« 普遍的であり、一人のためのもの 一人のためのものであり、普遍的⑥(了) | トップページ | 今、日本で起きていること これから起きようとしていること »

2013年7月 1日 (月)

2013年7月のことば

Scan0003


限りない いのちに遇って 限りある身を尽くす
                           金子大榮
 
想像してみてください
私に至るまで続いてきたいのち。私の後も続いていくいのち。つながる いのちといのち。時間を生きる私。
横に手を広げてみてください。どこまでも、どこまでも、つながる人と人。人は、一人では生きられない…のではない。人は、一人では生きていない。空間を生きる私。
   
 時間と空間の交差する中に誕生したいのち
 無量の寿(いのち)・無量の光…阿弥陀に包まれている いのち
   
南無阿弥陀仏
 阿弥陀仏に南無(帰依)します。
 阿弥陀仏は、「限りない いのち」を意味します。
 阿弥陀仏の別名「無量寿」「無量光」。
 「無量寿」…始めも終わりもない、長いいのちの時間
 「無量光」…際限が無い、広いいのちの空間
 人知を超えた時間と空間 限りないいのち 阿弥陀仏
 その阿弥陀仏をよりどころとして生きますという告白が南無阿弥陀仏
    
限りない いのち(阿弥陀如来)に生きる、限りある我が身。
限りない いのちに、海を想います。果てが見えないほどに広く、大きく、深い海。海には、数え切れないほどのいのちが生きています。海から、無数のいのちが生み出されています。陸上を生きる私も、いのちを辿ると、海に生きていました。海は、いのちの母です。
ふと、詩人の三好達治さんの詩を思い出しました。
  
 海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。
 そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。
   
僕らの使う漢字には、「海」の中に「母」がいます。そして、フランス人の使う言葉には、「母(mere)」ということばの中に「海(mer)」があります。海に母性を見る眼に、洋の東西はありません。
   
海を讃えるいのちはあるけれど、いのちが海を讃えるに先立って、母なる海が存在する。だからこそ、海を愛する人がいる。
母に感謝する子はいるけれど、子が母に感謝するに先立って、子を慕う(おもう)母がいる。だからこそ、母を思慕する人がいる。
南無阿弥陀仏と念仏申す衆生が誕生するけれど、念仏者の誕生に 先立って、あなたをすくいたいと願う阿弥陀仏がいる。だからこそ、南無阿弥陀仏と、念仏の声が出る。
   
すでに身を尽くして生きている我が身
 私という「点」は、
  始めも分からぬ昔から、終わりも見えぬ未来まで、
  ながいながい時間の流れと、
  どこが中心で どこが果てかも分からない、
  ひろいひろい空間の広がりと、
 それらが交差する、ありえるはずのない「点(いのち)」
 その、ありえるはずのない「点」が、私となって生きている。
 私は限りある「点(いのち)」だけれど、
 限りない「線(いのち)」に生きている。
   
ありえるはずのない「点(いのち)」を生きている私。私がどのように身を尽くそうと、いのちは、すでに身を尽くして生きていました。
すでに身を尽くして生きているいのちだからこそ、いのちの母なる阿弥陀仏に、「南無阿弥陀仏」と手が合わさります。
娑婆世界、お金の腐心で手を合わせることはあるけれど、やはり、母に手を合わすのは、感謝の気持ちから。手を合わせて、感謝の気持ちを示しているのではなくて、感謝しているから、手が合わさります。
   
いのちに遇う
時間と空間の織り成すいのち。他者(ひと)も自分もつながっています。
ということは、私が成した行いによって、恩恵を受ける人がいれば、不快な思いをする人もいます。あるいは、誰かが成した行いによって、「助かった」と思うこともあれば、「困った」と思うこともあるということ。
可愛い我が子を想うとき、同時に、他の子が見えなくなっている現実があります。我が国を愛するとき、同時に、よその国を見下している現実があります。我が欲を通すとき、同時に、他のいのちを奪っている現実があります。そんな現実の中で、つながりを生きている私にも、やがて、同時に、何かが起きます。
「不幸が続いて、災いが続いて困っています。何かが原因でこうなっているのでしょうか?」と尋ねられるけれど、それは、現実(いま)を生きているから。誰かが祟って、あなたに降りかかることはありません。
「この人に会えて良かった」「みんなから力をもらっています」と喜べることもある反面、「こんな奴に会いたくなかった」「騒々しいのは嫌いだ」と思うこともあります。それも現実であり、いのちの姿です。
「いのちに遇う」…「遇う」とは、すべての人々・事柄・出来事などとの 出遇いを意味します。出会えて良かったと喜べる出会いばかりではなく、つらいことも、悲しいことも。それらすべて引っくるめて、「出遇い」です。 けれど、その出遇いの中こそ、私が生きる場であり、限りある身を尽くす大地です。
すべての人々・事柄・出来事との出遇いは、私ひとりではとても引き受けられるものではありません。けれど…
時間と空間が交差する いのちを生きるゆえに、喜怒哀楽を尽くし、時間と空間が織り成す 限りない いのちの大地(阿弥陀仏)に立っているゆえに、身を尽くすことが出来るのです。
つらく悲しい現実を生きる私に、同時に、私を生かすはたらきが注がれています。そのことに気付いていないだけ。おしえに触れるということは、はたらきに目覚める眼を与えられるということ。マイナスしか見えない、自分が可愛いメガネは、つながっている現実に出遇えたとき、マイナスも プラスも感じられる眼に変わります。生涯聞法を尽くしましょう。限りない いのちに寄り添われている、限りある身を尽くしましょう。
    
限りある身を尽くす
「限りある身を尽くす」とは、「限りがあるいのちを生きているのだから、悔いが残らないように、一生懸命に生きなければならない」ということではありません。
そのように思っていると、思い通りにならない現実に、こころがポキンと折れてしまいます。一生懸命に生きられない自分に気付いたときに、我が身を卑下し、自ら限りをつけてしまいます。
「限りある身を尽くす」とは、「生きる」ということ。代わる者の無い いのちを、今、私は生きています。
「限りある身を尽くす」…懸命に頑張らなくていい。休んでいても、座っていても、寝ていても、念仏の声が出ます。出遇いの中、念仏に生きる。 南無阿弥陀仏
         
※金子大榮(かねこ だいえい)
   1881年~1976年 真宗大谷派僧侶
    
   
    
今月の文章は、私のイメージの世界を、頑張って文章にしました。
だから、全然伝わらないかもしれないし、今更なに?(つまり、共有できてるということ)かもしれません。
意味を解釈するのではなくて、自分の中で、イメージを膨らませながらお読みください。
   
掲示板の人形
Dsc_0125
金魚救い
 
Dsc_0396
人形一番左の“くまモン”は、6月に福岡に行った際に買ってきました(熊本までは行ってませんが)。
ソーラーパワーで両手を動かし続けています。

« 普遍的であり、一人のためのもの 一人のためのものであり、普遍的⑥(了) | トップページ | 今、日本で起きていること これから起きようとしていること »

コメント

絶対的な善を追い求めつづけ、絶対的な善を実現しようと欲しながら、厚みを突き抜けて行為を実現した後に、たえず「私は正しくない」と呟きつづけること、これを生きているかぎりいつまでも繰り返すこと、それがわれわれにできるせいぜいの道徳的態度なのである。

中島義道 『どうせ死んでしまう…』

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 普遍的であり、一人のためのもの 一人のためのものであり、普遍的⑥(了) | トップページ | 今、日本で起きていること これから起きようとしていること »

フォト
2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