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2014年1月

2014年1月31日 (金)

生きていることのなつかしさに/ふと胸が熱くなる/そんな日があってもいい

詩人の吉野弘さんが、2014年1月15日に亡くなられていたとのこと。
ネットの検索で、「吉野弘」さんや吉野さんの詩「祝婚歌」が上位に出てきたので、どうしたのかな?と思いました。
祝婚歌」は以前にも紹介させていただきました。
「祝婚歌」に限らず、吉野さんの詩は、“私を私たらしめている他者(あなた)”を感じるこころに溢れています。
淋しいニュースですが、おかげで「祝婚歌」に、吉野さんにあらためて会うことができました。
南無阿弥陀仏

2014年1月26日 (日)

自分の考えに固まってしまっています

「意味分からない」
先ずは、分かろうとする気持ちから


(追記)
日常生活において、相手の話すことを、「意味分からない」(「わけわからない」「意味サッパ-」etc)と、分かろうともせずに遮断してしまうことを残念に思って、

「意味分からない」
先ずは、分かろうとする気持ちから

と書いたのですが、
都知事選が告示されてから(原発事故後からとも言えるのですが)、
読〇新聞の言っていることが、「意味分からない」状態です

2014年1月24日 (金)

ここに人がいます

気配り(きくばり)とは、
気配(けはい)を感じること

2014年1月 6日 (月)

わたしの生活を成り立たせてくださっている人たちがいます

1月2日(木)
年賀状をくださった皆様、ありがとうございます。
元日から、年賀状を通して旧交を温めることができるのも、暮れから新年にかけて、休む間も惜しんで年賀ハガキを仕分け・配達してくださっている方々がてくださるおかげです。有り難い気持ちでいっぱいです。

数年前までは、2日の配達はありませんでした。暮れに不眠不休で仕分けをして、元日に配達をして、そしてひと休みする。それが当たり前だと思うのです。
しかし、元日に届いた年賀状の中に、自分が出していなかった人からの年賀状があったとします。急いで年賀状を書くわけですが、それを投函して、3日に届くよりは2日に届いた方が良いという要望が多くて、2日も配達するようになったと聞きます(2日も配達するようになった理由は他にもあるのかもしれませんが)。
その話を聞いたとき、自分勝手な理由だなぁと思いました。年賀状を書いていなかったのは、わたし自身。それを棚に上げて、2日に配達してというのは、都合が良いような。
「年賀状を出してないことに気を悪くされたらどうしよう…」と気に病んだり、先方が、「私は年賀状出したのに、あの人からは来ない」などと怒る人ならば…年賀状のやりとりをするようなお友達とは思えませんが。こういう心配って、メールのやりとりに似ていますね。「早く返事をしなくては」と強迫観念にとらわれたり、「すぐに返事がこないなんて、今後はつきあえない」と怒ったり。人間関係って、そんなに薄氷を踏むようなものなのでしょうか。そういうところに気を遣うことなのでしょうか。あっ、年賀状の話から逸れました。
2日にまで配達してくださって、今年は5日の日曜日にまで年賀状が届きました。年賀状が私の手元に届くまで頑張ってくださった皆様に感謝です。当然、年賀状を書いてくださった皆様も。

1月3日(金)
新年早々、有楽町駅近くで大規模な火災がありました。新幹線をはじめ、JR各線は停まり、ダイヤが大幅に乱れました。
長崎から帰省していた妹家族を羽田空港に送るため、住職・坊守も一緒に空港に行く予定でしたが、JRが動かないというニュースを聞き、急きょ車に変更しました。
ニュースの映像を見ると、新幹線が走る線路の横を、火柱が立ち上っています。
ニュースでは、「新幹線が発車する時間は分からない」と言います。これだけの火事だから、「何時に再発できるか分からない」ではなくて、「本日は運休します」と決めてしまった方がいいのではないか? と思いました(ある意味無責任)。
が、昼12時30分過ぎには、復旧のニュースが。驚きました。日本の郵便事情・交通事情、最高(いいね!)と感激しました。
(ちなみに、日本の郵便配達事情が素晴らしいなと強く思うのは、20年前にインドから両親に宛てた手紙がまだ届いていないからです)
消化に携わった消防の方々、新幹線・電車の復旧に努められた方々、文句を言う乗客の対応に追われた駅員さんに、感謝の気持ちでいっぱいです。

