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2013年6月13日 (木)

誰もが持っている豊かさ…感じるこころ

東京は、昨日今日と雨。
昨日の西蓮寺聞法会、雨の中をご聴聞にお出かけくださいました皆様、有り難いことでございます。
 
昨日は、「豊かさ」についてのお話。
経済的・物質的な豊かさを求めてきて、その結果が現代(いま)だとするならば、果たして、求めてきた豊かさとはこのようなものだったのでしょうか? 
 
どんなに豊かになったとしても、その豊かさの背景で苦労している人・犠牲になっている人がいることに想いを馳せないならば、それを“豊か”というのだろうか。
ゴミをポイ捨てし、平気な人がいる。後日、ポイ捨てした同じ所を通ったとき、ポイ捨てしたゴミはありますか?(残っている場合もあるけれど) ゴミを片付けてくれている人がいるのです。
たとえゴミ箱に捨てたゴミでも、そのゴミを回収してくれる人がいます。場合によっては、分別をしてくれています。ゴミは、自分の家に持ち帰って捨ててもいいのではないでしょうか?
ゴミ、ゴミ、と書いたけれど、果たしてゴミなのだろうか? まだまだ使えるものを、ゴミと称して捨ててはいないだろうか。その、“ゴミ”と称されたものを作るのに、どれだけの人の手がかかっていることだろう。
 
自分の犯した迷惑を、他の誰かが尻ぬぐいしてくれている…ということばかりではありません。
食事をするにしても、私が今着ているものも、移動の際の交通手段も、電気のある暮らしをしていることも、何を見つめても、私以外の人のお世話になっているものです。
「自分は一人で生きている」「人との交わりが鬱陶しい」などという声を聞きますが、人と人との交わりがあるからこそ、その中を生かさせていただいている私でした。
 
そういう背景を想像してみましょう。その背景こそ、「南無阿弥陀仏」なのだと感じます。

豊かさとは、
そういうこと背景に想いを馳せられるこころ
想いを馳せ、いろいろと感じるこころ
そのようなこころの動きが、豊かさなのではないでしょうか。
経済的に、物質的に ものがあふれるというのは、“豊か”というのとは、別物なのでした。
たとえ経済的・物質的に物がなくても、感じることは誰もができます。

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