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2013年6月

2013年6月26日 (水)

普遍的であり、一人のためのもの 一人のためのものであり、普遍的⑥(了)

タイトル:対機説法
   
自分の悩みに直接していなくても、おしえに触れていれば、そこからなにかしらの気付きがある。
この おしえは、この悩みに対してのもので、あの おしえは、あの悩みに対するもの…などと分類されるものではなく、おしえを聞いて、そこから自分の悩みに引き当てて、個々それぞれが、「あぁ、そういうことだったのですね」と気づきを得る。
 
お釈迦さまのお説法を「対機説法(たいきせっぽう)」と言います。
「機」とは「人」のこと。お釈迦さまは、悩みを持つ人々それぞれに対し、おしえを説かれました。その説法のスタイルを、「対機説法」と言います。
最近書いている、「自分の悩みに直接していなくても、おしえに触れていれば、そこからなにかしらの気付きがある」ということと、「対機説法」は矛盾してしまうかな? と、思いました。
でも、やはり矛盾はしていないなと、思いました。

お釈迦さまのお説法(お経)は、そんなには知らないけれど、
お盆の時期によくお話する「芥子の実」のお話
 
お子さんを亡くされたお母さんは、お釈迦さまのお説法によって、いのちの真実の姿に目覚めます。
しかしそれは、子どもを亡くした悲しみを解消してくれるおしえを、お釈迦さまが説いてくださったからではありません。亡くなられたお子さんは、結局亡くなられたままです。でも、いのちの真実の姿を、亡き子を通して目覚めさせていただいたお母さんは、お釈迦さまがお話されることを通して、自分の中で想いを巡らせ巡らせして、やがて、お釈迦さまが伝えようとしたことに、自ら辿り着いたのです。
お釈迦さまは、悩み解消のためのお話を、ピンポイントでしてくださったのではありません。
お釈迦さまが口にされたことばを通して、それを聞いて、自分で考え考え、想い想い、悩み悩みし、やがて いのちに真向かいになる人が誕生した。
そのことが、「対機説法」なのだと、今になって感じています。
 
おしえは、普遍的なものであり、同時に、一人だけのもの。
しかし、一人だけのものでありながら、普遍的なもの。誰にも通じるもの。

2013年6月25日 (火)

普遍的であり、一人のためのもの 一人のためのものであり、普遍的⑤

タイトル:悩みに対する万能薬

友人と話していて、このようなことを言っていました。
「便秘や下痢になった場合、
西洋医学では、便秘に対してはこれ、下痢に対してはこれ、と、症状に対応した薬を処方する。
けれど、
東洋医学(漢方)は、便秘と下痢といった正反対の症状であっても、体の悪いところを治すという観点から、同じ薬を処方する。
症状に対応した薬の方が治りは早いけれど、またいつか(薬の効果が無くなればすぐにでも)、症状が現われてしまう。
ピンポイントの症状に対応するのではなく、体の悪いところを治しておけば、治療に時間はかかるかもしれないけれど、治った後、症状は出にくくなる」
 
私の記憶のままに書きました。事実誤認があればお許しください。
さて、この話を聞いて、今、自分が考えていること(6月21日~24日の投稿)がピタッと当てはまりました。
友人とは、「今、自分が考えていること」について話していたわけではありません。まったく別の、関係のない話をしていたのですが、ものごとは関連を持っているゆえ、こころの中でパズルのピースがはまったような気がしました。
 
悩みを抱えるあなたは、
悩みを聞いてもらいたくて、その悩みにピンポイントでの答を求めます。あるいは、応えてくれる人を求めます。
たしかに、答や応えてくれる人の発言がピタッと当てはまれば、すぐに悩みが晴れることもあるでしょう。
しかし、生きていると、次から次に悩みは起こります。
そのたびに、答を求めたり、応えてくれる人の元を訪ねます。
それをくり返していると、自分で解決する、視点や考え方を変えてみる、悪いのは周りではなくて自分だったのではないかと考え直してみる…そういう力が失われてしまいます。同じ薬を飲み続けていたら、効果が薄くなるように。
厄介なことに、せっかく悩みに応えてくれる人・話を聞いてくれる人に出会えたとしても、この私の根性は、そんな有り難い出会いを、自ら崩してしまいます。自分が納得できる応えをしてくれるうちは、「あぁ、この人は分かってるなぁ。やさしいなぁ。頼りになるなぁ」と、頷けます。でも、どんなに長いことお世話になった人でも、たった一度でも、自分の考えに合わない応えや厳しいことばをかけられると、「この人はダメだ」と見限ってしまいます。薬を飲み続けているから、病気が落ち着いているのに、「もう治った」「この薬じゃダメだ」と素人判断で薬をやめて、症状を悪化させてしまうことがあるように。
 
たとえ、悩みにピンポイントで答えられたことばでなくても、応えてくれない人でも、
ことば(おしえ)に聞き続け、人との対話を楽しみ、人の話を聞くということを大切にしていると、
すぐに悩みを解消するものではなくても、
悩みそのものに応えたものでなくても、
悩みを抱える状態になったそのときに、自分で解決しようと試みる、別の視点や考え方をしてみる、自分にも悪いところがあったなと冷静に分析できる…そういう力が、自分でも知らないうちに身についているものです。じっくり ゆっくり 長く飲み続けた漢方薬は、いつの間にか体質改善をしてくれているかのように。
 
