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2013年7月

2013年7月29日 (月)

談合…面と向き合うこと

朝日新聞に、外山恒一さん(活動家)の特集記事(2013参院選 勝ったのは誰だ)がありました。
外山恒一さんは、2007年の東京都知事選に立候補されたことが特筆されていますが、まったく存じ上げませんでした。
記事の中で、「なるほどなぁ、そっかぁ」と頷いたことがあったので、ご紹介させていただきます。

        
「ネットで熟議が起きるなんて幻想です。違う意見の人とネット上で出会っても罵倒しあうだけです。対面だったら殴り合いになるのを避けようと、妥協したり相手を説得する理屈を考えたりしますが、ネット上だと殴れませんから」
〔「朝日新聞」 2013年7月27日(土)より〕  

       
先日の参議院議員選挙は、ネットによる選挙活動解禁がされ、その成果が注目されもしました。
山本太郎さんが当選したのは、ネットで自分の想いを発信し、想いに共感した人々が全国からボランティアとして集まり、山本さんをサポートしたと聞きました。
お金のある党は、さっそくネット活動専門の部署を作り、党の訴えをリアルタイムに、ダイレクトに、多くの人に届けることに苦心していました。
お金をかけられない立候補者も、仲間に、活動の様子・メッセージをまめにネット配信をしてもらっていました。


ネットを活用することによる、それなりの成果はあったのかもしれません。
しかし、ネットは、思っているほどメッセージが広がっていくものではないと感じます。盛り上がっているように感じても、実は関わっている人だけが知っていることで、世間的には話題にすらなっていなかったり、ということもよくあります。
テレビやラジオ、新聞など、古い情報源と位置づけられているツールの方が、実は情報が広がります。

ネットは便利であり、買い物・資料収集・情報収集に重宝しています。が、その資料・情報が普遍的なものと思い込んでしまうと、大間違いです。知れば知るほど、全体が見渡せなくなってしまいます。
また、自分好みの情報は熟読するけれど、自分の意見に合わない情報は、さっさとページを変えてしまいます。テレビもチャンネルを変えるし、新聞も飛ばし読みすることもありますが、嫌だと思いながらも、情報がすり込まれていたりもしますが、ネットはそういうことはないような。
あるいは、自分の意見に合わない情報や発信主に対し、罵声を浴びせ(ほぼ匿名にて)、炎上させてしまうということも、多々聞きます。
議論や話し合い、それらを経ることによって、新しい考え方・自分では思いもつかなかったことがひらめくということがあるものですが、ネットではそれも難しいのでしょうね(皆無だとはいいませんが)。

「ネット上だと殴れませんから」とありますが、ネット上だと関わりを持つことから逃げることができますから。だから普及しているのかもしれませんが。

私も、他者(ひと)と意見を戦わせること・面と向かって話をすることが苦手です。でも、話し合っているうちに、自分ひとりで考えていたのでは思いつきもしない考えに出会えることがあることを知っています。
面と向かって話していて(面と向き合っているからこそ)、罵倒したり殴り合ったりということもありますが、他者(ひと)を前にしての喧嘩とネット上での喧嘩は、温度が違います(体温を感じるか、まったく感じないか)、痛みが違います(殴った自分の手も痛いか、まったく感じないか)。
体温や痛みを感じないツールの普及は、これから何を生み出すのだろう?
「国民の生活を第一に考えています」と連呼しても、体温や痛みを感じることなく言っていても、相手に伝わりません。体温や痛みを感じることを忘れないでください。
議員さん(立候補者)だけでなく、ネットが生活の中に入り込んでいる私達自身の問題です。

2013年7月22日 (月)

これから これから

低投票率と自公圧勝…予想していたとはいえ、現実を目の当たりにして、頭を抱えています。
が、下を向いてばかりではしょうがない。前を向いて進もう。山本太郎さんではないけれど、これからがスタートです。
   
政治そのものに関すること、あるいは、原発・憲法・沖縄・TPPなど自分の関心事。
今まで気にも留めていなかったことに目を向け始めた人が出てきたはず。
選挙が終わって、それで終わりではありません。
せっかく気になり始めたのだから、せっかく関わりを持ち始めたのだから、これからも関心を持ち続けましょう、考え続けましょう。
選挙が告示されてから投票するまでが、参政権ではないのだから。
 

