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2014年3月

2014年3月31日 (月)

お念珠②

お念珠は左手に持ちます。なぜ左手か?
インドの方は、右手で食事をとったり、握手を交わしたりします。浄なる手です。
左手は、大きい用を足したときに、左手に水をつけておしりを洗います。不浄なる手とされます。
その、不浄なる手ゆえに、左手に仏具であるお念珠を持ちます(清めの意味があるのでしょうか?)。
でも、仏具ゆえに、浄なる手、右手に持つべきじゃない? と問われると、「そうとも考えられますね」と思ってしまいます。(すみません。そういう意味で、左手にお念珠を持つ意味を、自信を持ってはお応えできません)

さて、南無阿弥陀仏とお念仏を称えるときに合わさる手ですが、
浄なる手 右手と、不浄なる手 左手を合わせることになります。
このことは、浄なるものと不浄なるものが一緒になるなんて、「有り得ないことが起きた!!」ということを意味します。
(最近、坊先輩僧侶がよく語っているので、ここで紹介させていただきました)

お念仏を申すということ…人生において、お念仏に、阿弥陀さまに、おしえに出遇えたという喜びのポーズなのですね。
宗派によって、手を合わせるときのお念珠の持ち方は違うのですが、真宗では、手を合わせたときに、お念珠は両方の手に通しています。浄も不浄も一緒…朋なる姿を表現しています。

さて、浄とはなんでしょう? 不浄とはなんでしょう?
合わさるはずのないものが合わさるとは、何を意味しているのでしょう。
私の手が、あらゆる世界を表現してくださっています。
南無阿弥陀仏

2014年3月30日 (日)

お念珠①

お念珠の話を書こうとすると、浄土真宗においては、ちょっと頭を抱えてしまいます。
本来お念珠は、お念仏や題目を何遍称えた(唱えた)か数えるものです(「違うよ」という意見もあるかもしれませんが)。
浄土真宗においては、「南無阿弥陀仏のお念仏を何遍称えましょう」「たくさん称えましょう」などということは目標としません。数の多少が問題ではありません。たとえ一遍でも、お念仏申すところに、阿弥陀さまはおわします。
なので、称えた数を数える必要がないのなら、お数珠は必要なくない?という理屈になってしまいます。
しかし、蓮如上人が、「お数珠をせずにお念仏を称えることは、仏さまを手づかみにするような行為だ」と戒めておられます。
以前、お朝事の際に、お念珠を忘れたことがありました。まぁいいか、と朝のお勤めを始めてしまったのですが、蓮如上人のことばを思い出したこともありますが、お念珠をしないということは、法衣を着ていないのと同じだと感じました。
「お念珠をせずにお勤めをすることが通るならば、衣も着る必要はないじゃないか! さぁ、脱げよ!」
「いや、脱げないです」
「でも、お念珠を持ってないのは、衣を脱いでいるのと同じだぞ!! お勤めの際に 衣が脱げないというのなら、お念珠もキチンと身につけなさい!!」
と、こころの中でやりとりがありました。

お念珠は、「なぜ必要?」「なんのために使うの?」と、ひとつのツールとして考えるものではなくて、装束なのだと思いました。
じゃぁ、お坊さんじゃない人は? 法衣を着ることもないし、お念珠も必要ないんじゃない? と言われるとドキッとしますが、法衣を着ることがないからこそ、お念珠ひとつ持つことによって、すべてを荘厳しているのだと思います。
出来ることならば、お念珠と輪袈裟をしていただけたら…つまり、帰敬式を受式していただけたらと想うことであります。
せっかくお念仏申すご縁に出遇われたのですから。

2014年3月28日 (金)

みんな阿弥陀とともに生きている

2014年3月26・27日 教区得度研修会に際し、大人の部の声明を担当させていただきました。
私がお伝えできることは、時間の許す限りお伝えしたつもりですが、なにしろ人前で話をすることが苦手な人ゆえ、きちんとお伝えできていたかどうか…。
教えるということは、自分が教わるということ。いつのまにか 慣れながら勤めてしまっていた私自身のお声明に、刺激をいただきました。

お得度をこころざすご縁をいただいた方々との出遇いは、思っていた以上にこころ動かされるものでした。大人の部の方々も、子どもたちも。みんな、それぞれの人生があり、いろんな葛藤があり、かけがえのない決心がある。
人間の数だけ、ドラマがありますね。その輪の中に加えていただき、大切な時間を共にさせていただいたことに感謝です。
南無阿弥陀仏

2014年3月26日 (水)