おしえに触れ“続ける”ということは、たとえ悩みにピンポイントで応えてくれるものではなくても、生きる力を与えてくれます。生きている間に直面する物事に対する対応力が養われます。
 
ことば・おしえ・人・出来事との出遇いを大切に
悩みに対する万能薬です


2013年6月24日 (月)

普遍的であり、一人のためのもの 一人のためのものであり、普遍的④

タイトル:ことばは、今のあなたの悩みに直接していなくても、こころ動かします

ここのところ、「人間の思想・発言は、立場・状況・環境などが変われば、コロコロ変わります」ということを中心に書いてきました。
しかし、「人間の思想・発言は、立場・状況・環境などが変われば、コロコロ変わります」のは、優柔不断だからとか、根っこが無いからではありません。縁を生きている(縁に生きている)からです。
ということは、世で起こり得る事象・物事、人と人との関係、こころ動かされ感動(感謝・感激・感涙など)するということ…誰の身にもつながってあるということです。
震災が起き、被災された方々だけが悲しい思いをするわけではありません。たとえ被災しなくても、その事実に涙することがあります。身を動かされることがあります。
原発事故が起き、避難区域に住む方々だけが放射能汚染の恐怖のただ中にいるわけではありません。たとえ事故が起きた原発から離れたところに住んでいても、他人事ではありません。原発反対の立場を表明する人もいます。それでも原発推進を推し進める人もいます。
選挙・投票があり、当選した人のみ、政治に参加出来るわけではありません。落選しても、人のために何かしなければと活動する人もいれば、何も手に付かなくなる人もいるかもしれません。投票に行った人だけが、少なからず政治に関心があるわけではなく、関心有るゆえに無投票という人もいたことでしょう。
たとえが下手ですみません。つまり、あらゆる物事はつながっているということ。つながっている物事によって、私のこころは動くということ。
 
私、思うのです。
あなたが、今、悩みを抱えているとします。
今の世の中ですと、ネットで「いいこと書いてあるなぁ」と思えるようなサイトに辿り着いたとします。しかし、そのサイトで書かれていることは、あなたの悩みを聞いて、それに対して書かれたものではありません。ですから、今のあなたの悩みに、直接に応えているものではありません。
でも、直接応えるものではなくても、こころ動かされることがある。こころに突き刺さるものがある。こころのどこかに引っかかることがある。そういうことがあると思うのです。
仕事のこと、恋愛のこと、結婚のこと、家庭のこと、子どものこと、教育のこと、社会のこと、自分の体のこと、病気のこと…ったとえ悩みはジャンル分けできたとしても、その悩みに寄り添うことばに、ジャンルは無いと思うのです。
 
ことば(文章・話・会話)の中に、光明を見い出す(力を引き出される)ことがあります。
たとえ、今のあなたの悩みに直接に応えたものではなかったとしても。
それは、あらゆる物事がつながっているから。人と人がつながっているから。
  
つらつら書き綴っている この駄文に、何かしら感じてくれている人が、かつて数人はいました。
このサイトに限定した話ではなくて、
「いいこと書いてあるなぁ」とお気に入りしているサイトや本など
「この人の話好きだなぁ」と感じる人が書いた本や文章や絵画など・
「頑張っている人がいるなぁ」と感じた人やエピソードなど
たとえ今のあなたの悩みに直接していなくても、こころの琴線に触れることって、いっぱいあります。
「これは、今の私の悩みとは関係ない話だ」とか、「私の悩みに直接答えてくれていない」などと考えるのは、実は自分の中で答が用意されているから。あるいは、耳ざわりの言いことばで慰めて(誉めて)ほしいから。
すると(いえ、“だから”かな)、自分の意に反することは、聞こえなくなってしまいます。逆ギレする人もいることでしょう。自分の想いに合った人を探しに出かけてしまう人もいることでしょう。
悩みを解決してくれることばは、その内容によっては あるのかもしれません。しかし、解消してくれることばはありません。悩みを解決してくれる人(ことば)探しよりも、感じるこころを大切にして欲しいと思うのです。感じるこころを、誰もが持っているのです。その、感じるこころ装置が錆び付いてしまっているから、何も感じないのかもしれません。感じられる幅が狭くなっているのかもしれません。誰かを傷付けているのかもしれません(つまり、悩みの種は自分にあったのかもしれません)。
    
   
たとえば、   
あなたが、Aという悩みを持っていたとします。
Bという事柄について書かれたものがあったとします。
それじゃぁ、何にも感じないかというと、そんなことはありません。
Bの中に、私のこころ潤す何かがある場合が、いっぱい いっぱい あります。
そういうことを伝えたくて、
ここのところ、「人間の思想・発言は、立場・状況・環境などが変われば、コロコロ変わります」ということを中心に書いてきました。
たとえが下手で、いえ、文章が下手ですみません。

2013年6月23日 (日)

普遍的であり、一人のためのもの 一人のためのものであり、普遍的③

タイトル:と、いうことを こころ にとめて

2013年6月21日(金)の投稿で、
「人間の思想・発言は、立場・状況・環境などが変われば、コロコロ変わります」
と書きました。べつにそのこと自体は、否定されることではないと思います。
というか、そういう私であるという自覚が大切です。
  
先輩僧侶が強く訴えていました。
「私は、原発に反対しています。しかし、身内に誰か一人でも、電力会社に勤める人がいたとしたら、“原発反対”とは言い切れないかもしれません。そのように、条件次第で、私達の想いというものは変わるのです。そういうことを自覚しなければいけない。そのうえで“原発反対”を訴えるのでなければ、“原発推進”を主張する者と、やっていることは同じになってしまいます」
  
