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2013年2月 1日 (金)

2013年2月のことば

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どれほど巧みに着物を縫っても、
糸に結び目がなかったら みな抜けてしまう。

初心忘るべからず
「どれほど巧みに着物を縫っても、糸に結び目がなかったら みな抜けてしまう」…人生における結び目とはなんでしょうか?
新しい年を迎える際、あらたに目標や誓いを立てられた方も多いことと思います。しかし、年が明け、早くもひと月を経過し、その目標や誓いも、当初の意気込みを失っているのが現実ではないでしょうか。
無理をする必要はありませんが、目標や誓いを立てたときの気持ちは、決して嘘ではありません。その頃の気持ちを忘れることなく、日々の歩みを大切にしたいものです。「初心忘るべからず」です。
 
裁縫は、始めに結び目を作ってから縫い始めます。そして、縫い終わったときにも、結び目が必要です。始めと終わりに結び目ができます。「結び目」とは、人生における始めと終わりとも了解できます。
人生における始めと終わりをシッカリしてこそ、着物は出来上がる(満足できる人生をおくることができる)という了解もできます。
 
シュウカツ
「シュウカツ」といえば、従来は「就職活動」を意味していましたが、最近は新しい意味もあるようです。「シュウカツ」とは「終活」と書き、「自身の終焉を、自分の手で計画的に迎える活動」を言います。
テレビで「終活」の様子を放映していました。ある葬儀屋さんが開催した終活セミナーに参加されていた方にインタビューをしていました。
「私は、学校も、就職先も、結婚相手も、全部自分で決めてきました。だから、自分が死んでからのことも、今のうちに決めておこうと思い、終活をしています」というようなことを仰っていました。
人生の先輩に対して大変失礼ではありますが、インタビューを聞いていて悲しい気持ちになりました。進学する学校も、就職先も、人生を供にする伴侶も、おそらくそれ以外の事柄も、すべて自分の取捨選択で選んできたと思われているのですね。たしかに、ご本人の努力もあることと思います。しかし、すべて自分の判断で人生を歩んできたと豪語する姿に、「あぁ、この人は独りなんだなぁ」と感じました。
私は、さまざまな縁をいただいて、私となっています。私が先にあって、そこに縁が寄ってくるのではありません。縁が私となっているのです。
インタビューに応えていた方に限らず、多くの方が、進学することも、就職することも、結婚することも、自分で選んできた、決めてきたとお考えのことと思います。
しかし、進学することも、就職することも、結婚することも、縁の催しがあるからこそ、我が身に起こる事実なのです。三度三度の食事でさえも。
「縁を生かされている」と言うと、「消極的だ」「自分がないじゃないか」などと批判されます。そうはいっても、「縁を生かされている」のだから仕方がありません。何事を決めるにしても、決めるに先だって出遇いがあります。それら出遇いの積み重ねによって、私が私となりました。
縁の事実に向き合えば、他者(ひと)が見えてきます。他者が見えて初めて、私が見えてきます。「すべて自分で決めてきた」と言えてしまう背景には、周りの人など見えていません。どんなに立派な人生を歩んだとしても、さまざまな縁の交わり、積み重ねに想いを馳せることのない人生は、人生の終焉を迎えたとき、スルスルッと糸が抜けていってしまう虚しさが残るのではないでしょうか。それゆえ、「あぁ、この人は独りなんだなぁ」と感じたのです。

「終活」とは、終わりの結び目を作る作業なのかもしれませんが、他者が見えない「終活」って、どうなのでしょう?
他者が見えていないから、「老後は、私の死後は、迷惑をかけないように」というセリフとなって表われます。生きるとは、縁を生かされているとは、迷惑をかけ合いながら生きているということです。「迷惑をかけないように」とは、一見他者を思いやったことばのようでいて、実はまったく無視したことばです。「迷惑を掛けっぱなしでごめんなさい。今までありがとう」と言えるようになることこそ、「終活」なのではないでしょうか。

