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2013年5月

2013年5月29日 (水)

うん、よろこんでるね(^-^)

今朝、娘が幼稚園に出かけるとき、
玄関を開けると、雨が降っていました
 
私「雨だねぇ」
娘「あじさいが よろこんでるねぇ」
  
手が合わさりました。
南無阿弥陀仏
 
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2013年5月22日 (水)

本願の力

本棚を整理していて、ちょっとビックリ!!
『憲法の力』 伊藤真 (集英社新書)
『悩む力』 姜尚中(集英社新書)
『決断力』 羽生善治(角川oneテーマ21)
『選ぶ力』 五木寛之(文春新書)
『聞く力』 阿川佐和子(文春新書)

本棚を少し整理しただけで、こんなに“力(ちから)”の数々。買うとき、読むときは気付きませんでした。
買ってはいませんが、他にも
『伝える力』 池上彰
『断る力』 勝間和代
『生きる力』 なかにし礼
『別れる力』 伊集院静
等々…。
面白いことを発見したなぁと思っていたら、この“力”ブームは、業界のみならず、巷で多くの人たちが気付いていることなのでした…。
2013年3月29日(金)の「読売新聞」夕刊において、『聞く力』の執筆者 阿川佐和子さんが、「“力”ブーム」について書かれていました。「乗った口ですみません」と(実際は、“力”ブームに乗ったわけではなく、数ある書名の候補の中から、シンプルなものを選んだだけのことだそうです)。
 
でも、それぞれの道で経験を積み、切磋琢磨された方々が書かれた本です。それぞれに説得力・訴える力が込められていて、熱を感じます(ほんの一部を読んだだけに過ぎませんが)。
  
“力”といえば、「本願力」!!
阿弥陀さまの、衆生を想う力(はたらき)です。
ご本山(京都 東本願寺)出版部様、『本願力』とか『本願の力』という書物を出版してみてはいかがでしょうか?
(あっ、横浜別院のたよりが「本願力」でしたね)

2013年5月19日 (日)

ことばは、人を生かしもするし、傷付けもします

暴走している某市市長
自分の言いたいことの真意が伝わっていないと、「日本人は読解力不足」とまで言い出しました。私が言わんとしていることをもっとキチンと読み取りなさい!!ということでしょう。
私も、ことばや想いを発する機会がある者として、「もう少し深く受け止めててよ」「えっ、そこ?」と思うことはあります。橋下市長(あっ、言っちゃった)が発することばと比べれば、影響力も発言の広がる範囲も、比べものにならないほどちっぽけですが。
しかし、ことばを発する者として、相手の読解力不足を指摘することは、やってはいけないことだと思います。
ことばや文章は、耳にする人・目にする人の数だけ、受け止めがあります。「頑張ってください」のひと言でさえ、「そう言ってくれる人がいて嬉しい」と思う人もいれば、「今まで頑張ってきました。これ以上何を頑張ればいいのですか」と感じる人もいる。だからといって、相手の顔色を見ながら、話すわけにはいかない。
個人対個人で話すならば とことんまで話せばいいけれど、顔の見えない全世界の人を相手にすることを考えると、相手の読解力を求めるならば、ことばを発することを止めた方がいい(今されているお仕事を辞めた方がいい)。
 
爆笑問題の太田光さんが言っていました。
「ことばを発する仕事をしていると、ことばによって誰かを傷付けてしまうこともあるわけです。だからといって、傷付けないことばばかりを使えないし、傷付けないことばなんて、本当はない。傷付けることばを使わないように気をつけるのではなく、人を傷付けているかもしれないという意識を常に持ちながら、私はことばを発しています」
このまんまの発言ではありません。私の受け止め・記憶です。ことばの発信をする機会がある者として、私も肝に銘じています。ことばを発する作業は、実は自分自身に突き刺さってきます。たとえ誰も傷付けなくても。
 
自分の真意(言いたいこと・伝えたいこと)ならば、誰かを傷付けてしまうかもしれないことばだという意識を持ったうえで、語るべきだと思います。
相手の読解力に頼るのではなくて。
 