6月22日(土)の投稿で、悲しいベビーカー論争について書きました。
このことも、ベビーカーが邪魔だと言っている人も、子どもや孫を持てば、想いが変わるかもしれない。
ベビーカーを認めてといっている人も、必要な時期を過ぎると、他人事にしてしまうかもしれない。
  
今の自分の立場・境遇・環境・条件だけに立ってものを言うのは簡単です。
しかし、もし自分が、あい対する者の立場に立ったとしたら…。私は、今の主張をするでしょうか? できるでしょうか? と、疑わなければならない程度の主張を、今、しているのかもしれません。 

2013年6月22日 (土)

普遍的であり、一人のためのもの 一人のためのものであり、普遍的②

タイトル:権利の一割引を

電車内でのベビーカーの使用について論争になっています。
肯定派は、ベビーカーの必要性や子どもがいると荷物も増える事情を訴えます。
反対派は、マナーを持ち合わせない親を責めます。
 
何事も、双方の意見・主張を、それぞれに聞くと、それなりの言い分があります。
それぞれに耳を傾けると、“間違っている”とも言い切れません(あきらかに「あんた、そりゃ違うだろ!!」ってときもありますが)。
だって、正しいことを言っているんだもの。確かに、間違ったことは言ってない。配慮を欠いたこと、他者(ひと)を見ない物言いだけど。
正しいことを言っている者と、正しいことを言っている者どうしが、自分の言い分を言えば、そりゃぶつかります。
  
子どもを持つ親にとって、ベビーカーは必需品。「こんなに混んでいるときにベビーカーで乗り込んで申し訳ない」と思っている親もたくさんいます。
自分たちこそ優先されて当たり前という態度の親もいますが。そのような親の態度を見て、だから許せないという気持ちも分かります。
  
それぞれに意見はあるものです。想いがあるものです。言い分があるものです。
でも、その個人的な意見は意見として、それを越えて認め合わなければいけない部分があるのではないでしょうか。
「想い」や「言い分」を言い換えると、「権利」を主張しているように感じます。
一方はベビーカーを利用する権利、一方は電車に快適に乗る権利…現代人は、権利の主張が大好きです。権利の「権」は、「仮」と同義。仮の約束事で成り立っている(成り立たせている)のが、社会。主張しあうものではなく、譲り合ってこその権利だと思うのですが。
自分が主張する権利とやらを、一割二割引いてみてはいかがでしょうか。お互いに。
いがみ合わずとも、今よりは快適な生活が送れると思います。
   
自分の主張が通れば、住みやすい環境になるとお思いでしょうが、そうはいきません。
結局、どんなに思い通りになったって、主張を押し通す“私”がいるのですから。
思い通りになった果てにあるのは、“孤独”です。
  
ブツブツ書きましたが、ことばが少ないことが原因かと…
「すいません」「失礼します」「どうぞ、どうぞ」…「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」
相手の目を見て挨拶を交わせば、ベビーカー論争なんて悲しい争いは起きないと思います。

2013年6月21日 (金)

普遍的であり、一人のためのもの 一人のためのものであり、普遍的①

タイトル:目の前に人がいる そのつもりで語る

自民党 高市早苗政調会長の発言 「福島第一原発事故で、死亡者が出ているという状況にはない。安全性を確保しながら活用するしかない」には驚かされました。
 
自民党は原発推進ですし、高市議員はもともと他者(ひと)が見えていないような発言をする方だったので(と、私は感じています)、こと原発に関していえば、立場・状況・環境などが変わったとしても、発言にブレはないと思います(こういうときは、ブレがないのですね)。
しかし、人間の思想・発言は、立場・状況・環境などが変われば、コロコロ変わります。
自民党は、政権を奪取したので原発推進に邁進していますが、もし政権が民主党のままだったら、民主党の原発政策にケチをつけていたことでしょう。ましてや、政権与党としての民主党議員の誰かが、高市議員のような発言をしたとしたら、鬼の首を取ったかのように、謝罪と発言の撤回、議員辞職、党首(首相)の責任を追及したことでしょう。
そういう面で、人間というものはブレながら生きているものですね。芯がないのでしょう。
 
べつに高市議員をかばっているわけではありません。
原発事故で死亡者が出ている状況にないだなんて、事実誤認もはなはだしい!!!! 何人の人を、大地を、いのちを殺してきたと思っているのですか!!!!
 
ただ、立場・状況・環境などが変わると、発言・思想に変化が見えるのは、誰もが経験したことでしょう。
想いを巡らして、誰かと話し合って、自分がつらい経験をして、つらい想いをしている人がいることに目を向けて、そのうえで思想や発言に変化が現われるのなら、その変化はブレではなく、大切な経験だと思います。
しかし、誰かに注意されたからとか、誰かに「こう言いなさい」と言われたとか、発言によって自分が傷ついたから、そのうえで発言を表向き変えるというのは、悲しすぎます。
  
