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2014年2月

2014年2月28日 (金)

梅かおる春

雪がとけ
白梅のにおいひろがる

2014年2月28日
 自分が自分であることのすばらしさを表現し続けた
  詩人 まど みちおさん還浄


2014年2月27日 (木)

つばきの葉

ひとつの花のために
いくつの葉が
冬を越したのだろう
冬の風に磨かれた
椿の葉が 輝いている
母のように
 輝いている
       (星野富弘)

寺報へのお礼のお葉書をいただきました
ありがとうございます
上記の星野富弘さんの詩が書いてありました。

母は
わたしひとり守るために
何年も何年も 何回も何回も 冬を越え
どんなにか冷たい風を身に受け
生きてきたことだろう。
椿の葉が 冬の風に磨かれて 母のように輝いている

2014年2月26日 (水)

つもった雪

つもった雪 (金子みすゞ)

上の雪
さむかろな。
つめたい月がさしていて。

下の雪
重かろな。
何百人ものせていて。

中の雪
さみしかろな。
空も地面もみえないで。


ひとつの塊にしか見えない雪
その雪も、金子みすゞさんの眼には、上の雪 下の雪 中の雪 と見える。
さむかろな 重かろな さみしかろな
他者を想う温かい眼

雪を見つめる眼→雪に自分自身を見ていたのかもしれない
つめたい雪がさしていて 何百人ものせていて 空も地面もみえないで
こんなにも多感で、いろいろなものを見て、他者を想う温かさを持っているのに、自分自身の中では、空も地面も(なにも)見えない淋しさを感じていたのかもしれない

誰も通らぬ朝、黙々と雪かきをしていると、何も聞こえない 何も見えない感覚になる
この世にポツンと私ひとり
冬のにおいがする

2014年2月25日 (火)

積み重ね

同じ日射し 同じ気温 でも

たとえば 10㎝積もった雪が とけきったとしても

1メートル積もった雪だと 10㎝とけることはない

少しずつ 少しずつ 積み重ねてきた努力や信頼も、失うのはあっという間

というけれど、

やはり 積み重ねてきただけのことってあるのかもしれない

一生懸命に努力してきた姿 時間をかけて信頼を得るに至った人柄…

見てくれている人 評価してくれる人は 必ずいる

2014年2月24日 (月)

いのちには熱がある

雪が積もり、下地が、土よりも、石やアスファルト部分がとけるのが早い

雪がやみ、少しの晴れ間でも、石やアスファルトは熱を吸収するのからだろう

土の上の雪はとけるのが遅い

遅いけれど、土の上でも、植物が生えているところから雪はとけはじめる

植物(いのち)自体の熱が、雪をとかすのだろう

生きよう生きようというエネルギーにあふれている

2014年2月23日 (日)

ことばには熱がある

寒い中 身震いしながらの雪かき

「ありがとうございます」

そのひと言でからだが温まる こころも温まる

2014年2月22日 (土)

うつろい

雪が降り、雪がとけ、春の訪れ

みずみずしい植物の 生き生きとした姿が現われます

厳しい寒さがあってこそ 生きる力が育まれます

2014年2月21日 (金)

表面とその中

雪が降り、雪がとけ、出てきたものはポイ捨てタバコやゴミ

一面真っ白 きれいに見えても 中はどんななんだか…

2014年2月 1日 (土)

2014年2月のことば

貧乏な人とは、
 少ししかものを持っていない人ではなく、
無限の欲があり、
 いくらあっても満足しない人のことだ


平和ってなんでしょう?
「東京新聞」1月8日のコラム「洗筆」に、こころ痛みました。

こまったな どうしよう/あした 学校に/たからものを/もっていかなくちゃいけないんだ…/だけど/ぼくのたからものは/まきちゃん(妹)なんだもん▼東京の小学一年の男の子が書いた「ぼくのたからもの」だ(『こどもの詩』文春新書)。お兄ちゃんと、かわいい妹のほかほかとした笑顔が浮かんでくる▼アフガニスタンから届いたおぞましいニュースがある。 こちらも兄と妹をめぐる話だが、浮かんでくるのは、悲しい、あまりに悲しすぎる妹の顔だ。女の子が、兄に自爆テロを命じられたという▼(後略)