「だからぁ、あんたも読解力無いなぁ」なんて怒られたりして。

2013年5月16日 (木)

因幡の源左さん

真宗大谷派 難波別院発行の「南御堂」5月号が届きました。
毎月ありがとうございます。
大阪教区・難波別院 宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要厳修おめでとうございます。
厳修直後の発行にもかかわらず、法要の様子を伝える紙面の充実ぶりに頭が下がります。

「南御堂」 連載漫画「妙好人」 因幡の源左さんのお話を読んでいて、西蓮寺掲示板5月のことばを振り返らせていただきました。
5月のことばは、
「こんなに我慢しているのに! と思っていたら、こんなに我慢されている私でした」
   
妙好人(みょうこうにん)とは、南無阿弥陀仏のお念仏との出遇いを喜び、念仏に生きた方をいいます。

ある日のこと、お念仏や仏法に感心のない方と、源左さんは会話をします。
「寺参りなどせずとも、平生の心構えさえしっかりしていれば、過ちなく人生を過ごせるだろう。世の中、人を許すこころが肝心。何でも堪忍して、堪えて暮らすのが、生きるコツだろう」と、その方は源左さんに言います。
それを聞いて源左さんは言います。
「私は、いまだかつて人さまの過ちを許したことはありません」と。

お念仏に喜びを感じられた源左さんのことだから、平生の心構えも見習うべき所で、何事にも堪え忍んで生きておられるのだろうと思いませんでしたか? おそらく、源左さんに話しかけた方も、「そうですね」という返事を予想していたのではないでしょうか。でも、源左さんは、「人を許したことはない」と言われます。
 
「私は、人さまに許してもらってばかりいます。私は、堪える力のない、煩悩具足の凡夫(煩悩に満ちあふれた 救いようのない者)です。誰が悪い、彼が悪い言うけれど、この私ほど悪い人間はいません。そんな私だけれども、私を仏にしてくださると、親鸞聖人はお説きくださいました。この私がたすかるのだから、他の人が助からないはずはありません。ありがたいことです。人のやることが気に入らず、せまい根性の私が、人さまから許されていました」
と、源左さんは言われたということです。
     
  
この娑婆世界における、人間関係における“我慢”・“堪える”は、「そんなことはない。私の方が我慢している。相手が我慢しているはずはない」という、満ちあふれる煩悩で打ち消されてしまいます。
しかし、そんな枠を飛び越えて、阿弥陀さまに“我慢されて”(人が為す“我慢”という意味ではなくて、“抱きしめられて”というような意味)、私たち一人ひとりは生きているのでした。
因幡の源左さんの姿から、あらためて教えていただきました。
南無阿弥陀仏

2013年5月 7日 (火)

西蓮寺永代経法要2013

2013年4月29日(月) 西蓮寺永代経法要
 
快晴
「おみがきの会」を経て、「永代経法要」の日をお迎えすることができました。
29日当日も、朝からお手伝いの方に来ていただき、準備。参拝の皆さんをお待ちしています。娘たちも、シャボン玉をしてお待ちしていました。
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ご法話は、川村妙慶さん(京都 正念寺)
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(お話…副住職メモより)
○どうしてこんなことになったんだろう? どうしたらいいんだろう?
 答ではなく、問いを求めてください。 
 学んで、問う。それが「学問」です。「学答(がくとう)」とは言わないですよね。

○私たちは、「おかげ」を生きています。
 光が当たると、影ができます。今まで見えなかったものが見えてきます。
 それを教えてくれるのが、宗教です。
 
○仏法聞いて、(知識として)つかむものではありません。
 良いところも悪いところも、私自身を教えていただく。
 そこに南無阿弥陀仏と手が合わさります。

○背中に背負っている荷物を、ちょっと下ろして見てください。
 捨てるのではありません。捨てられるものではありません。
 阿弥陀さまの前で、ちょっと荷物を下ろして、そしてまた背負えるものを背負って、生きて参りましょう。