年を重ねました

春のお彼岸も終わり、やっと春らしい陽気になりました。
と、思ったら、今日は雨だそうな

お彼岸中、何人かの方が申し合わせたように仰っていたのが、
「確実に、年をひとつ重ねました」

年に1度(か2度)お彼岸でお目にかかる方がほとんどですから、お互い1年(か半年)ぶり。
自身の体力は衰え、寺に来てみれば、赤ちゃんだった うちの娘たちが走り回って遊んでいる。
お寺の方からすれば、門徒さんの、赤ちゃんだった子がこんなに大きくなって!!という驚きもあります。
お彼岸は、時間の経過を感じます。

体力の衰えや病気を歎くのではなく、後を生きる人の成長に喜びを感じ、
「ひとつ年を重ねましたね」と表現できる楽しさ。
自分だけじゃなく、まわりが見えているセリフなのかもしれません。

2014年3月18日 (火)

いのちに乾杯

3月18日 春のお彼岸 入りの日
2年前になくなった祖母の101歳の誕生日
長女 幼稚園年中の終了式の日
春のお彼岸突入 決起集会
などと口実に、18日の夕食は家族揃って食事(普段は、住職・坊守とは別々の食事のため)。
みんなで食卓を囲み、数日前に還浄された、准坊守(妻)のおばさんのことも偲びました。笑顔の素敵な優しい方でした。

生きている中でのさまざまな出来事を感じさせていただく夕べとなりました。
「いのちに乾杯」と言って、食卓を囲みました。

次の日、いとこから、赤ちゃんが誕生したと連絡がありました。3月18日生まれですね。

生老病死…それぞれ別の出来事なのではなく、いのちという つながりの姿です。

2014年3月17日 (月)

わかるとは かわること

「話せば分かる」
「話し合わなければ分からない」
というけれど、
私は聞く耳を持っている というつもりで聞かれてしまうと、
話しても伝わらないし、分かってももらえない。
分かろう、聞こう、自分にも間違いがある、相手が言っていることにも一理ある…
そういう意識があってこそ、
「話せば分かる」し、
「話し合わなければ分からない」

まぁ、黙っていては何も伝わらないので、
たとえ分かってもらえなくても、話し出さなければ、想いは伝わらない。

2014年3月16日 (日)

顕如上人の苦悩

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」 2014年3月2日放送「官兵衛試される」で、
本願寺 顕如上人が出てくるシーンで、ご本尊の仏像が間違っていたとのこと。
阿弥陀如来像であるべきところ、釈迦如来像だったそうです。
その放送は、たまたま見ていたのですが、
「阿弥陀さん、立像じゃなくて、座像だったのかな?」とは疑問に感じながらみていたのですが、
まさか釈迦如来像だったとは…
違いに気付きませんでした。お恥ずかしい。

テレビを見て問い合わせがあったとのこと。詳しい方がいらっしゃるのですね。

(追記)
5月4日の放送では、阿弥陀さまの立像になってました

2014年3月14日 (金)

旅は出遇い

所属している、副住職の会合に出るため、電車に乗車。
すると、親鸞聖人750回御遠忌法要団体参拝旅行でお世話になった旅行社の方に会いました。
旅行後にも、ひとつお仕事をご一緒しているので、「旅行以来ですね!!」ではなかったのですが、それでも偶然の再会にびっくり。
ほぼルートが一緒だったので、ゆっくりとお話。私が先に下車し、別れました。
またお目にかかりましょう。

副住職の会合に出て、みんなで食事に行くとき、「今日は、2月のタイ旅行でお世話になった、添乗員の○○さんをご招待しています!!」と、旅行会の幹事。今年2月にタイに行ったときの添乗員さんとも再会しました。
旅行から一ヵ月しか経ってないけれど、旅行の話に花が咲きました。

お世話になった添乗員さんと、旅行が終わってからも会ってお話しが出来る、お酒を酌み交わせるって楽しいなぁと思いました。

2014年3月13日 (木)

人から人 いのちからいのちへ

お声明の稽古を頼まれました。

稽古をつけるにあたり、自らお勉強のやり直し。

教える方が、逆に教えられる。

稽古中、自分が厳しく教えられてきた内容を、自分が他者(ひと)に教えている姿がおかしくて(面白いという意味ではなくて不思議だなぁといった意味で)。

口伝

声明も教えも、こうして伝わってきたのですね。

2014年3月12日 (水)

大掃除

幼稚園の大掃除参加

ママ・パパ大勢参加で、掃除もはかどる

みんなで手分けをすると、仕事ってはかどるものだなぁ

西蓮寺永代経・報恩講前のおみがきの会(仏具おみがき&本堂大掃除)も、寺の人間だけでやっていた頃は何日もかかってやっていたけれど、門徒さんにお手伝いいただいてからは、あっという間に片付いて、ホッとしています。ありがとうございます。

2014年3月11日 (火)

勿忘の鐘(わすれなのかね)2014 ご報告

2014年3月11日(火) 西蓮寺聞法会「東日本大震災追悼法要」をお勤めさせていただきました。

3.11を迎え、「忘れない」ということばを耳にしますが、“何を”忘れないのでしょう?

