないものを欲しがってしまうけれど、今手にしている物や、今の自分自身や、家族友人仲間など、かけがえのないものの中で生きていますよ」という法話として語られます。私も、そのようにいただいてきました。
しかし、「今手にしている物や、今の自分自身や、家族友人仲間など」にしても、人間の欲望に対して、満足するか否かの対象でしかありません。そんな人間の欲望を超え、私のもとに既にある。それが「仏性」。
「欲望に振り回されないで、お念仏を申すときに合わさる手、私(いのち)を見つめてください。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」
そのように聞こえてきました。南無阿弥陀仏

   

掲示板の人形
Dsc_0108
2月にタイ旅行に行った際に買ってきました。

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