 

川村妙慶さんと、永代経法要にご参勤くださったお寺さんと一緒に
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妙慶さんはこの後、翌日の佐賀県嬉野でのお話のため、品川駅に向われました。
前日、若坊守と共に夕食をご一緒させていただき、たくさんお話をさせていただきました。
数えるほどしかお目にかかったことがなかったのに、ご法話にお出かけくださり、感謝申し上げます。
またお会いしましょう。ありがとうございます。

2013年5月 1日 (水)

2013年5月のことば

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こんなに我慢しているのに!
 と思っていたら、
  こんなに我慢されている私でした

こんなに我慢しているのに!
「我慢」の「慢」は、「自己にとらわれるこころ」を意味します。自己にとらわれるのですから、自分を正当化します。自分を中心に置きます。
「高慢」「傲慢」という言葉があります。自分を高いところに置いて、他者を見下す態度を「高慢」と言ったり、「傲慢」と言ったりします。
反対に、「卑下慢(ひげまん)」という言葉もあります。劣等感に落ち込むことを意味します。「卑下慢」も、自分と他者を比べたうえで、劣等感に落ち込むのです。やはり自分を中心に置いています。
「こんなに我慢しているのに!」というこころの叫びは、自分を中心に置いての叫びなのですね。
「こんなに我慢しているのに」の奥底に、「分かってくれない」「言うことを聞いてくれない」「誉めてくれない」「認めてくれない」という気持ちが込められてはいないでしょうか。叫びたい気持ちは分かります。でも、自己中心・自己正当化した叫びに、誰が共感してくれるでしょうか?
  
それにしても、私という人間は、他者を見下したり、劣等感に落ち込んだり、まるでシーソーみたいですね。
「自己正当化」とか「自己中心(的)」とか「自分こそ正義」な私のこころを取り上げて文章を書くことが、最近多いです。「そんな生き方は止めましょう」などと「高慢」「傲慢」に訴えているわけではありません。だって、そんな生き方から逃れられないのが私なのですから。
とはいえ、「我慢」という叫びで、他者のいのちを踏みにじっていた私に気付くことが出来ただけでも有り難いことだと思います。だって、せっかく人間として生まれることが出来た大半のヒトが、「自己正当化」している自分、「自己中心的」な生き方をしている自分、「自分こそ正義」を疑わない自分を生きて、そのことに気付かずに一生を終えてゆくのですから。
教えに出遇うことの難しさと、出遇えたことの有り難さに、手が合わさります。

許されている私
子どもが、「いっしょにあそぼ」「ほん、よんで」とじゃれてきたり、大きな声で歌い始めたり、泣き出したりする。そんなとき、余裕があれば、一緒に遊んであげられるでしょう、本を読んであげられるでしょう、声を合わせて歌えるでしょう、「よしよし、どうしたの?」と抱き上げてあげられるでしょう。そんなときの子どもの笑顔に、かえって私の方が癒やされます。
余裕がないとき、「お仕事があるから」「うるさい!」といってしまう。本当にやらなければならない仕事ならば、子どもたちが寝てからやればいいのに(できるのに)。うるさいのならば、自分も一緒に歌えばいい、泣けばいい。けっこうスッキリするから。歌いなさい、泣きなさいという、子どもからの催促なのかもしれません。
虫の居所が悪いときもあるでしょう。でも、虫の居所が悪い原因は、子どものせいではないでしょう。子どものせいじゃないのに、子どもに当たるのは止めた方がいいですよ。後悔するのは私ですから。子どものせいでイライラするときも、それもあります。でも、イライラする原因は子どものせいだと思い込んでいるけれど、子どものせいにしている私に原因があるものです。子どもは、迷惑をかけようと思っているわけではありません。あなただからこそ、泣いたり甘えたりしているのです。あなたを頼っているのです。あなたを信じているのです。あなたを認めているのです。あなたを許しているのです。

