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2013年5月 1日 (水)

2013年5月のことば

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こんなに我慢しているのに!
 と思っていたら、
  こんなに我慢されている私でした

こんなに我慢しているのに!
「我慢」の「慢」は、「自己にとらわれるこころ」を意味します。自己にとらわれるのですから、自分を正当化します。自分を中心に置きます。
「高慢」「傲慢」という言葉があります。自分を高いところに置いて、他者を見下す態度を「高慢」と言ったり、「傲慢」と言ったりします。
反対に、「卑下慢(ひげまん)」という言葉もあります。劣等感に落ち込むことを意味します。「卑下慢」も、自分と他者を比べたうえで、劣等感に落ち込むのです。やはり自分を中心に置いています。
「こんなに我慢しているのに!」というこころの叫びは、自分を中心に置いての叫びなのですね。
「こんなに我慢しているのに」の奥底に、「分かってくれない」「言うことを聞いてくれない」「誉めてくれない」「認めてくれない」という気持ちが込められてはいないでしょうか。叫びたい気持ちは分かります。でも、自己中心・自己正当化した叫びに、誰が共感してくれるでしょうか?
  
それにしても、私という人間は、他者を見下したり、劣等感に落ち込んだり、まるでシーソーみたいですね。
「自己正当化」とか「自己中心(的)」とか「自分こそ正義」な私のこころを取り上げて文章を書くことが、最近多いです。「そんな生き方は止めましょう」などと「高慢」「傲慢」に訴えているわけではありません。だって、そんな生き方から逃れられないのが私なのですから。
とはいえ、「我慢」という叫びで、他者のいのちを踏みにじっていた私に気付くことが出来ただけでも有り難いことだと思います。だって、せっかく人間として生まれることが出来た大半のヒトが、「自己正当化」している自分、「自己中心的」な生き方をしている自分、「自分こそ正義」を疑わない自分を生きて、そのことに気付かずに一生を終えてゆくのですから。
教えに出遇うことの難しさと、出遇えたことの有り難さに、手が合わさります。

許されている私
子どもが、「いっしょにあそぼ」「ほん、よんで」とじゃれてきたり、大きな声で歌い始めたり、泣き出したりする。そんなとき、余裕があれば、一緒に遊んであげられるでしょう、本を読んであげられるでしょう、声を合わせて歌えるでしょう、「よしよし、どうしたの?」と抱き上げてあげられるでしょう。そんなときの子どもの笑顔に、かえって私の方が癒やされます。
余裕がないとき、「お仕事があるから」「うるさい!」といってしまう。本当にやらなければならない仕事ならば、子どもたちが寝てからやればいいのに(できるのに)。うるさいのならば、自分も一緒に歌えばいい、泣けばいい。けっこうスッキリするから。歌いなさい、泣きなさいという、子どもからの催促なのかもしれません。
虫の居所が悪いときもあるでしょう。でも、虫の居所が悪い原因は、子どものせいではないでしょう。子どものせいじゃないのに、子どもに当たるのは止めた方がいいですよ。後悔するのは私ですから。子どものせいでイライラするときも、それもあります。でも、イライラする原因は子どものせいだと思い込んでいるけれど、子どものせいにしている私に原因があるものです。子どもは、迷惑をかけようと思っているわけではありません。あなただからこそ、泣いたり甘えたりしているのです。あなたを頼っているのです。あなたを信じているのです。あなたを認めているのです。あなたを許しているのです。

「我慢をする」とは、「相手を許すために妥協しながら生きている」という意味が込められている気がします。でも、「許す」ことに妥協など、本来ないのです。「許す」ということに、「ここまでは許すけれど、これ以上は許さない」などという線引き(妥協)などないのです。「許す」といったら、とことん許すのです。そんなことできないって? えぇ、できないでしょう。経験を積み重ね、自己中心な知恵で満たした私のこころに、とことん許すという許容量はありません。自分が正しい、自分さえよければいいという所に立つ許しとは、果たしてどのような許しなのでしょう?
「許す」ことも難しいけれど、「許さない」ことも、また難しい。どんなに「許せない」と怒り狂った相手でさえも、「でも…」という、こころに隙ができてしまう。そのことが良いのか悪いのか分からない。でも、そういうことが、人と人との関係を生きるということなのでしょう。そういう生き物を人間というのでしょう。
「我慢」について考えていたら、「許す(許さない)」の話になってしまいました。許すにしろ、許さないにしろ、どちらにも徹底できない私なのでした。しかし、子どもの寝顔に、許されている私を想います。昼間、きつく叱った私を、「仕事だから後でね」と子どもを後回しにした私を、子どもは許してくれているのでした。あぁ、許されて生きている私なのだと、涙が出てきます。妻の寝顔に、そんなことは感じませんが(妻も同じ気持ちでしょう)。