そもそも、思想・発言に、正しい正しくないということはないと思います。その背景には、個々の人生という背景がありますから。不適切ということはありますが。
今回の高市議員のような発言があったとき、私が気になるのは(腹が立つのは)、そこのみを叩き、責任を追及する議員とマスコミです。(そんなところでとどまってるんじゃぁない!! 足の引っ張り合いをしてるんじゃぁない!!)
国民は、不適切な発言をした人に対して、「あぁ、そういう考え方の人なんだ。それじゃぁ、そういうつもりでいよう」と思うと思うのです。その結果、次の選挙で…(当選してしまうから不思議)。
その挙げ句、発言主は、いとも簡単に謝罪をし、発言を撤回をします。
「今回の発言は、不適切であり、謝罪し、撤回致します」と。簡単に考えているのでしょうね。
発言のどこに問題があり、誰を傷付け、これからどうするのかを、自分のことばで表現し謝るのなら、聞く耳も持てますが、謝罪が謝罪になっていないのが一般的です。おそらく、自分でもどこがいけなかったのか分からず謝っている人もいるのではないでしょうか。
 
自由に発言ができるということは、しあわせなことだと思います。
しかし、自分の想いを好き勝手にしゃべるのではなく、
自分の発言を聞き人たち・耳にする人たちがいるということを、忘れてはいけないと思います。
そういう意味で、顔と顔を向き合っての会話って、大事です。
ネットやSNSでの人間関係の悩みを耳にするようになりましたが、顔が見えない者どうしが、自分の発言によってどう思われるかを少しも考えずに、ことばのやりとり(“会話”とは言えないですね)をするのだから、傷付け合いや誤解が生まれても仕方がありません。

2013年6月20日 (木)

急いでも ゆっくりでも 到着時間は そう変わらないものです

赤坂で会合があり、会合終了後、吞みに出ました。新しい仲間が入り、楽しい吞み会になりました。
その後、帰りが同じ方面の仲間と中野に出て、もう一件吞みに行きました。
ちょっと吞みすぎた気がするので、歩いて帰りました。
歩くことが苦にならない私は、ちょっと吞みすぎたなぁと思ったときは、歩いて帰ります。他者(ひと)からはバカ者扱いされますが。
 
歩くということは、普段車でサーッと通ってしまう道を、観察する機会に恵まれます。
 こんなお店があったんだ。
 こんなところに公園があったんだ。
 この道は、ここに通じていたんだ。
 選挙ポスターをよ~く見たり。
新たな発見だらけで、楽しいものです。
 
目的地まで急ぐ気持ちは分かりますが、ゆっくりとした歩みは、新たな発見・新たな知識・別の視点からのものの見方・立ち止まることの大切さを教えてくれます。
急いでいたのでは気付かないこと、忙しい忙しいとごまかしていたのでは見えないことを、ペースを緩める、あるいは立ち止まるということは、教えてくれます。
 
あわてない あわてない ひと休み ひと休み

2013年6月19日 (水)

現代に対面できるのは、現代を生きる我々だけ!!

寺報をお読みいただいている方から、お手紙をちょうだいいたしました。
いつもありがとうございます。
 

現代を生きるわれらが、現代に対面しなければ、
この世は 愈々(いよいよ)闇になるしかないと、悲しく思っています。
3.11は何だったのか。
人間は幸せに生きる権利ありという分別知の恐ろしさ。
戦時教育で愛国心をたたきこまれた世代の一人として、
いつか来た道をくり返す愚かさに驚き呆れざるを得ません。

 
他者を糾弾する声ではなく、自己の懺悔の叫びと聞こえてきました。
お手紙を書かれながらも、苦しかったことと想います。
筆をお執りいただき、ありがとうございます。
現代を生きる私達しか、現代に対面できません!!!

2013年6月18日 (火)

そうだ投票、行こう

2013年6月17日(月) 白骨の会(西蓮寺仏教青年会)開催
白骨の会参加者と、都議選 世田谷区立候補者 の名簿を見て、感想を語り合う。
参加者は世田谷選挙区ではないのですが、熟読されていました。
国政選挙ともなると、各党のカラーがハッキリ出てくるけれど、都議選や区議選などになると、地域とのつながりが密着になるためか、生活に即した公約が目立つ。今なら「待機児童をなくします」など。生活に即した、耳障りの良い公約が揃うのは分かるけれど、党のカラーがわかりにくい。
参加者と、「どれも同じに見えない?」「国政において言っている雰囲気と、なんか違うね」等々話しました。
でも、投票には行こうという結論になりました。どこに(誰に)投票するかは、当然内緒ですが。
 
各党のチラシや、選挙広報紙とにらめっこしています。

2013年6月17日 (月)

阿弥陀さまのお浄土

「電気は足りているから、原発はいらない」と、原発反対を訴える方がいる。
ということは、電気が足りていなかったら、「不本意ながら原発は必要」と転換してしまうのだろうか?
 
原発事故後の惨状を目の当たりにし、
福島の現実を訴える人人の姿を見、
原発はいらない
と、私は想う。
たとえ電力が足りなくなっても。
 
「電気は足りているから、原発はいらない」という発言の否定をしているわけではありません。
原発事故後、今のままではいけないんだということを自覚した人は多く、原発の現実を知り(電気は足りている・実はクリーンエネルギーとは言い切れない・お金がかかる・被爆労働者の実態・事故が起きれば取り返しが付かない等々)、原発は必要ないと訴える人が増えました。
ただ、「足りているから、いらない」という表明は、「足りなかったら、いる」とも聞こえてしまう。
 
「足りて豊か」な社会・生活ではなくて、
「足りなくても豊か」なこころでありたい。

2013年6月16日 (日)