 死者      1万5884人
 行方不明者    2633人
 震災関連死    2993人
 避難者   26万7419人

と発表されていますが、それぞれに顔とお名前と人生があり、関係を生きた方々がいます。数字では表現できない体温があります。
漠然とした大きな数字に脅威を覚えるのではなく、ひとりが ここにいるということを感じたい。ひとりを感じれば、想いも風化しない。
「忘れない」ということから、そのようなことを想い、お話しました。

2014年3月 9日 (日)

勿忘の鐘2014

勿忘(わすれな)の鐘2014
3月11日(火)午後1時30分より 西蓮寺聞法会 東日本大震災追悼法要を開催いたします。

午後1時30分より法話(西蓮寺副住職)
2時46分 喚鐘 その後参加者全員で勤行

法要にお集まりいただけます方、お待ちしています。

2014年3月 6日 (木)

ちょっと こう 向きを変えるだけで…

夜中から強い風 夜1時30分 起きて、山門を開けに行く。

自転車は倒れ、どこぞのお宅の台車が、私の目の前をコロコロ転がっていく…(元に戻しておきました)。

強い風を、真正面からまともに受けてしまうと太刀打ちできないけれど、

横からの風なら、けっこうしのげる。

風の向きは、わたしの思いでどうこう出来ないけれど、

わたし自身の向きは、自分で変えられる。

人生も、同じかもしれない

2014年3月 5日 (水)

丁寧に生きる

2014年も早くも3月を迎えました。
(私)「時間が経つのが早いねぇ」
(妻)「時間の過ぎるスピードは同じだから、実際は早くなっているわけではないんだけどね」
(私)「月は常に丸いのに、見てるこっちの見え方で“満月だ”とか“三日月だ”とか言っているみたいなもんだね」(喩えとして合ってるのか?)
(妻)「丁寧に生きてないから、早く感じるんじゃない?」
(私)「そっか… “丁寧に生きる”って、どういう生き方だろ?」
(妻)「子どもたち見てると、丁寧に生きてる感じがする。思いっきり動き回って、いろんなことに感動して、たくさん疑問をもって質問して」
(私)「動く量も減って、感動もせず、疑問も持たなくなる。だから、年を重ねるほどに時間の経過が早く感じるのかもね。子どもってすごいな(つまり、わたしは、雑に生きているのですね)」

運動(思いっきり動き回って)
感動(たくさんのことから刺激を受けて)
問答(不思議を感じて)

「うんどう」「かんどう」「もんどう」の「3どう」を大切にして、丁寧に生きたいものです。

2014年3月 2日 (日)

泣きたいときには、泣けばいい

2014年3月1日(土) 3度涙する

①朝起きて、連ドラ「ごちそうさん」鑑賞
満州に向かう悠太郎さんと、妻 め以子の別れのシーンに朝から涙ボロボロ
戦争って、こういうことなんだと
なのに、なぜまた戦争をしようとしてるのさ!?

②東京五組同朋会(成満寺にて)
講師のひとり、伊東さんが用意したプリント「仏縁に遇う」を拝読しているときに、思わず涙が

③東京五組同朋会
今日は、東京五組の若手(アジャセ)のうち4人がお話をしてくださいました。
佐伯顕さん 瀧川真さん 浪川知久さん 伊東良宣さん
みんな、自分のことばで、自分が出遇った親鸞聖人のお話をしてくださいました。
自分自身が抱える悩みや生活の中で、それらに向き合いながら、聖人の教えに真向かいになっている姿にこころ打たれ、思わず込み上げてくるものがありました。
司会も、中根信雄さんが引き受けてくれて、きちんと進行してくれて、みんなに「ありがとう」という気持ちでいっぱいです。

年をとると、涙もろくなるのですかね。
でもいいです。泣けることがあるってことが。泣けるっていうことが。
涙は、私の中の老廃物を流してくれます。
3度も泣いて、スッキリな一日でした。

