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2013年4月 1日 (月)

2013年4月のことば

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われわれの世界には善悪がある。
しかし善悪の世界だけではどうしてもたすかることができぬ。

                               藤原鉄乗

いじめ反対 そのうえで想いを語ります
昨夏、滋賀県の中学生がいじめによって自死の道を選びました。大阪の高校では、部活顧問の先生から体罰を受け、それを苦に自死したとの報道がありました。日本の柔道界では、女子柔道選手らが、暴力行為・パワハラ行為で、監督を告発しました。
ニュースで取り上げられるのは氷山の一角です。いじめも体罰も暴力も、権力を笠に着た嫌がらせも、今もどこかで起きています。尊いいのちの犠牲によって、やっと重い腰を上げ、対策を講じるのですが、人を人と見ぬ行為はいつまでも続きます。
本来は、対策など講じるまでもなく、人を人と認めることができれば、ここまでの悲劇は起きないと思うのですが、あなたはどう思われますか?

善と悪の対岸にあるもの
最近考えていることがあります。善でもない、悪でもない、別のことがあるのではないかと。同じ岸にあって、善だ悪だと騒いでいるけれど、そうではなく、善だ悪だと騒いでいる対岸に、すくわれる道・たすかる世界があるのではないかと。そのようなことを考えているときに、ご本山(京都 東本願寺)の前を通ったら、今月掲示したことばに出遇いました。
私たちの世界には善と悪があります。善と悪というけれど、何が善で、何が悪なのか、実はハッキリと分けられるものではありません。立場・時代・環境によって、善悪は変わってしまうものです。その最たるものが、戦中と敗戦後だと思います。先の大戦を経験された方は、戦時中は是とされたことが、敗戦後一夜明けたら非になってしまったと仰います。この、繰り返してはならない歴史に、日本はまた踏み込もうとしています。戦後60年以上が過ぎ、暦を一回りしてしまうと、戦争の悲惨さを忘れてしまうのでしょうか。
善と悪、ハッキリ分けられたところで、自分の都合に合わせると、悪と思うことでも「この場合、仕方ないから」と言い訳をし、他人がしようものなら、「そんなことをするなんて」と非難します。

私が、「善でもない、悪でもない、別のことがあるのではないかと」考えるようになったのは、私たちが、自分を正義に立て、自分が正しいと信じている。そのような姿が、最近如実に表われているように感じたからです。
インターネットは便利です。文章を打ちながらも調べ物が出来て、重宝しています。しかし、便利なものには影があります。昨夏の滋賀県の中学生が自死した後、いじめをしたとされる3人の生徒に関する情報が、ネット上で一気に流れ始めました。生徒たちだけでなく、その両親・祖父母・勤め先等々までも。しかも匿名で。自死した生徒さんのことを想ってのこと、いじめは許せないとする正義感からでしょう。憤りの気持ちは、よく分かります。しかし、彼らと直接の関係もなく過ごしてきた者が、ネットで情報を流していいものでしょうか? 「いじめた人間が悪いのだから、ネットで情報を流され、裁きを受けて当然だ」と思う方もいることでしょう。しかし、私は、ネットで情報を流す行為もまたいじめだと考えます。情報を見た人が嫌がらせを犯します。いじめがいじめを生み、さらにまたいじめを生じさせます。いつまでもいじめが繰り返される現実は、実は人間の正義が生み出しています。自分を正義に立てる。結局そこから動けないから、いじめや体罰・暴力は続きます。
いじめや体罰・暴力は、特定の誰かが犯しているのではなく、誰もが犯しているのです。実際に手を出していなくても、他者(ひと)を傷付けているものです。
 
罪を犯した者をネット上で非難するのならば(そういう正義感があるのならば)、いじめが起きている段階で、いえ、その前の段階で助けてあげる努力を怠ってはいけないのではないでしょうか。いじめが起こる前の段階ならば、いじめられる側も、いじめる側も、双方を助けられます。
いじめの解決を図ることだけが出来ることではありません。道行く人たち(子どもも大人も)に「おはよう」「おかえり」などと声をかける…それだけで、人は自分のことを認識してくれている人がいるのだと安心感を得られます。もしものときの逃げ場が、そこに出来ると思うのです。問題はそれほど簡単ではありませんが、善と悪とを自分の中で設定して悪を非難するよりも先に、出来ることがあるように思います。