こころをよごすな

2013年6月14日(金)
原発再稼働反対 金曜デモ(主催:首都圏反原発連合)に参加
 
出先での会合が早く終わり、直帰せずに 丸ノ内線「国家議事堂前駅」へ。
地上に出て、国会議事堂前へ。到着時間は午後6時30分。終了時間の8時まで(時間をキチンと守って、活動をされています)、原発再稼働反対を訴える輪の中へ。
   
金曜デモは、想いある人が台に上り、国会前で反原発を、福島の現実を訴えます。
その中で、福島の声を聞きました。
 
ある小学校で、プール開き前の掃除を生徒にさせるために、子どもが親に「承諾書」を持ってきました。。
「プール掃除を 生徒にさせますが、承諾をいただけますか?」 それだけでも異常なこと。親の承諾が必要ということは、なにかしら危険なことをさせるということです。
それだけが問題なのではない。
原発事故後、福島に残って生活をする人人がいます。県外に住む者は、「どうして避難しないの?」「自分(たち)で決断したんでしょ(自己責任だよね)」と、他人事のように口にします。
福島に残る決断をした人人は(福島から出る決断をした人人も)、決断によってスッキリしているわけではない。葛藤や苦悩を抱えながらも生活をしている。他人事のように発せられる声を浴びながら。
それでも、残った人間どうしの想いが同じなら、まだ手をつないで生きられる。しかし現実はそうもいかない。
福島に住みながら、反原発を訴え、子どもの甲状腺がん検診の結果を公表することによって福島の現実を伝え、食品の放射性物質の数値を調べて公表し、行政に補償を求め…様々な活動をされている人がいます。
反面、「訴えたり、数値を計ったり、もう、そういうことはいいんだ。今まで(原発事故前)通りのくらしをさせてください」と願う人もいます(そういう人の方が多いのかな)。
どちらの姿勢が正しいとかという話ではありません。原発がある生活を享受してしまった結果、生み出された(生み出してしまった)現実なのです。
立場や想いがこれだけハッキリ分かれてしまうと、何か活動をしていると、「行政が大丈夫と言ってるんだから、もう、活動はやめようよ」「不安を煽らないでください」「そんなに気になるなら、福島から出て行けばいいじゃない」と、言われてしまいます。
プール掃除の承諾書も、承諾を得た子どもたちは掃除をし、承諾を得られなかった子どもたちは掃除をしないことになります。掃除をする子としない子に別れるということは、そこに親(家族)の姿勢が反映されます。恐らく少数であろう、承諾をしない家族・そこのお子さんは、いじめ・差別・偏見の対象になってしまいます。
承諾書が差別を生み出す現実を、福島の現実を、教えていただきました。
「掃除の際は、タワシを持参で」と、プール掃除の承諾をもらう際のプリントには書かれていたそうです。「プール掃除」といっても、それは「除染」。子どもたちは、濡れても良い格好で、おそらく素手にタワシを持ち、プールを掃除する。ちょっと想像するだけで(想像しなくとも)、危険なことを子どもたちにさせようとしていることは分かるはず。プールの掃除って、水をかけ合いながらワイワイ騒いで行う、日常とは違う楽しい出来事のはず。それを出来なくさせてしまっている(承諾書なんかを必要にさせてしまった)現実を問う。
福島の現実の声は、私に突き刺さります。
     
  
都議選が行われ、参議院議員選挙が行われます。
福島の声、国民の声に耳を傾けてくれる人を選びたいと思います。
議員の皆さん(立候補した方、しようとしている方) こころは よごさないでください

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2013年6月15日 (土)

誰かが言ったから大切なのではない 誰かが言ったことを、聞いた(受け止めた)人がいるからこそ、ことばは生きてくるのです

昨日紹介させていただいた 真宗大谷派衆議会(参議会)の
「日本国憲法第九十六条「改正」反対決議」
 
その中に「国(くに)豊(ゆた)かに民(たみ)安(やす)し。兵戈(ひょうが)用(もち)いることなし」とありました。
後半の「兵戈用いることなし(兵戈無用:ひょうがむよう)」とは、「兵隊も武器も必要がない」という意味ですが、お釈迦さまは「仏教広まるところに、兵隊も武器も必要としない国が開かれる」と言われたのであって、「兵隊も武器も必要としない国を作ろう!!」と扇動されたのではありません。
お釈迦さまは「兵戈無用」としか言われていないのです。お釈迦さまのことばを聞いて、自分のこころの中の“兵戈”(兵器や武器、他者や自分を傷付けるこころ)が無くなっていく世界をイメージした人がいらっしゃったのです。そうありたいと願った人がいらっしゃったのです。そういう人がたくさんいたのです!! 
だからこそ、お釈迦さまの ことば が大切にされてきた。頭から「お釈迦さまも兵隊や武器の無い世界を望まれました。“兵戈無用”と言われています」と言ってしまっては、「兵戈無用」がイメージさせる世界を狭めてしまうし、誤解されてしまうかもしれません。

誰かがこのように言ったから、こうあらねばならない。
誰かが、これはダメだといったから、ダメなんだ。
そうでは ないんです!!
ことばを聞いて、考えて、想像して、感じる…
そのことが、兵戈を用いる必要がない世界を、自然に開かせるのです。

2013年6月14日 (金)

真宗大谷派の動き 日本国憲法第九十六条「改正」反対決議 可決

(お知らせ)
2013年6月11日(火) 真宗大谷派宗議会において
2013年6月12日(水) 真宗大谷派参議会において
「日本国憲法第九十六条「改正」反対決議」を全会一致で可決されました。
   
   