2013年7月19日 (金)

参政権

国会議員を選んでいるのは(国会議員に限らないけれど)、
“投票をした人”と思っていたけれど、
違いました。
“投票をした人”と“投票をしなかった人”が選んでいるのでした。
   
それならば、投票をした方がいいと思います。
    
普段はなにかと権利の主張をするのに、
参政権という権利を使わないのは、なぜでしょう。
(「使わない権利もある」という人もいることでしょうが)。
    
昨日、期日前投票に行ってきました。
   
そうだ、投票、行きましょう!!  

   
       
本日(7月19日)の東京新聞一面で、スタジオジブリ発行の小冊子『熱風』が、ネットにて期間限定で読めると書いてありました。
特集は「憲法改正」について。
無料配布の冊子らしいのですが、特集に対する関心が高かったのか、すぐに無くなり、「読みたい」という問い合わせが多かったそうです。参議院議員選挙前に読んで欲しい内容だったということもあり、ネットでの配信をされたそうです。
配信期間は8月20日18時まで。
無断転載、無断リンク禁止なので、ここでは紹介のみ。
「スタジオジブリ」で検索してください。出版部のサイトから原稿をお読みいただけます。

2013年7月 8日 (月)

今、日本で起きていること これから起きようとしていること

2013年7月4日参議院議員選挙公示 7月21日(日)投開票
 
自由民主党 安倍総裁は、福島市から遊説を始めた。東日本大震災からの復興を目指すとアピール。
しかし、福島の復興を訴えながら、福島に生きる人の声が踏みにじられました。

福島県二本松市で、子どもたちを、家族を、仲間を守りながら生活をしている朋がいます。
朋は、安倍首相の遊説を聞く民衆の中の一人として、その場にいました。「首相、あなたのご意見を、あなたの口からハッキリお聞かせください」という想いで、「総理、質問です。原発廃炉に賛成? 反対?」というプラカードを手に持ちながら。
野次をとばすでもない、演説を遮るでもない。にもかかわらず、自由民主党関係者は彼女を取り囲み、プラカードを没収し、「後で返すから」と、住所・氏名連絡先を尋ねました。
   
朋に対しての行動に憤りを感じます。しかし、そのことは私の個人的な想い。
皆さんに知って欲しいのは、今後、憲法が、自由民主党が発表している憲法改正草案に改憲された場合のことです。
日本国憲法 第21条は、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と、あります。その現行憲法に「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」という条文が、草案には追加されています。
「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動」…権力を持つ者が、それだと判断してしまうと、国民は「言論、出版その他一切の表現の自由」を奪われてしまいます。
この度のプラカードの一件、憤りを感じますし、当然、現憲法下では、行き過ぎの対応です。
しかし、もし、現在政権を担っている党が発表している 草案通りに改憲された場合、プラカードの没収は当然のこととなり、没収だけでは済まなくなるのかもしれません。
こんな影響力皆無の当ブログだって、閉鎖させられることになります。
 
有り難いことです。
「憲法が改正されたら、こんな国になりますよ!!」って、自ら示してくださっているのですから。
     
私は、自由民主党が、朋に対して行った行為に憤っています。
しかし、その怒りをここで爆発させているわけではありません。
あるいは、投票の誘導をするつもりもまったくありません。
上記の文章を書いている時点で、誘導性があるかもしれないことは認めます。ここで書いて良いのかどうかも悩みました。でも、書きます。
なぜならば、
憲法が改正されるということの意味を、個々に考えて欲しいから。
憲法が改正された後の世界を、個々に想像してみて欲しいから。
原発事故による影響で苦しんでいる人の姿、その多様性を知って欲しいから。
     
   

(7月10日追記)
コメントをくださった皆さん、ありがとうございます。反響の大きさに驚いています。それだけ今回の一件、いえ、自民党の動きに対して危惧を抱いている方の多さを感じます。今回の参議院議員選挙が終わるまで、この関連の文章は、ここに追記していこうと思います。

