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2013年12月 1日 (日)

2013年12月のことば

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如是我聞(にょ ぜ が もん)
私の中に 新しい世界が生まれてきました

このように、私は聞きました
お経は、「如是我聞」あるいは「我聞如是」で始まります。
「このように、私は聞きました」という意味になります。
お釈迦さまがお亡くなりになった後、お釈迦さまのお説法が散逸しないように、異なって伝わることのないように、教典の編纂会議が開かれました。その編纂会議のことを「結集(けつじゅう)」といいます。結集の中心には、お釈迦さまのお話を一番聞いたといわれる 阿難(アーナンダ)尊者が選ばれました。「多聞第一」のお弟子さんと言われています。
阿難尊者は、自分が聞いてきたお釈迦さまのお話を、一字一句 漏らさず語ります。その語り出しが「このように、私は聞きました」なのです。
「お釈迦さまは、このように仰いました」ではなく、「このように、私は聞きました」と、述懐される阿難尊者。そこには、大きな違いがあります。「ある偉い人が、こういうことを言っていました」という言い方は、偉い人が言っていたから「へぇ~、そうかぁ」と頷いているだけで、ことばが自分の胸に突き刺さったわけではありません。他人事です。「このように、私は聞きました」というのは、お話をどのように受け止めたかということを、聞いた者の責任として語り出しているのです。ことばが自分の胸に突き刺さり、まさに自分事として受け止めた告白なのです。

私の中に 新しい世界が生まれてきました
今年の西蓮寺報恩講にて、ご法話の海法龍住職が、ある中国人留学生のお話をしてくださいました。
その留学生は、仏教徒ではないので、仏教の素養はありませんでした。でも、「『如是我聞』ということばを知っていますか?」と尋ねたところ、「えぇ、知っています」と応えました。
先に書いたとおり、「如是我聞」とは、「このように、私は聞きました」という意味です。しかし、その留学生は…
「えぇ、知っています。『私の中に 新しい世界が生まれてきました』という意味です」と応えたのです。ことばの持つ世界を、広く深く表現されたことばだなぁと感じました。

「わかる」とは「かわる」ということ
わたしは、他者(ひと)の話を自分得手に聞き、自分に都合の良いように受け止めてしまいます。そんなわたしが、「このように、私は聞きました」と言った場合、それは自分に理解できる範囲で受け止めただけのことです。自分の中で何の変化もないのに、「このように、私は聞きました」と言っても、それは報告に過ぎません。
お話を聞いて「わかった」と言えるのは、お話を聞いただけのこと。そのときはスッキリしているけれど、そのまま忘れてしまいます。
お話を聞いて、「納得出来ない!」とか「どういうことだろう?」とか、何かこころの中に引っかかることがあったとき、その想いは種となります。そして、人生において壁にぶつかったとき、「以前の私なら 納得出来なかったけれど、今ならわかる!」「あっ、あのときのお話は、こういう意味があるのかな?」と、種から芽が出る瞬間(とき)が、いつかきっとあります。
子どもの時は、親や大人の声を素直に聞けなかったけれど、自分が大人になったとき、その声の意味がわかることがあります。年を経て、自分がかわり、わかることがあります。
公共の場で泣く赤ちゃんに、「うるさい、親は何をやっているんだ。泣き止ませろ!」と赤ちゃんの存在を受け入れられないほど、現代はイライラが貯まっています。自分も赤ちゃんだったのに。そんな当然のことに想いが至れば、その空間は柔らかくなります。自分の想いがかわれば、目の前にいる人と場を共有している自分であるということがわかります。

私には4才と2才の娘がいます。絵本を読み聞かせてあげたくて、長崎にあります童話館と、落合恵子さん主宰のクレヨンハウスの、毎月絵本が届くサービスを利用しています。
本屋さんで絵本を買う方法もあります。しかし、それでは親の好みで絵本を選ぶことになってしまいます。親が納得いった絵本、面白いと思った本ばかりを、子どもたちに押し付けることになります。
童話館とクレヨンハウス、それぞれのスタッフさんが絵本を選び、読者の声を聞いて、さらに試行錯誤を重ねて絵本を選んでくださっています。つまり、親の好みに関係なく、自分では手に取ることもなかったであろう絵本との出会いがあるわけです。
自分ではない誰かが、子どもたちの笑顔を想像しながら選んでくださった絵本。自分の好み(わかる)を超えた絵本が届くたびに、子どもたちだけでなく、親にも新しい発見(笑顔)を届けてくれます。
理解できるということも大切ですが、自分の理解を超えたものとの出遇いは、新しい発見と芽生えがあります。

やまない雨はない でも…
最近、想うことがあります。
つらい思いをしている人、困難な状況に置かれている人に、「やまない雨はない」とか「明けない夜はない」とか「冬を越えれば春が訪れます」という励ましのことばがあります。
でも…晴れても、また雨は降ります。夜が明けて日が昇っても、また日は沈みます。冬を越え、春が訪れ、夏を迎え、秋を感じ、 また冬はやって来ます。
雨の日に晴れを求め、闇夜の晩に夜明けを待ち望み、厳しい冬の寒さの中で春を思い描く。しかし、夜は夜・雨は雨・冬は冬なのです。実際の夜・雨・冬は、時が経てば確実に移りゆきます。しかし、人生における夜・雨・冬は、いつまで続くのかわかりません。
雨の日には雨の日の過ごし方(生き方)があります。家に留まったり、雨宿りをしたり、傘を差したり。自分の思い通りのことはできないかもしれないけれど、雨をしのがせてくれるものが、ちゃんとあります。闇夜の晩には、ほのかな灯明が。寒さ厳しい冬には、湯呑み 一杯のお茶でさえもからだを暖めてくれます。
傘を差していても、濡れることはあります。ほのかな灯明よりも、朝日の方がからだを目覚めさせてくれます。湯呑み一杯のお茶よりも、春の訪れこそ心身共にワクワクさせてくれます。そんなことはわかっているのです。でも、晴れを、夜明けを、春を期待するあまり、既に手にしている大切なものを見失ってはいないでしょうか?
教えを聞くということは、「あなたが手に持っているものは何ですか?」という呼びかけを聞いているのかもしれません。「あっ、こんなに大切なものを手にしていたんだ」という発見があります。大切なものが見つかったら、私の中に、新しい世界が生まれてきました。

   

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