イスラム原理主義勢力・タリバン幹部の兄から、妹は警察に通じていると疑われたらしい。小さな体に爆弾を仕込んだチョッキを着せられ、警察官の元で自爆スイッチを押すように命じられたとのこと。異変に気付いた警察官により、自爆は未遂に終わり、女の子は保護されました。
ひどいことをする兄がいるなぁという話ではありません。国や時代、環境によっては、わたしだって、どんなことをしてしまうか分からない人間なのです。この兄だって、違う環境に生まれていれば、妹を愛す兄だったかもしれません。
わたしたちは、自分の想いとして人を愛したり嫌ったりしているようですが、そうではないようです。環境の中、人と人との交わりの中で、愛するということ、嫌うということがわき起こってくるのですね。

このような記事や報道を目にすると、「日本に生まれてよかった」とか「平和な世の中を築いていかなければいけない」などと言います。でも、その見方・考え方には、恐ろしさが内蔵されています。
日本だけでなく、先進国と言われる国々は、あたかも自分の国が優れていて、進歩発展こそが幸せをもたらすかのように考え、後進国と呼ばれる国々に経済成長をさせようとします(本音を言えば、自国の成長に限界が見えているため、後進国を巻き込んでいるだけであり、後進国のためという気持ちではないと思います)。
自分を優位に置いて、他者(ひと)を悲しんだり、憐れんだり、感傷的になったり、安心したり、アドバイスしたり…。そんな自分に無自覚で、気付かないうちに他者を傷付けています。平和を願いながら、幸福を願いながら、そんな恐ろしさが内蔵されているのです。アフガニスタンに生きる少年に、妹に自爆テロを命じさせてしまったのは、わたしなのかもしれません。

東京新聞のコラムを読みながら、昨年暮れに出遇ったスピーチを思い出していました。「地球サミット2012 (環境と開発に関する国際連合会議)」での、ホセ・ムヒカ ウルグアイ大統領によるスピーチです(2012年6月20日 ブラジル・リオデジャネイロにて)。
大切なスピーチであると受け止めた打村明さん(日系ユースネットワーク事務局長)が全文翻訳し、自身のブログで公開してくださいました。

ムヒカ大統領のスピーチ

頭の中にある厳しい疑問を声に出させてください。午後からずっと話されていたことは持続可能な発展と世界の貧困をなくすことでした。私たちの本音は何なのでしょうか? 現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することでしょうか?
質問をさせてください。ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。息するための酸素がどれくらい残るのでしょうか。同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億〜80億人の人ができるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?
なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのですか? 資本主義の子供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。マーケット経済がマーケット社会を造り、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。
このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で「みんなの世界を良くしていこう」というような共存共栄な議論はできるのでしょうか?
我々の前に立つ巨大な危機問題は環境危機ではありません、政治的な危機問題なのです。
人がもっと働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。悪循環の中にいるのにお気づきでしょうか。これはまぎれも無く政治問題ですし、この問題を別の解決の道に私たち首脳は世界を導かなければなりません。
昔の賢明な方々、エピクロス、セネカやアイマラ民族まで  こんなことを言っています。
「貧乏な人とは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」
これはこの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。
(紙面の関係で一部抜粋のみで申し訳ありません。「ムヒカ大統領のスピーチ」でネット検索すると、打村明さんのページに辿り着きます。全文ご精読ください)

想像の貧乏からの脱却を
貧乏とは、経済的な意味ばかりでなく、精神的な意味もあります。生活に、人生に満足できない責任を、他者に押し付けようとしています。わたしも、この世界を構成しているうちのひとりなのに。わたしがこの世を作っているとも言えるし、わたしひとりの行動から世界が変わるとも言えます。
南無阿弥陀仏

   

掲示板の人形
Dsc_0432
1月の終わり、東京は暖かな冬を迎えています。
が、2月の人形に雪だるまを用意していました。
そしたら、長女がレゴで雪をかぶった家を作ってくれたので、人形と一緒に飾ることにしました(親バカ)。

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