  
日本国憲法第九十六条「改正」反対決議
    
政府与党は、日本国憲法第九十六条の「改正」を表明しております。これは国会における改憲発議要件を3分の2以上から2分の1以上に緩和することにより、憲法「改正」を容易にしようとするものです。本来、憲法は、国民からの負託によって、国民に代わって行政権を執行する政府を規制する国の最高法規であります。それ故、他国においても同様に、その改正にはあえて厳しい制約が定められています。
 
言うまでもなく、「国民主権」「基本的人権の尊重」「戦争の放棄」の三大原則を謳う現日本国憲法は、政府が先頭に立ってそれを遵守し、憲法に基づく施策を具現化していく義務を持つものであり、その具体的実践により、初めて日本国憲法は世界に誇りうる憲法となります。
 
「国豊かに民安し。兵戈用いることなし」と説く『仏説無量寿経』を正依の経典とする私たち真宗大谷派宗門は、宗祖親鸞聖人の開顕せられた念仏の教えと、そこに流れる御同朋・御同行の精神のもとに歩んでまいりました。しかし、私たちは、過去の戦争においてその教えを歪め、無数のかけがえのない命を戦場に送り込むという痛恨の過ちを犯してしまいました。その慙愧に立って、1995年宗会において「不戦決議」を行った私たちは、今こそ念仏者として、恒久平和を願う現日本国憲法を守らねばなりません。

よって真宗大谷派宗議会(参議会)は、日本国憲法第九十六条「改正」反対をここに決議いたします。
以上(真宗大谷派HPより)

2013年6月13日 (木)

誰もが持っている豊かさ…感じるこころ

東京は、昨日今日と雨。
昨日の西蓮寺聞法会、雨の中をご聴聞にお出かけくださいました皆様、有り難いことでございます。
 
昨日は、「豊かさ」についてのお話。
経済的・物質的な豊かさを求めてきて、その結果が現代(いま)だとするならば、果たして、求めてきた豊かさとはこのようなものだったのでしょうか? 
 
どんなに豊かになったとしても、その豊かさの背景で苦労している人・犠牲になっている人がいることに想いを馳せないならば、それを“豊か”というのだろうか。
ゴミをポイ捨てし、平気な人がいる。後日、ポイ捨てした同じ所を通ったとき、ポイ捨てしたゴミはありますか?(残っている場合もあるけれど) ゴミを片付けてくれている人がいるのです。
たとえゴミ箱に捨てたゴミでも、そのゴミを回収してくれる人がいます。場合によっては、分別をしてくれています。ゴミは、自分の家に持ち帰って捨ててもいいのではないでしょうか?
ゴミ、ゴミ、と書いたけれど、果たしてゴミなのだろうか? まだまだ使えるものを、ゴミと称して捨ててはいないだろうか。その、“ゴミ”と称されたものを作るのに、どれだけの人の手がかかっていることだろう。
 
自分の犯した迷惑を、他の誰かが尻ぬぐいしてくれている…ということばかりではありません。
食事をするにしても、私が今着ているものも、移動の際の交通手段も、電気のある暮らしをしていることも、何を見つめても、私以外の人のお世話になっているものです。
「自分は一人で生きている」「人との交わりが鬱陶しい」などという声を聞きますが、人と人との交わりがあるからこそ、その中を生かさせていただいている私でした。
 
そういう背景を想像してみましょう。その背景こそ、「南無阿弥陀仏」なのだと感じます。

豊かさとは、
そういうこと背景に想いを馳せられるこころ
想いを馳せ、いろいろと感じるこころ
そのようなこころの動きが、豊かさなのではないでしょうか。
経済的に、物質的に ものがあふれるというのは、“豊か”というのとは、別物なのでした。
たとえ経済的・物質的に物がなくても、感じることは誰もができます。

2013年6月12日 (水)

西蓮寺定例ご案内

西蓮寺(世田谷区北烏山2-7-1)
6月12日(水) 午後1時30分より 西蓮寺聞法会
6月17日(月) 午後2時より    白骨の会(仏教青年会)
6月25日(火) 午後1時30分より コールリンデン(仏教讃歌を歌う会)

2013年6月11日 (火)

ごクロウさま まぁスワローよ

西蓮寺最寄り駅 京王井の頭線「久我山駅」
この時期、駅構内にツバメが巣を作り、ヒナたちに食事を与えるため、親ツバメは、駅構内を飛び回っています。人にぶつかるんじゃないかって勢いで。でも、誰もが温かくツバメの家族を見つめています。ツバメたちも、安心して毎年巣作り・子育てをされていることと思います。
久我山駅で、ビュンビュン飛び回るツバメを見ていると、私の方も元気が出てきます。 
 
で、カラス…
威嚇するし、生ゴミを荒らすから嫌われるのだけど、
でも、
ツバメとカラス 同じ鳥なのに、どうして こうも 印象が違うのだろう。
子育てのために命がけになっている姿は変わらないのに。
問題は、カラス自体にあるのか、
カラスを見る(ツバメとカラスを見比べる)、私の方にあるのか。
比較の眼(まなこ)は、真実を見失わせます。 

子どもたちの元気な巣立ちを念じております(-人-) 

2013年6月10日 (月)

あなた達の生きる未来を!! 私達が諦めるわけにはいかない!!!