世間に迎合してしまうと、伝えたいことを見失う
いじめは良くないという世間の声を受けて、ドラえもんの世界では、ジャイアンがのび太を殴らなくなったそうです。「のび太のくせに、生意気だ!」「お前の物は俺の物! 俺の物は、俺の物!!」といった、傲慢きわまりないジャイアンのセリフも姿を消すのでしょうか。
毎週放送されているアニメでは、ジャイアンはのび太をいじめますが、年に一度放映される映画では、ジャイアンは体を張ってのび太やしずかちゃん、スネ夫にドラえもんを守ります。このギャップに心を打たれます。また、ジャイアンがのび太に対して優しいばかりだったならば、名作「さようならドラえもん」(注)も生まれなかったことでしょう。
思い返すに、ジャイアンの、のび太に対するいじめが問題になることはありませんでした。『ドラえもん』に込められている大切なメッセージを誰もが受け止めたからこそ、世代をまたいで、国を越えて親しまれているのだと思います。世間に迎合してしまうと、伝えようとしていることを見失ってしまうかもしれません。
   
(注)「さようならドラえもん」のストーリー
未来の国に帰らなければならなくなったドラえもん。しかし、自分のことを自分でできず、いつもドラえもんの道具に頼ってばかりののび太君の存在が心配です。ドラえもんの心配を知ったのび太は、ドラえもんがいなくても自分でなんとか出来ることを示そうと、ジャイアンのいじめに立ち向かいます。殴られても殴られてもジャイアンに立ち向かい、ついにはジャイアンの方が根負けして去って行きます。その姿を見たドラえもんは、涙を流し、のび太を介抱します。朝、のび太が目を覚ますと、ドラえもんはもういませんでした。
   
有無の見を摧破せん
浄土真宗の日常のお勤め「正信偈」に、次のようにあります。

龍樹大士出於世 悉能摧破有無見
  〔龍樹大士(りゅうじゅだいじ)という方が世に出でて、
     ことごとく、よく有無(うむ)の見(けん)を摧破(ざいは)せん〕

「有無の見」とは、「有る」とか「無い」とかで、物事を判断しようとする、煩悩を持って生きる我々の考え方を言います。その考え方を摧破する(打ち破る)おしえを、龍樹大士はお説きくださるであろう、と。
物事が「有る」と考える人にとっては「有る」し、「無い」と考える人にとっては「無い」。しかし、その有無の考え方は、事実とはまったく関係がありません。そう考える、煩悩まみれの私が固執する考え方があるだけです。その固執した考え方を打ち破ったところ、事実を事実として受け止めるところに真実が見えてくると、龍樹大士は説かれます。
この部分を読んだときに、ふと「善悪」と重なりました。「善」と思う人には「善」だし、「悪」と思う人には「悪」。しかし、その「善悪」の考え方は、事実とはまったく関係がない。「善だ悪だ」と固執するところを打ち破ったところに、すくいの道が開かれてくるのだと。

この娑婆世界に生まれてきたからだ
今月のことばの主、藤原鉄乗さんは、真宗大谷派の僧侶です(1879~1975)。藤原鉄乗さんには、次のようなエピソードがあります。
早くにご主人を亡くされたご婦人がいらっしゃいました。一人で息子を養い育て、その息子も結婚し、子どもを授かりました。息子夫婦と孫との暮らしに、今まで頑張ってきた甲斐があったと喜んだのも束の間、息子夫婦ふたりとも病に倒れてしまい、ご婦人は、息子夫婦と孫の面倒を見なければならなくなりました。ご婦人は、普段から仏法聴聞していた藤原鉄乗僧侶に尋ねます。
「今まで頑張ってきたのに、どうしてこんな目に遭わなければいけないのですか!」
鉄乗氏は応えます。
「それは、お前さんがこの娑婆世界に生まれてきたからだ」
優しい言葉でもかけてくれるだろうと期待していたご婦人は、怒りに震えて帰ってしまいます。
鉄乗氏のことばが胸に突き刺さりながらも、息子夫婦と孫の世話を続けていたご婦人は、ある日ふと、ことばが胸にストンと落ちてゆきました。
「あぁ、この私が娑婆世界に生まれたからなんだなぁ」と。
ご婦人は、鉄乗氏の元であらためて聴聞の生活をされ、孫を背負い、リヤカーを引いて野菜を売り、息子夫婦の面倒を見続けられました。
 