電車も飛行機も、時刻通りに動いて、それが当たり前になってしまっています。でも、とんでもなく有り難いことなのです。
新幹線に乗るときは、飲食物を余分に買って乗るようにしています。最近は、電車に乗る際も、何かしら飲食物をカバンの中に入れています。何かあって停まっても、それがあるだけで安心です。
(実際、事故の影響で長時間停まったことは一度しか経験していないのですが、なぜかそういうときに限って、余分に買ってなかったりします。そのときは、申し訳ないと思いつつ、お土産の赤福をいただきました)
有事の場合を想定して、自分で用意しておく。乗り物が遅れても腹立てない。持ち物とこころの準備を、自らしておきたいものです。

1月5日(土)
朝起きて、門前の掃除(暮れも正月も、いつも通りの掃き掃除)
バス停に貼ってあった、「年末年始の時刻表(12月28日~1月4日)」がはがされています。
4日の運行を終えて、夜中、バス会社の方がはがして回ったのですね。当然、それに先立って、時刻表を貼る作業もされていたわけです。
地道な作業をされた方々、年末年始も運転手として勤められた方々。おかげで、出かけることができるわけです。ありがとうございます。


わたしの生活を成り立たせてくださっている人たちがいます。
誰にも気付かれることなく、感謝されることもなく、一生懸命働いてくださっている人たちがいます。
「お金を払っているんだから、働いて当たり前」なのでしょうか。
「私の代わりに勤めを果たしてくれている」のです。
その代償に、お金を払うことしかできないわたしです。
「予定通り働いて(上手くいって)当たり前」なのでしょうか。
感謝の気持ちを忘れていながら、ミスがあれば途端に怒声を浴びせる。
イライラのはけ口を、全く関係ない人に向けてはいませんか。
働いている人たちだけでなく、家族も、友人も、わたしの生活を成り立たせてくださっていました。

他者(ひと)に変わることを求めるけれど、
まずは自分が変わることに努めてみてはいかがでしょう。
決して、丸いこころになれとか、優しい人間になりましょうなどと言っているのではありません。
そんなことが出来たら、とっくに出来てますから。
ほんのちょっと見方を変える、ほんのちょっと考え方を変える、ほんのちょっと立ち止まってみる。
ほんのちょっとの積み重ねで、生きにくい世の中が、変わるはずです。

(追記)
「つみかさね」と打ったら、「罪重ね」と変換されました。
目から鱗です。
「わたしの生活を成り立たせてくださっている人たちがいます」と書きました。
そのことを考えると、「罪を重ねて生きているわたしを、認めてくださっている人たちがいる」ということです。
「罪重ね」て生きているわたし。その自覚によって、「生きにくい世の中」が、「生きにくい世の中を作っているのはわたし」であったと、景色が一変します。
新年に立てた誓いや目標は、すぐに忘れてしまうものですが、でも、こころの片隅に置いていきたいと思います。
南無阿弥陀仏

2014年1月 1日 (水)

2014年1月のことば

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どれほど道があろうと
自分が登るとなると ひとつです

                 平野 修

私の人生を歩めるのは、私だけ
目の前に広がる道。どのような道でしょうか? 選択肢がいくつもあって、枝分かれしているでしょうか。
受験や就職や結婚等々、いろいろなことを、その都度決断しながら生きてきた。で、ふと振り返るときがあります。「あのとき、別の道を選んでいたら、どうなっていただろう…」
そういうときって、たいてい後悔しているとき。だから、「あのとき、別の道を選んでいたら…」と、ありもしない道を想像してしまう。
自分で選びながら生きてきたつもりでいるから、他にも道があったかのように錯覚してしまう。けれど、元々別の道なんてなかった。私が歩んできた道、その道ひとつこそが、私の人生。
目の前には、枝分かれした道が広がっているようだけれど、振り返ると一本道だった。私は、この道を歩んできたし、これからも歩み続ける。

