NHK 朝の連続テレビ小説「あまちゃん」が終わりました。私は、見たり見なかったりだったのですが、すっかりはまってしまった妻から、ストーリーを聞くことが日課になっていました。しかし、最終週はシッカリ見届けました。 鈴鹿ひろ美さん(薬師丸ひろ子さん)が歌うシーンは感涙ものでした。すばらしかった!!
2013年10月10日の読売新聞朝刊に、「あまちゃん」の主人公 天野アキちゃんのお母さん 天野春子役の小泉今日子さんの寄稿“「あまちゃん」を終えて”が載っていました。
寄稿の中で、こころに残ったことば
若者達が夢を持ちにくい時代なのだと何かで読んだ。
ひとりの大人として申し訳なく思う。
今月、お寺の掲示板に、宮崎駿監督の「この世は生きるに値する」というメッセージをを掲示しました。
「そうだ、そこ(この世は生きるに値する)に立った上で、生きねばならないのだ。生きられるのだ」と私は思ったから、掲示しました。
しかし中には、こんなに政治も経済も人のこころもメチャクチャな時代が、どうして生きるに値すると言えるんだ!!と憤った人もいるかもしれません。つまり、メチャクチャな時代の責任を、他に押し付ける人もいるかもしれない。そんな世に、「ひとりの大人として申し訳なく思う」と寄稿された小泉今日子さんは、キチンと自分の責任として受け止めておられるのだなぁと感じました。
小泉今日子さんは、続けて書かれます。
夢なんかなくても、夢に破れても、何者にもなれなかったとしても、若者はのびのびと元気いて欲しい。
それだけで私達大人にとっては希望なのだから。
若者達が夢を持ちにくい時代を作ってきてしまった。そのことを申し訳なく思う。しかし、夢や希望は、大人が作って若者に託すものではない。若いいのちは、自分の人生において、夢や希望を自ら生み出すものです。その輝きに、大人はかえって励まされる、希望を見いだす。アキちゃんとユイちゃんが走りだすラストシーンは、まさに夢や希望に満ちあふれていました。
当ブログ 10月3日(木)に投稿した文章 「子どもたち(いのち)は希望に満ちています」で紹介した 佐々木道範さんのことばを思い返しました。
「子どもに希望を見せられない」と大人は言うけれど、子ども(いのち)は希望に満ちています。
希望は、与えるものではなく、与えられるもの。すでに与えられているもの。
感じるこころを失うと、この世が生きるに値するとは思えない。
感じるこころを大事にしている人が教えてくれました。
「世の中捨てたもんじゃない」(佐々木道範さん)って。
(追記)
この世を憂い、憤っている人へ
『大人のいない国』 鷲田清一・内田樹(文春文庫)より
内田樹さん
格差論やロストジェネレーション論の類を読むと、僕はちょっと悲しくなってくるんですよ。書いているのは30代や40代の人なんだけど、それだけ生きているということは、もう立派にこのシステムのインサイダーですよね。この世の中のシステムがうまく機能していないことについては、彼らにも当事者責任があると思うんです。だから、そんなに簡単に「こんな日本に誰がした」みたいな言い方はできないと思うんですよ。でも、彼らの議論はいつも「自分は純然たる被害者である」という不可疑の前提から出発している。自分たちの社会システムが不調であることに対しては、自分にはまったく責任がないと思っている。「責任者は誰だ?」という犯人捜しの語法で社会問題を論じる人間はみんなそうですね。彼ら自身が久しくこの社会のフルメンバーであり、その不調に加担しているという意識が欠落している。でも、自分の属する社会の現状にまったく責任がないというのは「私は子どもです」と宣言していることと同じでしょう。