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2013年3月 6日 (水)

2013年3月のことば

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五濁を生きる我が眼
 弥陀の大悲に包まれて
 光り輝く美しさを見ゆ

有り得ないことが起きている
首都東京を混乱させた、成人の日(1月14日)の大雪。雪国の方々からすれば、「この程度の雪で」と笑われそうな醜態でした。首都機能と、そこに住まう者の弱さを、雪は明らかにしてくれます。
その後も何度か雪が降り、立春を過ぎたとはいえ、まだまだ寒い日が続いています。しかし、いのちは、厳しい寒さを経て花開くもの。人間が「寒い寒い」と震えている間にも、境内では、梅の蕾が花開き、チューリップの芽が出てきました。
桃の節句を迎え、梅が咲き、チューリップが芽を出し、お彼岸を過ぎるころには桜が花開きます。春の色彩は、私たちの目に飛び込み、こころを和ませます(あぁ、花粉症さえなければ、春はなんて待ち遠しい季節なのでしょう)。
春のぬくもりに気持ちが高ぶり、花を見て綺麗だと感じるこころが起こる。春を迎えて、当たり前のことのように感じています。しかし、よく考えてみると、有り得ないことが、私のこころの中で起きているのだと思います。だって、私の眼を通して春への彩りの変化を見ているのですよ。

五濁(ごじょく)の世
お釈迦さまは、この世の汚れを「五濁(ごじょく)」と教えてくださっています。「五濁」とは、「劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁」の五つの濁りを言います。

【劫濁(こうじょく)】 時代の汚れ
 飢饉・疫病などの天災 動乱・戦争などの社会悪
【見濁(けんじょく)】 考え方の汚れ
 邪悪な考えがはびこり、それが常識とされる風潮
【煩悩濁(ぼんのうじょく)】 煩悩があふれる汚れ
 欲望が優先され、悪徳が横行する状況
【衆生濁(しゅじょうじょく)】 人々のあり方そのものの汚れ
 人々の資質が低下する状態
【命濁(みょうじょく)】 寿命の汚れ
 生きる意義が見失われ、充実しない空しい生涯

震災・津波が起こり、それに伴い原発の事故が起こり(劫濁)
正しい情報・詳しいデータが隠され、「大丈夫」のひと言で放射能を浴びせ続けられ(見濁)
原発によって苦しめられている人々がいるのに、原発政策は続けられ、しかも、こんなにも危険な代物を、他の国にも建設しようとし(煩悩濁)
原発がなければ、今の生活も、経済の維持・発展もないからと、原発に頼る生活を良しとし(衆生濁)
原発を推進するということは、ウラン採掘場や原発の現場で働く、放射能を浴びながら働く人を生み出します。また、事故後、住む場所・故郷を追われた人がいます。今現に、福島の地で除染作業に努め、子どもたちが安心して遊べるように命をかけている人々がいます。そのような現実を、自分の生活と切り離して生きるということは、つらい想いをしている人々のいのちを踏みにじるだけでなく、自分自身のいのちをも軽んじていることになります。つらい想いをしている人々がいる。その人たちのおかげで、今の私がいる。そのようなことに想いを馳せることなく生きるということは、空しさを抱えながら生きるということになります(命濁)。
 
「五濁」について考えたとき、原発に関することが頭から離れなかったので、書かせていただきました。しかし、例を挙げることの良し悪しも思いました。例を挙げてしまうことによって、特定の時代・特定の人に対して、「五濁」の姿を見てしまいそうだからです。
「五濁」とは、そうでない時代があったり、「五濁」の時代が来たりというものではありません。「五濁」とは、特定の誰かを指しているのではありません。いつの時代も、いつの世も、誰もが「五濁」を生きています。「五濁」にならない生き方を求めるのではなく、「五濁」を生きている自覚から、いのちは始まります。そういう意味では、2011年3月11日の震災・津波から、私たちは生き始めているのかもしれません。

むなしくすぐるひとぞなき
「命濁」の説明に、「生きる意義が見失われ、充実しない空しい生涯」と書きました。「五濁」の世ゆえに空しいのではなく、「五濁」の世を生きる自覚がないゆえに、空しいのです。「五濁」の世を生きる自覚があれば、そこに、真によりどころとするべきものを求める歩みが始まります。
私たちが普段よりどころ(頼り)としているものはなんでしょうか? お金・健康・家族・地位・名誉…いろいろあると思います。しかし、ひとたび地震や津波が来れば、そんなものは一瞬でひっくり返ってしまいます。自分が頼りとしてきたものが、いかに脆い(もろい)ものか、いかに永遠でないものか、誰もが感じたはずです。
真によりどころとするべきもの、真のよりどころを、親鸞聖人は阿弥陀如来と顕らかにしてくださいました。いかなる困難な状況に置かれても、どこの国の人でも、どんな教えを信じていようとも、性別や貧富や地位に関係なく、生きとし生けるものをすくうと誓われた阿弥陀如来。時代の隔たりのない、広く深い慈悲で、いのちを包んでいます。
「五濁」の世を生きる私たち。さまざまな悩み苦しみを抱えています。しかし、それらは無くせるものでしょうか? すべて他者(ひと)に原因があると言い切れるでしょうか? 
東日本大震災以降、「絆」という漢字(ことば)が大切にされています。人と人とのつながりによって、震災からの復興を目指そうという気持ちの表われだと思います。しかし、「手に手をとって、仲良く助け合おう」というイメージで「絆」と言うのであれば、それは違います。
「絆」という漢字は、家畜を木につないでおくための綱を象っています。本来「絆」には、「しがらみ」とか「世間体を気にしながらの付き合い」などという意味が内包されています。そういう意味が込められていることを知ったうえで「絆」を大切にするのであれば、意味があると思います。
私たちの日常は、世間体を気にしながら、しがらみを生きています。「絆」を大切にするということは、つまりは、生活の場の再認識なのだと思います。そこに、真によりどころとするものが感じられてきます。
親鸞聖人は、真のよりどころ、阿弥陀如来に出遇えたよろこびを和讃に書かれました。

 本願力にあひぬれば
  むなしくすぐるひとぞなき
  功徳の宝海みちみちて
  煩悩の濁水へだてなし

 
阿弥陀如来の、生きとし生けるものをすくいたいという願いに出遇えたならば、いのちを空しく過ごす人はいません。阿弥陀如来の慈悲のこころは、海のように広く際限がありません。五濁の世を生きるこの私をも、その海のように広く大きい慈悲のこころの中に受け止めてくださいます。
 
阿弥陀如来の大悲に受け止められているからこそ、見るもの、聞くもの、触るもの、すべてが美しく感じられます。空しく過ごす人はいません。
時節柄、春の彩りで文章を書き出しましたが、目がくらむほどの夏の暑さも、落ち葉に見る秋の切なさも、冬の暮れゆく淋しさも、いのちの営みすべてが美しく感じられます。
  
   
 
掲示板の人形
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仲の良いワンちゃん2匹
田崎由紀子様よりちょうだいいたしました。ありがとうございます。
 
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コメント

この時期になると毎回さくらが美しく咲くらしいです。ぼくは観光が楽しみです。衝動とかじゃないですが眼に写るもの総べてがサインなんじゃないでしょうか?

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