« 2013年1月 | トップページ | 2013年3月 »

2013年2月

2013年2月22日 (金)

3番の歌詞に潜む 時代の鏡

「茨城県民の歌」の3番の歌詞が問題となっています(疑問が生じています)。

 世紀をひらく 原子の火
 寄せる新潮 鹿島灘
 このあたらしい 光をかかげ
 みんなで進む足なみが
 あすの文化をきずくのだ
 いばらき いばらき
 われらの茨城
 
一般公募された歌詞・曲の中から選考され、1963年(今から50年前)の3月16日に公表されました。
県民の歌が制定される6年前(1957年)、茨城県東海村に、日本初の原子炉が設置されました。これからの日本のエネルギーに、あたらしい光の道筋を照らしたことを誇りに、3番の歌詞が生まれました。当然の流れだと思うし、震災後の原発問題が起きなければ、問題にすらならなかったことだと思います。
しかし、原発の事故が起こり、茨城県の隣の福島県に住む方々は、多大な被害を受けています。そうした中、3番の歌詞に対する疑問が生じています。原発礼賛の歌詞はおかしいのではないか、歌えない、無くした方がいいのではないか。
茨城県としては、50年の間、県民に“親しまれてきた”歌詞だから、変える(無くす)つもりはないと答えています。上に載せた3番の歌詞も、茨城県のHPからコピペさせていただきました。消えてるかと思ったら、ちゃんとありました。

この50年の間に、疑問を呈した方はいらっしゃると思います。でも、多くの(ほとんどの)人々が原発礼賛・原発があるということを、当たり前のようにして生きてきました。先に書きましたが、原発の事故が起きなければ、今もなお、3番の歌詞に疑問は生じていないことと思います。
  
みなさんは、3番の歌詞を無くした方がいいと思いますか? 残した方がいいと思いますか?
私個人的には、なにかが起きたときに、それを無くすという考え方は、どうなのだろう?と思います。問題・疑問は、すでにして存在していたわけです。そのことに気付くのは、いつも“なにかあってから”です。つらいですね。でも、声を大にして疑問を訴えて続けてくださった方がいるわけです(この件に限らず)。そういう方の声や存在、おかしいと思われる点をふりかえることなく、「おかしいものは削除」というのは、都合の悪いものの消去とともに、大切なものまで見失うことに繋がると思っています。
それが考え方の根っこです。そのうえで、3番の歌詞によって苦しんでいる方がいるのであれば、見直しも考えるべきことだと感じています。玉虫色の応え方で申し訳ありません。でも、今日のブログをお読みになった方が、それぞれに考えてみていただきたいことだと思います。

さて、その歌詞ですが、公募されたと書きましたが、3番の歌詞については、応募があった歌詞ではないようです。

歌詞の原作者は元高校教員の川上宏昭さん(85)=同県石岡市。応募では「原子」という言葉を用いておらず、比喩的に東海村の隆盛を描いたという。有識者らでつくる当時の審査委員会が原子力を強調する手直しをしたらしい。川上さんは「歌に関わった人に迷惑がかかる」と多くを語らない。 (「東京新聞」2013年2月18日夕刊より)

審査委員会による手直しがあったようです。私の憶測ですが、応募の段階で、原子力礼賛の歌詞を入れようと意図していたかもしれませんね。
「東京新聞」の記事を読んでいて、「どっかで聞いた話だなぁ」と思い返していました。
「真宗宗歌」です。
真宗門徒が、法要や法座の一番初めに歌います。1番だけを歌うことが多いと思いますが、3番まであります。
  
 1
 ふかきみ法に あいまつる
 身の幸なにに たとうべき
 ひたすら道を 聞きひらき
 まことのみむね いただかん
  
 2
 とわの闇より すくわれし
 身の幸 なににくらぶべき
 六字のみ名を となえつつ
 世のなりわいに いそしまん
    
 3
 海の内外の へだてなく
 みおやの徳の とうとさを
 わがはらからに 伝えつつ
 みくにの旅を ともにせん
  
「真宗宗歌」も、公募によって誕生しました。「立教開宗700年記念法要」が厳修された1923(大正12)年4月9日に発表されました。現在の真宗教団連合の名の下に、「真宗宗歌」の歌詞を募集しました。
たまに、1番を歌いながら「身の幸なににくらぶべき」と歌いそうになってしまいます。そう、1番と2番は似ているのです。3番は、歌詞を比べると、何か違うなと感じます。
全国からの応募作品の中から、三重県 真宗大谷派 本宗寺の土呂 基さんの歌詞が選ばれました。1・2番は、土呂さんの作品ですが、3番は、選考委員のひとり、文学博士の佐佐木信綱氏によって添削が加えられたそうです。佐佐木さんは、宮中の御歌所寄人であります。1923年当時の天皇制国家の時代状況を反映しています。
阿弥陀さまの徳・親鸞さまの徳を歌った歌でありながら、天皇を讃えるようにも聞こえるような巧みな歌詞になっています。
このお話は、熊本県の真宗大谷派 山田寺前住職の湯浅成幸さんからお聞かせいただきました。ご本山出版部発行の伝道ブックス68『親鸞さまのみ教え 「真宗宗歌」に聞く』にも詳しく書かれています。

県歌や宗歌、公の歌、普段何気なく口ずさんでいる歌の中に、知らないうちに、大きな力の陰謀(大袈裟?)がすり込まれているかもしれません。
茨城県民の歌のニュースから、そんなことを考えていました。

2013年2月15日 (金)