道と道 いのちといのちの交差点
平野先生が、「どれほど道があろうと 自分が登るとなると ひとつです」と言われたのは、人生を振り返る人が多いからなのかもしれません。つらく、悲しく、淋しく、今を生きている人がそれだけ多いのですね。
目の前に広がる選択肢の中から、悪い状況を招きそうな道を選ぶ人は、そうはいないと思う。誰もが、明るい未来・楽しい人生を期待して道を選んでいることでしょう。 
そうはいっても、人生、思い通りに展開するわけはなく、どのように転ぶか分かりません。より良い道を選んだつもりが、最悪の事態を招くこともあります。その逆もしかり。しかし、良い道・悪い道と表現しましたが、良いとか悪いとかって、私がそう考えているにすぎません。
私が登る(歩む)道はひとつですが、それぞれにひとつの道を歩んでいる、多くのいのちと関わりを持ちながら、 わたしは生きています。
道と道(いのちといのち)とが交差する中を、私は生きています。私の想いで考えている「良い・悪い」を超えた事柄が、私の人生の中に生じます。

  平野修さん(1943~1995) 
   石川県松任市(現、白山市)生まれ
   真宗大谷派明證寺前住職
   九州大谷短期大学教授
   西蓮寺住職の、大谷大学時代の同級生

すべての事柄は、縁によって起こる
仏教では「縁」を説きます。善因善果・悪因悪果…「善い行いをすれば善い結果が、悪い行いをすれば悪い結果が訪れます」などと説かれれば分かりやすいかもしれませんが、現実はそんなに単純なものではありません。
昨年、食品の偽装事件が数多く発覚・告白されました。その事件を受けて、「悪いこと(偽装)をした業者は、悪い結果(信用を失う)を負って当然だ」という文章を、暮れにいくつか目にしました。
私は思います。偽装をしたのは、求める人がいたからだと。質の高いものを食べたい、ブランドものを口にしたい、しかも、できるだけ手頃なお値段で。あるいは、偽物と分かっていながら、ブランド品を購入する人もいます。より良い物を口にしたい、手にしたいという消費者の要望に、真摯に応えようと努めてくださる業者さんもいることでしょう。要望(欲望)につけ込んで、偽装を行った業者さんもいることでしょう。
「悪因悪果」で他者を裁くのは簡単です。しかし、そこに私はいません。私も、「悪因悪果」の一因(一員)なのに。「縁」を生きているのですから。
お釈迦さまがお説きくださった「縁起の道理」は、「悪いことをした者には、悪い結果が訪れます」という戒めや警告などではなく、数え切れないほどのいのち・様々な状況の中を生かされているという現実(真実)を明らかにしてくださっています。

他力の中にあるからこそ、自力を尽くすことができる
数え切れないほどのいのち・様々な状況との遇縁(ぐうえん…縁に出遇う)の中を生かされている私。私の想い・希望・夢に反したことが起こります。しかし、それも含めて、私の歩む ただひとつの道。楽しいことばかりではありません。悲しいことも、つらいことも起こります。私の胸に刻まれるのは、楽しいことよりも、悲しいことの方が多いし深いです。しかし、刻まれた傷は、悪いことを為した結果なのではなく、多くのいのちの一員であるということの証でもあります。
つらく悲しい現実を、今、現に私は生きています。それは、私を生かそう生かそうと、守り励ます力がはたらいているから。そのはたらきを阿弥陀といいます。だからこそ、私は大地に足をつけて立っています。阿弥陀のはたらき(他力)があるからこそ、私は大地に足をつけ、いのちを尽くすことができます。思いっきり迷うことができます。
2013年、戦争にむけて舵を切り始めてしまった日本。今年、日本は、私たちはどこに向かうのでしょう。
今後、戦争を起こしてしまったら、それは、一部のこころない為政者だけが為したことではなく、私たち一人ひとりも関わりを持ったことです。2014年、必死に考え、いのちがけで迷いながら生きましょう。
未来を生きるいのちに、「あのとき、別の道を選んでいたら…」などと言わせないために。

   

掲示板の人形
Dsc_0300
毎年1月は干支人形 今年は午(うま)年
2014年 本年もよろしくお願い致します

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