揺りかごから墓場まで
さて、『「結び目」とは、人生における始めと終わりとも了解できます』と、先に書きました。「人生における始めと終わり」といったら、一般的に、「誕生から死ぬまで」を指すでしょうか。
すると、「誕生から死ぬまで」と言った場合、一人の人間の生涯をイメージしますよね。しかし、誕生とは、母のお腹から出てきたときを指すのでしょうか? でも、母のお腹から出てくる前に、一年弱の間、母のお腹の中で、母と一緒に生きてきたのですよね。それでは受精したときが誕生でしょうか? しかし、受精に先だって、卵子と精子が必要で、つまりは母と父が必要です。そう考えると、受精より以前から私はいたと言っても過言ではありません。つまり、さかのぼって考えていくと、私の誕生とは、私といういのちがポッと出て、ある日いのちを終えてゆくのではないのです。ずっと ず~っと続いているいのちのほんの一瞬を、私は生かさせてもらっているのです。そのように想うと、「誕生から死ぬまで」などと、区切って考えられるようなことではありませんでした。自分の手を開いて見つめてください。数え切れないほどのいのちが、今、私となって生きています。
『「結び目」とは、人生における始めと終わりとも了解できます』と書きましたが、現実は人生における始めと終わりなどないのです。「いのち」とは、区切って考えられるような代物ではないのでした。
いのちのつながりは、血縁だけに限りません。出遇いは、人に影響を与えるものです。自分で物事を考えている・決めていると思っていても、考える・決める根拠となる思想は、出遇った人々・育った環境のご縁で培われてきたのです。出遇った人やことばや環境などが、私の中にすり込まれていくように、私と出遇った誰かにも、なにかしら影響を与えているものです。そのような意味で、血縁としてのいのちに限らず、いのちというものは相続され続けていくものなのです。
通夜葬儀という葬送を考えてみると、いつの頃からか「別れ」の儀式のようになってしまいました。葬送の場には、故人が出遇った人々(故人に出遇った人々)が集まります。お互いに影響を与え合った、受け合ったからこそ、万難を排して葬送の場に足を運ぶのです。遺族は、葬送の場に身を置き、「あぁ、亡くなった〇〇には、私の知らない、人と人との出遇いがあったんだなぁ」と、知らされるものです。亡き人を縁として、あらたな「出遇い」が始まってゆくものです。「別れ」と共に「出遇い」が始まる。それが葬送の本来の意味のような気がします。

根底に息づくおしえ
私は、縁の中を生かされています。独りではないいのちを生かされています。その事実に目覚めさせてくださるのが、お釈迦さまのおしえです。お釈迦さまのおしえのご縁をいただいて、「南無阿弥陀仏」の念仏をよりどころとされたのが法然上人であり、親鸞聖人です。そして、親鸞聖人その人は亡くなっても、おしえは生き続けています。
着物の生地が「縁」ならば、糸は「おしえ」です。縁とおしえが織り成して、出来た着物が「私」です。
巧みに縫われた着物に、糸は見えません。見えませんが、確かにあります。私がお預かりしているいのちにも、おしえがあります。私自身は「信じない」とか「無信心です」などと言うけれど、たしかにおしえがあるのです。いのちの根っこに、おしえが息づいているのです。
結び目とは、「おしえをよりどころとして生きてゆくこと」、つまり聞法の生活ではないでしょうか。聞法の生活という結び目があるからこそ、ときに立ち止まり、ときに自分を見つめ直す瞬間(とき)をいただけます。おしえとともにあるいのちを生きながら、そのことを感じずに生きるのか、目覚めつつ生きるのか。まったく同じ人生を歩んだとしても、聞法の有無で、その内容はまったく違います。

    

掲示板の人形

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お雛様の土鈴の人形 ご門徒の西脇様よりいただきました。ありがとうございます。