2013年6月9日(日) 午後4時頃
東京都議会議員選挙(6月23日投開票)に、自民党から立候補する若者の応援演説のため、安倍晋三首相が烏山に訪れる。
家族4人で、烏山区民センター広場へ。もちろん、あまり良い感情を持たずに。
でも、野次っては対話にならないし、SPに取っ捕まってしまうので、正対する場所に立ち、仁王立ちで何を訴えるのか、しっかりと耳を傾けていました。
 
新宿を歩いているときなどに、たまたま選挙演説の場に出くわしたことはあるけれど、自ら乗り込んでいったのは初めて。
訴えた内容から、何を考えているのか、何をしたいのか、に耳を澄ます。
また、口にしなかった内容からも、何を考えているのか、何をしようとしているのかが伺える。原発のこと、TPPのこと、憲法改正のことなどには一切触れなかった。なるほど、それが答なのですね。
 
また、聴衆の様子も観察。
普段、私の回りには、原発反対、憲法改正反対、憲法9条を守る、ということを訴えてくださる方々が多いので、つい、世論もそういう風向きなのだろうと勘違いしてしまう。
でも現実は、日本人は、自民党・安倍首相大好き(な人が多い)。私や私の回りの人々の考えの方がマイノリティ。
この応援演説の会場はどうなのだろうと、空気を感じていました。安倍首相見たさに来た人が多かっただろうか。しかし、写真を撮り終えた人々が去って行くと、自民党色に染まっていた。現実の日本は、決して自民党(安倍首相)ドップリというわけではないけれど、無関心な人・冷めた人が多い気がする。自分で意識して、初めて選挙演説を聴きに来た者が言うのは失礼だけど、もっと政治に関心を持たなければ、もっと主張をしていかなければいけないのだと感じました。ちょっとねぇ、今まで何してたんだろう、自分、と。

私の後(広場の片隅にある公園)では、親と一緒に広場に来た子どもたちが遊んでいます(親は演説を聴いている)。
遊んでいるけれど、選挙カーの上で何か叫んでいる大人たちの姿を、じっと見ています。
自分たちの未来を、託せる奴らなのか? 
こいつらに託して良いのか? と。
 
選挙には行きましょうね。その前に、自分の中で一生懸命に考えて。そして、家族や友人と話し合って。選挙権のない子どもたちとも、いえ、選挙権を持ち得ていないからこそ、子どもたちの声に耳を澄ませましょう。

2013年6月 9日 (日)

地名が「烏山(からすやま)」っていうくらいですから

毎年、境内の高い木に巣作りし、カラスが子育てをします。
子ガラスが生まれ、親ガラスは気が立っています。
カラス自身も、実は人間が恐いので、実際に襲ってはこないのですが、近づいてきて威嚇します。
お墓参りに見えた方にも威嚇するので、今の時期、困ってしまいます。が、それは人間の側の事情。カラスにしてみれば、命がけで子どもを守っているのです。
子ガラスが飛び立つまで、親ガラスはその姿を見守り、人間やネコなどの外敵から子どもを必死で守ります。恐いのを我慢して。
親の愛情を、カラスから感じたとき、カラスを邪魔にはできないなと思います。
巣立ちまでの我慢我慢。
  
などと、カラスの親子を見守りたい気持ちいっぱいなのですが、そんな私の気持ちなど、カラスたちに伝わるわけもありません。この時期、掃除をしようと外に出ると、「また あいつが来た!!」と、真っ先に威嚇しに来ます。毎日現われる怪しい存在なのでしょう。味方なのに
掃除が行き届かず、申し訳ありません。

お墓にお参りの方には、傘をお貸ししています。
大きい物体は、カラスもさすがに恐ろしく感じるようです。それでも近づいてはきますが、何も手にしていないよりは安全にお参りいただけます。
傘をお貸ししていますので、お墓参りの方は、お寺にお声をおかけください。


2013年6月 3日 (月)

2013年6月のことば

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あなた達の生きる未来を!!
私達が諦めるわけにはいかない!!!

          ニコ・オルビア(『ONE PIECE』)
    
「生きたい!」
「生きたい!」と思える世の中に!
未来に生きるいのちが、そう思えるような世の中に!
過去から受け継いできた大地を、いのちの営みを、次のいのちに受け継いでゆくんだ! そのために私は生きるんだ!と、そう思える世の中にするために、私は諦めない!!!

母 ニコ・オルビア と娘 ニコ・ロビン
今月のことばは、漫画『ONE PIECE』からいただきました。
ニコ・オルビアは、オハラという国の考古学者。人類の歴史に、ぽっかり空いた空白の百年。その百年を知るために、ニコ・オルビアとその仲間達は、古代文字の解読に励みます。考古学者として、ただ純粋に。
しかし、古代文字の解読は、世界政府にとっては、絶対に成されてはならないこと。世界を脅かす古代兵器の秘密が明らかになってしまうから。というのは表の理由。真の理由は、空白の百年を経て権力を得た世界政府が、その道程を知られてはまずいから。
世界政府は、古代文字の解読を禁止します。しかし、ニコ・オルビアとその仲間達が解読を進めていることを知り、オハラという国ごと消滅させてしまいます。秘密を知る可能性がある者を、一人残らず消すために。
正義は、立場や状況によって変わる。古代文字の解読は犯罪であるとする正義。歴史を、真実を知ろうとする正義。世界政府という大きな権力が鼓舞する正義の前に、考古学者たちの正義は踏みつぶされてしまいます。まだ幼い、ニコ・オルビアの娘、ニコ・ロビンをも、世界政府はこの世から消そうとします。
ニコ・オルビアは、なんとか娘を逃し、自分は戦火に残り、歴史と書物を後世に残そうとします。母との別れを嫌う娘に、オルビアは言います。「あなた達の生きる未来を 私達が諦めるわけにはいかない 生きて、ロビン!」と。