①いただいたコメントから
 「白山(勝久)さんも取り囲んだのは自民党関係者と書かれていますが、
 公安ではないでしょうか。スーツ姿の男たちのことです。
 男の一人は女性に対し
 「青いジャンバーを着たかたが自民党のかたですから・・・」と話しかけています。
 ということは自民党員ではないということでしょう。公安だと思います。
 しかし、そうするともうひとつたちが悪いことになります。
 公安が自民党のために表現の自由を妨げたことになります」
   
ご指摘ありがとうございます。私は本文で、「自由民主党関係者は彼女を取り囲み」と書きましたが、「自由民主党関係者」という点に関しては、事実と違う面があったのかもしれません。ただ、「誰」なのか分からないのが現状です。それにしても、コメントくださった通り、「自由民主党関係者」よりも「公安」である方が質が悪いです。私達民衆に管理の目を光らせているということですから。
  
②プラカードを没収したのは誰なのか? 何故そのようなことをしたのか? 弁護士さんが立ち上がってくださいました。
 「白山くん、これ見ましたか?
  http://www.ustream.tv/recorded/35564059
  130709_表現の自由侵害行為についての記者会見
と、映像を教えてくださった方もいらっしゃいます。ありがとうございます。
冒頭の8分ほどをご覧いただけば、安倍首相の演説の最中の出来事を知ることが出来ます。

2013年7月 1日 (月)

2013年7月のことば

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限りない いのちに遇って 限りある身を尽くす
                           金子大榮
 
想像してみてください
私に至るまで続いてきたいのち。私の後も続いていくいのち。つながる いのちといのち。時間を生きる私。
横に手を広げてみてください。どこまでも、どこまでも、つながる人と人。人は、一人では生きられない…のではない。人は、一人では生きていない。空間を生きる私。
   
 時間と空間の交差する中に誕生したいのち
 無量の寿(いのち)・無量の光…阿弥陀に包まれている いのち
   
南無阿弥陀仏
 阿弥陀仏に南無(帰依)します。
 阿弥陀仏は、「限りない いのち」を意味します。
 阿弥陀仏の別名「無量寿」「無量光」。
 「無量寿」…始めも終わりもない、長いいのちの時間
 「無量光」…際限が無い、広いいのちの空間
 人知を超えた時間と空間 限りないいのち 阿弥陀仏
 その阿弥陀仏をよりどころとして生きますという告白が南無阿弥陀仏
    
限りない いのち(阿弥陀如来)に生きる、限りある我が身。
限りない いのちに、海を想います。果てが見えないほどに広く、大きく、深い海。海には、数え切れないほどのいのちが生きています。海から、無数のいのちが生み出されています。陸上を生きる私も、いのちを辿ると、海に生きていました。海は、いのちの母です。
ふと、詩人の三好達治さんの詩を思い出しました。
  
 海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。
 そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。
   
僕らの使う漢字には、「海」の中に「母」がいます。そして、フランス人の使う言葉には、「母(mere)」ということばの中に「海(mer)」があります。海に母性を見る眼に、洋の東西はありません。
   
海を讃えるいのちはあるけれど、いのちが海を讃えるに先立って、母なる海が存在する。だからこそ、海を愛する人がいる。
母に感謝する子はいるけれど、子が母に感謝するに先立って、子を慕う(おもう)母がいる。だからこそ、母を思慕する人がいる。
南無阿弥陀仏と念仏申す衆生が誕生するけれど、念仏者の誕生に 先立って、あなたをすくいたいと願う阿弥陀仏がいる。だからこそ、南無阿弥陀仏と、念仏の声が出る。
   
すでに身を尽くして生きている我が身
 私という「点」は、
  始めも分からぬ昔から、終わりも見えぬ未来まで、
  ながいながい時間の流れと、
  どこが中心で どこが果てかも分からない、
  ひろいひろい空間の広がりと、
 それらが交差する、ありえるはずのない「点(いのち)」
 その、ありえるはずのない「点」が、私となって生きている。
 私は限りある「点(いのち)」だけれど、
 限りない「線(いのち)」に生きている。
   