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今月の掲示板も賑やかになりました。
中央のお雛様は、毎年飾っている木製のお雛様。
それ以外は、西脇様よりいただいた土鈴雛です。表情さまざまです。

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コメント

勢いっぱい生きてるのに身には悲しい事が起きます。ぼくはもう若くありません。老いを感じます。動悸、、、いきぎれ、不整脈、医者とあわないといけません。アドバイスどうっすか。

☆ひろポピよ
誰もが、朝には紅顔ありて 夕べには白骨となれる身を生きています。
100年近く生きられている我らの先輩方も、生まれたばかりの赤ん坊もまた、刻一刻と老いを生きています。
病を抱えているのも、あなた一人ではありません。
考えてみると、みんな同じようないのちを生きてるのでした。
精いっぱい生きる必要もありませんでした。

他者(ひと)の人生にアドバイスなんてできないけどね。

2000年ほど前、トルコとかシリアのあたりですかね、パウロという人がいました。

律法を守ることに大変に熱心な方であったようです。しかし、ある日、打ち倒され、馬から落ちて、目から鱗のようなものが落ちたそうです(「目から鱗」の語源、いわゆる「パウロの回心」)。

自分は律法が守れていると思っていたが、自分は偽者であるという身の事実に、目が開かされた、ということでしょう。

たとえば、暴力はいけませんという律法があるとして、自分は守れていると思っていても、よくよく自分を振り返ってみると、何の考えもなく、意味なく、殴ってしまった後から、これは相手のためを考えた体罰であって、暴力ではないと、暴力/非暴力に分けているだけのことであって、インチキですね。

我々自身は、まあ、物理的に拳骨をふるってはいないかも知れませんが、暴言は吐いているかもしれません。

パウロさんという方は、自分は、律法は何一つ守れない身だったという事実に眼が開かれ、ありとあらゆる救済の道(自分が善行を積んで、善人となって救われる)は、そもそも、自分には閉ざされているのだという事実に気が付かされたわけです。

パウロさんは、お手紙の中で、

“Now we have been inactivated [katergethemen] in relation to the law” (Romans 7:6).

と書いておられます。

イエスに出偶ってしまうと、たとえば暴力/非暴力などの排中律(体罰だから暴力じゃないよ)の停止・不活性化(二重性の提示)、法の停止、あるいは法の外にして内ということが起きてしまうわけですね。

すると、すると、律法は、履行不可能。まもれない。

すべての律法が、ひとつの例外もなく、自分には履行不可能なものに変わってしまう(すると、変わっているのは、自分の眼。よって「眼から魚のうろこのようなものがおちた」)。救済へと続いていたはずのあらゆる修行の道が閉ざされる。

しかし、別に、はなから、いかなる律法も履行不可能だった身の事実に気付いただけなので、はなからそうであったものになっただけでもあるわけです。

(続く…かも?)

いかなる律法も自分には履行不可能である身の事実に気付かされたとき、すべての救済へと続いている道が、一つの例外もなく閉ざされたとき、それでも、破壊されつくせない残余があります。

なぜでしょうか?

毎日、おれ、だめじゃんと思っても、後悔、後を絶たず(新しい格言)、なインチキ人生が、そもそも毎日続いて行くことそれ自体が、破壊されつくせない残余があることの証明になっています。

(破壊しつくせないものがあるから、破壊が毎日おきるわけで、そうでないと、後悔あとをたたず、がそもそもなりたちません。どこかで、反省がおわるはずですが、おわりません。問われ続けます。)