ニコ・ロビンは、世界政府の掲げる正義とは一線を画すクザン中将によって逃がされます。「ニコ・オルビアが残した種が、どのような花を咲かせるのか。俺は見届ける義務がある」と。
懸賞金をかけられたニコ・ロビンは、行く先々で世界政府に通報されながらも、逃げ続け、ついにルフィ(『ONE PIECE』の主人公)たちと出会います。生まれて初めての、気を許せる仲間たちとの出会いです。物語は、今も続いています。

今の世
漫画の世界だけの話ではありません。果たして、今の世の中は、今の時代はどのような時代なのでしょうか。 
私達大人は、諦めないで頑張れるような何かをもっているでしょうか?
あなた達子どもが、「生きたい!」と思う世の中でしょうか?
私達大人は、あなたたち子どもに、「生きて!」と胸を張って言えるでしょうか?

「今」、と言うけれど、言い終えた瞬間に、その「今」は「過去」となっています。先のことと思っていた「未来」も、気がつけば「今」。過去から未来への線上に「今」はあります。「今」と、切り取って考えるけれど、過去から未来への線上の、ほんの一点です。いのちも、歴史も、続いています。つながっています。点ではなく、線を生きている私達。
戦後68年。この国はどこへ向かうのでしょう。何をしようとしているのでしょう。また過去の悲しみを繰り返そうというのでしょうか。これから先に、「生きたい!」と心から叫びたくなるような世界は待っているのでしょうか。
憲法9条の改正を見据えた改憲論議。戦争前夜の臭いがします。7月に迎える参議院議員選挙。この結果で、今後の日本の、いえ、もしかしたら世界の情勢が大きく変わるのかもしれません。今の潤いを求めるのではなく、未来を見据えた判断を、私達一人ひとりが熟考しなければいけないときです。

私(白山勝久)は、憲法9条を守りたいと思います。
   

日本国憲法 第9条
1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを  保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

   
これだけの条文で、しかも「国の交戦権は、これを認めない」と言い切っているのに、いろいろな解釈がよくも成り立つものだなと感心してしまいます。だからこそ解釈に無理が生じ、改憲をしたいのでしょうけれど。
今の世の中、憲法9条で国は守れない、攻撃をする力を備えなければいけないという声が聞こえてきます。しかし、どれほどの武力をもってしても敵わないのが、憲法9条なのだと思います。
戦争って、何でしょう? 私(自国)と敵(敵国)との交戦と思いがちですが、でも、違いました。戦争が起これば、経済が回るのです。経済を回すための、大きな力なのです。そこには、敵も味方もありません。なのに、経済の潤いを獲ようとする者は、仮想敵国を作り、交戦の雰囲気を煽り、戦争に突入させようとします。作られた敵と戦わされるのです。そのためには、憲法9条は邪魔なのかもしれません。それが戦争。敵は他国ではなく、自国にいるのかもしれません。
    
いつか願いが花開く日を
「未来を諦めない」といっても、それが「経済的に裕福な世界にする」ことを意味するならば、戦争を認めることと繋がってしまいます。
人間って、不器用なものです。親の身として、「友達と仲良くしなさい」「お金以外に、大事なものがたくさんあるんだからね」「痛くてもがまん がまん」などと子どもに言うくせに、言っている当人が、隣人とすら仲良くできず、お金こそ人生で一番必要なものと思い、痛みや苦しみに耐えられずにいるのですから。
人生において、痛みや辛苦は切り離せません。しかし、切り離せない痛みや辛苦を生きる中で、前を向いて歩まれた人たちがいます。生きる力に出遇った人たちがいます。
東日本大震災の被災地に、ボランティアで赴く若者がいます。その人は言います。「私は、阪神淡路大震災で被災しました。その絶望の中、多くの人たちの支えのおかげで、今の私がいます。今度は、私がそのお返しをする番です」と。
つらい経験に自暴自棄になるのではなく、自分が受けた恩を、誰かにお返しをしたいと願う。そのように願える力を、人は持っています。その力を、摘み取ってはいけません。願いが花開くことを、私は諦めません。
「未来を諦めない」といったとき、輝ける未来の構築を、生きたいと思わせる社会・世界を作ることを想いました。でも、その発想が、経済の発展と結びつくものであるならば、人類を戦争に向かわせるものとなってしまいます。「あなた達(子どもたち)」を、戦地に赴かせることになってしまいます。そうではありません。敗戦という歴史を経て、非戦を誓った先輩方は、私達の未来を、諦めずに生き抜いていかれたのです。
さぁ、今度は、私がお返しをする番です!
    
   
   
掲示板の人形
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今月の人形はカエルとオタマジャクシです。
 あなた達の生きる未来を!!
 私達が諦めるわけにはいかない!!!
あなた達(オタマジャクシ)・私達(カエル)をイメージして、今月はカエルの人形を飾っています。
オタマジャクシが、やけにデカイですが
 
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6月の文章を書き終え、印刷屋さんに出して後、ニュースで尾田栄一郎さん(『ONE PIECE』作者)の急病による『ジャンプ』休載を知りました。ご回復を念じております。とはいえ、この際、ゆっくり休んで、しっかり体調を整えてほしいです。再開を心待ちにしております。

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