次回「東京五組同朋会」は5月24日(土) 赤坂の道教寺にて
お話は、須賀碧さん 朝倉俊隆さん 坪内秀樹さん です。
その前に、4月12日(土) 練馬の真宗会館において、「東京五組同朋大会 宗祖親鸞聖人御遠忌法要」をお勤め致します。お話は、太田哲也さん(自動車評論家・レーシングドライバー)
ぜひお出かけください。お待ちしています。

2014年3月 1日 (土)

2014年3月のことば

ないものを 欲しがらんで、
あるものを 喜ばしてもらおうよのう
河村ふで

「ないもの」って、本来「ないもの」です
原発の問題って、その危険性とか、核のゴミの処分の問題とか、汚染水の問題とか、コストの問題とか、いろいろあります。でも思いました。根本の問題は、ないものを欲しがった結果なのだと。
原発は、電気がないところに電気を生み出す装置です。人々は夢や希望を託すことでしょう。そこに喜びを見い出してきたのかもしれません。しかし、ないものを生み出した結果、そこには喜びではなく、悲しみが生じることを、人々は知ったはずです。それにも関わらず、原発を否定しない東京都知事立候補者が当選する現実。
一度享受したものは、手放せないのかなぁ。故郷(ふるさと)を追われている人々の姿に、他者(ひと)の故郷を奪ったのはわたしなんだという想いは芽生えないかなぁ。
鬱々とした想いに潰されそうになりますが、そんな面ばかりではありませんでした。他者の助けになりたいという想いを抱く人・実際に活動している人は、たくさんいます。「わたしは、わたしにできることをしているだけ」という人がいることを忘れてはいけませんでした。それは、特定の、こころある人だけの話ではありません。
他者(ひと)を想う気持ち。それが生じるのは、「自分はひとりでは生きていない」という自覚(めざめ)から。その自覚から、さまざまな想いが生じ、自然と体が動く。それは、誰にでも起こり得ることです。誰もが、生まれながらにして、いのちを想う種を持っています。仏教では、その「種」を「仏性(ぶっしょう)」と言います。
特定の誰か、こころ清い人・一生懸命修行に励む人が持っているものではなくて、生きとし生けるものすべてが持っているもの。それが「仏性」。こころの種なのです。その種が花を咲かせるか、咲かせずに終わるか。それは、他者(ひと)との、おしえとの、自分との出遇いしだいです。

河村ふでさんと河村とし子さん
今月のことばの主、河村ふでさんは、河村とし子さん(元萩女子短期大学教授/自民党 河村建夫議員の母)の義母です。
クリスチャンだった河村とし子さんは、ご主人の家の宗旨が何であろうと、クリスチャンであり続けることを条件に結婚されました。とし子さんは、ご主人のご両親に、毎晩キリスト教の教えを説いて聞かせるのですが、ご主人のご両親は嫌な顔ひとつせず、ニコニコとお話を聞き続けられたそうです。
話し続けているうちに、とし子さんの方にこころの変化が起こります。義理の両親は、どうしてこんなにニコニコしているんだろう。お寺で法座があると、畑仕事を休んででも出かけ、帰ってくると嬉しそうに法座の話をしている。いったいお寺とはどんな所なんだろう、と。そんな疑問から、思い立ってお寺での法座に出かけられました。そこで親鸞聖人のおしえに出遇い、やがて敬慕の念を抱くようになりました。河村家の宗旨は浄土真宗だったのです。
河村ふでさんは、篤信の念仏者でした。お嫁さん とし子さんとの出遇いを喜ばれ、キリスト教の話をされても聞き続け、とし子さんが仏法聴聞に目覚めると、「家のことは私がするから、仏法聴聞のご縁があれば聞き続けてください」と願われた方だそうです。
そんな河村ふでさんのことばです。「ないものを欲しがらんで、あるものを喜ばしてもらおうよのう」。

誰もがみんな仏性を持っている
ふでさんのことばは、「物や、自分の容姿や、彼氏彼女など、ないものを欲しがってしまうけれど、今手にしている物や、今の自分自身や、家族友人仲間など、かけがえのないものの中で生きていますよ」という法話として語られます。私も、そのようにいただいてきました。
しかし、「今手にしている物や、今の自分自身や、家族友人仲間など」にしても、人間の欲望に対して、満足するか否かの対象でしかありません。そんな人間の欲望を超え、私のもとに既にある。それが「仏性」。
「欲望に振り回されないで、お念仏を申すときに合わさる手、私(いのち)を見つめてください。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」
そのように聞こえてきました。南無阿弥陀仏

   

掲示板の人形
Dsc_0108
2月にタイ旅行に行った際に買ってきました。

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