その破壊しつくせないものとは、信実です。

「信実」というのは、新約聖書ではピスティスです。

世の中一般、もっと言えば、キリスト教の外部では、「信仰」と訳したりしておりますが、キリスト教内部では、ピスティスは「信実」と訳したりします。

ピスティスは、旧約聖書では、「まこと」と訳される、エムーナーのことですね。

(いわば「信」と漢字で書いて、「まこと」と左訓がついている状態が近い)。

キリスト教では、人間の側に信仰心などというような浄い心はなく、人間はみな罪びとですが、神の信実、というものは、あるわけです。

「主イエスのまこと」というような言い方。

あるいは、人間が神さまを信じているのではなくて、主語と述語が逆で、神さまが人間を信じています(これをキリスト教では「受け身」と言います)。

新約の「信実 ピスティス」は、旧約の「まこと エムーナー」で、「必ず成就、実現 する確かなもの」という意味になりますね。

すると、五劫か十劫か、分かりませんが、われわれが、決して、結果を見ることはないでしょうが、とおーーーーーい、未来には、「必ず成就、実現する」ことが約束されているものと考えられます。

(続く…かも…)

既に割礼を受けていてから召されたのですか。それなら割礼のあとをなくそうとしてはいけません。割礼を受けていないで召されたのですか。それなら割礼を受けようとしてはいけません。割礼は取るに足らないこと、無割礼も取るに足らないことです。おのおの自分がそれによって召された召命のうちに留まっていなさい。(パウロ書簡)

召命は、なにものの方向へも、また、どんな場所に向かっても、召し出しません。召命はいっさいの召命の棄却です。いっさいの具体的な召命の棄却でないとしたら、召命とはなんでしょうか?当然、それは偽である召命に代えて、真な召命を持ってこようとすることではありません。あちらではなくてこちらを採るなどということを、いかなるものの名においてなしうるのでしょうか。そうではなくて、召命は召命それ自体を召し出させるのです。

既にある位牌を粗大ごみに出して法名軸にしたら救われると、細木数子が言ってたから…とかではないわけです。人間が何をしたらではないわけです。

すでにそうであるものになりなさい、と。
(はなから、神さまから信じられてあるわけで、そもそものはじめから、わたしたちは、あることを赦されてあるわけですので。)

「すべてが過ぎ去る」(パウロ書簡)のであるから、人間はかぎりなく奪われうる奪われないものです。人間がかぎりなく奪われうる奪われないものであるとすると、このことは、奪われるべき、あるいは見出しなおすべき人間の本質なるものは存在しないこと、人間とはかぎりなく自己自身に欠ける存在であること、つねにすでに自己自身から分かたれた存在であることを意味しています。しかし、人間が限りなく奪われえるものであるとすると、このことは、この「奪い」を超えたところに、また、この「奪い」のなかにあって、つねになにものかが残っていること、人間とはこの残りもののことであること、それらを意味していることになります。すなわち、残余としての人間は、救済をもたらす者でも、救済を他者にもたらす者でも、そして、救済をもたらされる者ですらもありません。そうではなくて、救済を可能にする装置であり、救済しえないものです。救いがたいものが、救いを可能にするインスツルメントなのです。

私が念佛しているのは、私の死んだ祖母が念佛していたからです。他に何の理由もいりません。根拠の根拠、理由の理由はないからです。私の死んだ祖母が念仏していたのは、そのまた、死んだ祖母が念佛していたからでしょう…。それは数え上げることができません。人間には数えきれません。無量です。つまり、理由はありません。因果関係の破棄。(因が無量ということは、人間が数え上げられる因があるという因果関係の徹頭徹尾の破棄を意味しますので。つまり、「不思議なご縁で」→原因が数え上げられない、「おかげさまで」→原因が数え上げられない。)

また、念佛していても、私が救いがたいものである事実は何も変わりません。念佛していたら救われる権利や、資格が得られるような、善人に、私が変化したりはしません。

私が念佛していることで、いま・ここの誰か他人を救っているわけでもありません。

私が念佛するのは、私が救われる”ため”ですらありません。(念佛するという行為の外部にある他の目的のための手段ではない)。

私が念佛することの「受益者」は、「まだ・ない」わけです。五劫か、十劫か、分かりませんが、私には決して、結果を見ることができない、とおーい未来の人類が、いま・ここで、私が念佛していることの受益者です。

(終り)

(補遺)

聖パウロは浄土真宗の妙好人。

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