「我慢をする」とは、「相手を許すために妥協しながら生きている」という意味が込められている気がします。でも、「許す」ことに妥協など、本来ないのです。「許す」ということに、「ここまでは許すけれど、これ以上は許さない」などという線引き(妥協)などないのです。「許す」といったら、とことん許すのです。そんなことできないって? えぇ、できないでしょう。経験を積み重ね、自己中心な知恵で満たした私のこころに、とことん許すという許容量はありません。自分が正しい、自分さえよければいいという所に立つ許しとは、果たしてどのような許しなのでしょう?
「許す」ことも難しいけれど、「許さない」ことも、また難しい。どんなに「許せない」と怒り狂った相手でさえも、「でも…」という、こころに隙ができてしまう。そのことが良いのか悪いのか分からない。でも、そういうことが、人と人との関係を生きるということなのでしょう。そういう生き物を人間というのでしょう。
「我慢」について考えていたら、「許す(許さない)」の話になってしまいました。許すにしろ、許さないにしろ、どちらにも徹底できない私なのでした。しかし、子どもの寝顔に、許されている私を想います。昼間、きつく叱った私を、「仕事だから後でね」と子どもを後回しにした私を、子どもは許してくれているのでした。あぁ、許されて生きている私なのだと、涙が出てきます。妻の寝顔に、そんなことは感じませんが(妻も同じ気持ちでしょう)。

私の視点から、 他者(ひと)の視点から
親子、夫婦、兄弟、友人、師弟等々、つながりはたくさんあります。どのような関係においても、想いの食い違いはあるものです。食い違いの無い関係が良好な関係なのではなく、食い違いがあったときに言い合える関係こそが、良好な関係なのではないでしょうか。
私が我慢しているということは、他者(ひと)も我慢してくれているのです。お互いに我慢しているものなのです。一方が我慢して成り立つ関係などありません。それなのに、私だけが我慢して関係を保っているように錯覚しています。私が我慢しているということは、相手も我慢しているものなのです。私と同じくらい。いえ、もしかしたら私以上に。
「我慢」の話ばかりで考えると、私の狭さに気持ちも落ち込みますが、いろいろなことが考えられます。私の視点だけではなく、他者(ひと)の視点も考えてみましょう。
私が腹を立てるのは、腹を立てられてしまう私だったから
私が笑顔でいられるのは、笑顔をもらっている私だったから
私に優しさがあるのは、優しさをもらっている私だったから
私の涙は、あふれる愛情を注がれている私だったから
喜怒哀楽、私がどの感情をむき出しにするにしても、感情をむき出しにするに先立って、真剣に感情をむき出されている私だったからでした。「私が」と、何事も、私が自分の想いで為しているつもりでいたけれど、さまざまな感情(縁)の集まることによって、私がいるのでした。

私の視点から、 阿弥陀仏の視点から
「こんなに我慢しているのに! と思っていたら、こんなに我慢されている私でした」ということばに涙する人もいれば、「そんなことはない!」と怒る人もいることでしょう。私に笑顔が足りないのは、周りの人が私に微笑んでくれないからだなどと、他者のせいにしてしまう人もいることでしょう。
私と他者とのシーソーは、なかなか上手い具合には動いてくれません(動かしていないのは、私のこころなのですけれど)。人と人との関係って、そういうものです。難しいものです。
でも、そんなトゲトゲした私の方を向いて、倦(あ)くことなく(見捨てることなく)、やわらかな微笑みと、温もりのある涙でもって私の方を向いている阿弥陀さまがいらっしゃいます。シーソーの私の反対側にいらっしゃいます。阿弥陀さまを信じている者・頼りにしている者だけの対面にいるのではありません。すべてのいのちの対面に、阿弥陀さまはおわします。
人と人との関係では、我慢や優しささえも、私は比べてしまいます。でも、何とも比べようのない慈悲のこころを、阿弥陀さまからいただいている私だったのです。だからこそ、南無阿弥陀仏とお念仏申すことが出来るのです。念仏称えるところに、阿弥陀さまとのシーソーが、息もピッタリ揺れ動いています。     
  
   
 
掲示板の人形

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