私の視点から、 他者(ひと)の視点から
親子、夫婦、兄弟、友人、師弟等々、つながりはたくさんあります。どのような関係においても、想いの食い違いはあるものです。食い違いの無い関係が良好な関係なのではなく、食い違いがあったときに言い合える関係こそが、良好な関係なのではないでしょうか。
私が我慢しているということは、他者(ひと)も我慢してくれているのです。お互いに我慢しているものなのです。一方が我慢して成り立つ関係などありません。それなのに、私だけが我慢して関係を保っているように錯覚しています。私が我慢しているということは、相手も我慢しているものなのです。私と同じくらい。いえ、もしかしたら私以上に。
「我慢」の話ばかりで考えると、私の狭さに気持ちも落ち込みますが、いろいろなことが考えられます。私の視点だけではなく、他者(ひと)の視点も考えてみましょう。
私が腹を立てるのは、腹を立てられてしまう私だったから
私が笑顔でいられるのは、笑顔をもらっている私だったから
私に優しさがあるのは、優しさをもらっている私だったから
私の涙は、あふれる愛情を注がれている私だったから
喜怒哀楽、私がどの感情をむき出しにするにしても、感情をむき出しにするに先立って、真剣に感情をむき出されている私だったからでした。「私が」と、何事も、私が自分の想いで為しているつもりでいたけれど、さまざまな感情(縁)の集まることによって、私がいるのでした。

私の視点から、 阿弥陀仏の視点から
「こんなに我慢しているのに! と思っていたら、こんなに我慢されている私でした」ということばに涙する人もいれば、「そんなことはない!」と怒る人もいることでしょう。私に笑顔が足りないのは、周りの人が私に微笑んでくれないからだなどと、他者のせいにしてしまう人もいることでしょう。
私と他者とのシーソーは、なかなか上手い具合には動いてくれません(動かしていないのは、私のこころなのですけれど)。人と人との関係って、そういうものです。難しいものです。
でも、そんなトゲトゲした私の方を向いて、倦(あ)くことなく(見捨てることなく)、やわらかな微笑みと、温もりのある涙でもって私の方を向いている阿弥陀さまがいらっしゃいます。シーソーの私の反対側にいらっしゃいます。阿弥陀さまを信じている者・頼りにしている者だけの対面にいるのではありません。すべてのいのちの対面に、阿弥陀さまはおわします。
人と人との関係では、我慢や優しささえも、私は比べてしまいます。でも、何とも比べようのない慈悲のこころを、阿弥陀さまからいただいている私だったのです。だからこそ、南無阿弥陀仏とお念仏申すことが出来るのです。念仏称えるところに、阿弥陀さまとのシーソーが、息もピッタリ揺れ動いています。     
  
   
 
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コメント

阿弥陀さまの慈悲はわたしには分かりません。唯、掌(たなごころ)をあわす事だけできます。

私の体験から言えることは、いかなる失敗も、その目標の火が消えないかぎり、きみは耐えられる。最終的にはその目標を実現しなくてもいいんだ。完全に失敗してもいいんだ。だが、そうした運動を通じて、きみはたぶん辛いけれど充実した人生を味わえると思うよ。

中島義道 『働くことがイヤな人のための本』

掌を合わせることができる…そこに温もりがありませんか? そこに、阿弥陀の慈悲がありませんか?

わかる わからない ではないと思うのです。

阿弥陀さまの慈悲をわたしが分かるために、そういう目標を達成するための手段として、合掌するわけではない。

唯、つまり、いかなる、隠された動機、意図、理由もなく、掌(たなごころ)をあわしているだけ。

阿弥陀さまの慈悲をわたしが「分かる」などということは、私には一生涯ない。

阿弥陀さまの慈悲をわたしが「分かったー」と一瞬、傲慢に思ってしまった自分が、仮に、一瞬でもあったら、即、自己否定する。一生涯、いや、自分にはそんな浄い心はないはずだと、自己否定し続ける。つまり、人生のすべてを自己否定する。何の為?何の為でもない。それは何かを得るためという「はからい」、計算なく、どんな隠された意図、動機、理由もなく、自分の全人生を否定する。

得られるものは、私には真・善・美などないという、純粋な(=隠された動機、はからい、のない)喪失。自分は何もできないという理解。そして、絶対的な帰依。

……というのは、普通だと思いますね。

阿弥陀ってアンニュイな発音で自分が特権化されたり、自分のみ自分のみって役るのもやだし、自分はヒーロー化された著が観たい。

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