善だ悪だといっても、自分の想い計らいの中のことに過ぎません。思い通りにならない現実の中で、「どうして?」「なぜ?」と迷いを深めながら生きているのが私です。善悪の想い計らいが打ち破られたところに、「あぁ、そうだったなぁ」と、胸に落ちる世界(生き方)が見えてくるものです。
人生がつらく悲しいだけならば、光明(すくい)はありません。つらく悲しい現実を、「あぁ、そうだったなぁ」と打ち破られ、光明を見い出されてきた方々の歴史が、浄土真宗のお念仏の歴史です。南無阿弥陀仏
西蓮寺副住職 白山勝久
   
   
  
以上が、2013年4月の文章です。
掲示することばを決めてから文章を書くときと、どうしても書いておきたいことを書き綴って、それからことばを探すときがあります(文章中のことばを、掲示用に自作するときもあります)。
今月は完全後者です。表現したいことがあって悶々としているときに、ご本山の前でことばに出遇いました。「これだ!」と思いつつ、携帯で写真を撮りました。さて、どこにあるでしょう。春の法要でご本山に行かれる方もいると思います。探してみてください。このことばに出遇うための、関西行きであったのだとさえ思えます。
寺報を書いていて思うのは、自分でことばを選んでいるのではなく、ことばが私の前に表われてくださるんだなぁ、ということ。教えに出遇わせていただいているんだなぁということ。
自分で「これ、おすすめ!」ってことばを掲示してはいません。今の我が身に突き刺さったことばなのです。
法語カレンダーをお持ちの方、「このことば いいな」「このことば 分からないな」「このことば 嫌いだな」という読み方を日常はされているかもしれません。しかし、我が身に何か起きたときに、ふとカレンダーに目をやると、今まで「?」だったことばが、突然胸に突き刺さるようなときがあるものです。それゆえに、日々仏法聴聞なのです。聞いているときは分からなくても、ある日ふと、わかるとき(かわるとき)が来ます!!
 
書こうとしたことから逸れました。
①今月の文章、このブログの文章は、ペーパーメディア(以下、寺報)の文章よりも長くなっています。
中見出し「世間に迎合してしまうと、伝えたいことを見失う」のドラえもん云々の文章が、寺報にはありません。
想いを書き綴りすぎて、どうしても収らなくなりました。字を小さくしたり、余白を狭くしたりすれば、何とかなったかもしれませんが、読みにくくしては意味がありません。思い切って削ることにしました。毎月寺報をお読みいただいている方には申し訳ないことです。というこの言い訳も、寺報を読む方の目には触れないわけですが…。
   
②いつもは書いていない「西蓮寺副住職 白山勝久」を、文章の最後に書きました。
ブログのプロフィール覧に名前は明かしているし、寺報でも「編集者」として名前は書いていますが、文章の最後に名前を書いていません。誰が書いた文章かはまったく大事ではないから(伝えたいのはそこじゃないから)と思って。
でも今回は繊細な部分もあるので、あえて名前を書きました。寺報を読まれている方は、住職(父)が文章を書いていると思われている方もいらっしゃいます。今回の文章を読まれて、住職に苦情があっては申し訳ないので。副住職 白山勝久の“想い”です。そこをハッキリさせるために、名前を明記しておきました。
     
   
  
掲示板の人形
Dsc_0688
ウサギとカメ
大久保石材さまよりいただきました。いつもお世話になっています。
 
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コメント

善悪というのは二者対論を始めた者が言い出す話です。大抵の事象では言い出した方が悪になり負けているのですが。それでも、人類にとってヨーロッパはマットウな発想の上に屠瑚されている文化的文明文化が構築されているとそんな思考を経ぐるとそーなんじゃ無いでしょうか?若いから駄目にされてます。へへへ(汗)

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