ありえるはずのない「点(いのち)」を生きている私。私がどのように身を尽くそうと、いのちは、すでに身を尽くして生きていました。
すでに身を尽くして生きているいのちだからこそ、いのちの母なる阿弥陀仏に、「南無阿弥陀仏」と手が合わさります。
娑婆世界、お金の腐心で手を合わせることはあるけれど、やはり、母に手を合わすのは、感謝の気持ちから。手を合わせて、感謝の気持ちを示しているのではなくて、感謝しているから、手が合わさります。
   
いのちに遇う
時間と空間の織り成すいのち。他者(ひと)も自分もつながっています。
ということは、私が成した行いによって、恩恵を受ける人がいれば、不快な思いをする人もいます。あるいは、誰かが成した行いによって、「助かった」と思うこともあれば、「困った」と思うこともあるということ。
可愛い我が子を想うとき、同時に、他の子が見えなくなっている現実があります。我が国を愛するとき、同時に、よその国を見下している現実があります。我が欲を通すとき、同時に、他のいのちを奪っている現実があります。そんな現実の中で、つながりを生きている私にも、やがて、同時に、何かが起きます。
「不幸が続いて、災いが続いて困っています。何かが原因でこうなっているのでしょうか?」と尋ねられるけれど、それは、現実(いま)を生きているから。誰かが祟って、あなたに降りかかることはありません。
「この人に会えて良かった」「みんなから力をもらっています」と喜べることもある反面、「こんな奴に会いたくなかった」「騒々しいのは嫌いだ」と思うこともあります。それも現実であり、いのちの姿です。
「いのちに遇う」…「遇う」とは、すべての人々・事柄・出来事などとの 出遇いを意味します。出会えて良かったと喜べる出会いばかりではなく、つらいことも、悲しいことも。それらすべて引っくるめて、「出遇い」です。 けれど、その出遇いの中こそ、私が生きる場であり、限りある身を尽くす大地です。
すべての人々・事柄・出来事との出遇いは、私ひとりではとても引き受けられるものではありません。けれど…
時間と空間が交差する いのちを生きるゆえに、喜怒哀楽を尽くし、時間と空間が織り成す 限りない いのちの大地(阿弥陀仏)に立っているゆえに、身を尽くすことが出来るのです。
つらく悲しい現実を生きる私に、同時に、私を生かすはたらきが注がれています。そのことに気付いていないだけ。おしえに触れるということは、はたらきに目覚める眼を与えられるということ。マイナスしか見えない、自分が可愛いメガネは、つながっている現実に出遇えたとき、マイナスも プラスも感じられる眼に変わります。生涯聞法を尽くしましょう。限りない いのちに寄り添われている、限りある身を尽くしましょう。
    
限りある身を尽くす
「限りある身を尽くす」とは、「限りがあるいのちを生きているのだから、悔いが残らないように、一生懸命に生きなければならない」ということではありません。
そのように思っていると、思い通りにならない現実に、こころがポキンと折れてしまいます。一生懸命に生きられない自分に気付いたときに、我が身を卑下し、自ら限りをつけてしまいます。
「限りある身を尽くす」とは、「生きる」ということ。代わる者の無い いのちを、今、私は生きています。
「限りある身を尽くす」…懸命に頑張らなくていい。休んでいても、座っていても、寝ていても、念仏の声が出ます。出遇いの中、念仏に生きる。 南無阿弥陀仏
         
※金子大榮(かねこ だいえい)
   1881年~1976年 真宗大谷派僧侶
    
   
    
今月の文章は、私のイメージの世界を、頑張って文章にしました。
だから、全然伝わらないかもしれないし、今更なに?(つまり、共有できてるということ)かもしれません。
意味を解釈するのではなくて、自分の中で、イメージを膨らませながらお読みください。
   
掲示板の人形
Dsc_0125
金魚救い
 
Dsc_0396
人形一番左の“くまモン”は、6月に福岡に行った際に買ってきました(熊本までは行ってませんが)。
ソーラーパワーで両手を動かし続けています。

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