自分が作りだした闇の中を、自ら彷徨っている

2012年2月13日(水)西蓮寺聞法会開催
夜半の雪も朝にはやみ、ほとんど積もりませんでした。ホッとしたのも束の間、昼前から強い風が吹き始めました。
「今日、聞法会に来てくださる方は大変だなぁ。風に飛ばされなければいいけど…」
などと心配していましたが、7名の方がお寺にお参りくださいました。有り難いことです。
今年の聞法会は、松本梶丸さんの『生命の見える時 一期一会』(中日出版社)からお話をいただきたいと思います。所収の「善悪の向こう岸」「人間の知恵とはなにか」をご縁に、親鸞聖人のことばにかえりました。
「人間の知恵とはなにか」の中で、高史明さんのことばが紹介されていました。
現代の最大の不幸は、人間が人間の知恵を世界の中心においたことだ

   

さて、先日電車に乗っていて、広告を眺めていると、某学習塾の広告に、ある中学校の入試問題が書かれていました。
「あなたの身の回りにあるもので、一番の発明だと思うもの一つをあげ、その理由を150字以内で説明しなさい」
という問題でした。
電車に乗っている間も降りてからも、“一番の発明だと思うもの”を、ずっと考えていました。でも、なかなか思い浮かびませんでした。というか、“一番”を決められまでした(入試において、アウトですね)。
あなたにとって、“一番の発明だと思うもの”はなんですか?
 
そんな問題を目にしたものですから、頭の隅っこに残っています。
2月に入り、鼻がムズムズしてきました。花粉症到来です。さっそく鼻ズルズル状態。鼻をかみ続けます。数年前から、水分率の高いティッシュが販売されています。このティッシュは優れものです。従来のティッシュで鼻をかみ続けると、鼻の下が乾いてヒリヒリしてきます。でも鼻水は出てくる。痛みをこらえて鼻をかんでいたものです。しかし、水分率の高いティッシュを使うと、まったく鼻がヒリヒリしません。花粉症シーズンの必需品です。割高ではあるのですが。
水分率の高いティッシュで鼻をかみながら思いました。「このティッシュこそ、“一番の発明”だ!!」と。(「なんだ、そんなものが?」と思われるかもしれませんね)

決して大袈裟ではなく、このティッシュは大発明だと思う私ですが、そこからいろいろと考えました。
このティッシュが大発明だと思ったのは、私が花粉症を患っているからです。
日本に住む人は、花粉症の人が多いですよね。高度経済成長期に森林の伐採が進み、成長の早い杉の木を大量に植樹し、その杉が成長して大量の花粉をまき散らしているから。しかも、道路が舗装され、花粉が土に帰ることもできず飛散し続けている。だから、花粉症を発症する人が多いと聞いております(他にも原因・理由はあり、複合的な要因で発症するので、このことだけが原因とは言い切れるものではありませんが)。
そう考えると、経済成長・発展の延長線上で、花粉症になる要因も発生してきたわけです。面白いものです。一番の発明品と考えたものは、発明(成長・発展)の副産物なのですから。
このティッシュ自体は素晴らしい発明であったとしても、それが発明される背景には、右肩上がりの経済成長を目指してきた歴史があるわけです。つまり、人間の欲望の果てに、生まれてきたものなのです。本来は生み出されなかったかもしれない発明ですね。
そのようなものが果たして“一番の発明”なのだろうか。そういうことを思います。

「そのようなものが果たして“一番の発明”なのだろうか」などと、ものに失礼な言い方をしました。問題があるのは、“もの”ではなく、人間の方なのですから。
ドラえもんが出す便利な道具を使い、調子に乗って使った挙げ句、ことごとく我が身に失敗が返ってくるのび太君。原作者の藤子・F・不二雄さんは、「のび太君の姿は、我々の姿なのです」とインタビューに応えられていた記憶があります。
いつも失敗ばかりののび太君を、「嫌いだ」「懲りない奴だ」「しょうがない奴だ」と言う人もいますが、実は、経済成長・発展、その果ての現代を生きる我々の代表者なのです、のび太君は。「嫌いだ」「懲りない奴だ」「しょうがない奴だ」の罵(ののし)りは、すべて自分に返ってきます。
原発の問題が、すべて「ドラえもん」に凝縮されていたのでした。他人事ではない、自分事でした。

   

発明とは、物に限りません。
お釈迦さまは、仏の智慧に目覚め、私たちに説き広めてくださいました。
仏の智慧の発見は、人知を超えた発明とも言えるのではないでしょうか。

仏の智慧、教えに出遇うか出遇わないかが、人生を大きく変えます。


松本梶丸さんの文章に、マザー・テレサのことばも紹介されていました。
これほど恵まれた豊かな国に生きる日本人の表情が、貧しく暗いのは、日本人が正しい信仰を持っていないからだ

「“正しい信仰”とは何か?」という議論は今は置いておいて、
教えに出遇い、教えに生きることの大切さを、
学習塾の広告をご縁に教えてもらいました。

2月に入って2週間が過ぎようというのに、
つまり、2週間毎日見てきた法語カレンダー2月のことばが、今になって突き刺さってきました。
先に紹介した高史明さんのことばでした。
人間とは その知恵ゆえに まことに 深い闇を生きている

2013年2月14日 (木)

しんらんさまをたずねて

真宗大谷派東京教区HP「くらしにじぃーん」
しんらんさまめぐり~史跡・伝説をたずねて~」のページを新設しました。ぜひご覧ください。

2013年2月 8日 (金)

育てたように子は育っている

相田みつをさんのことばに
育てたように子は育つ」というのがあります。
このことばを見た方から、
「育てたように子どもは育ちませんよね」と感想を言われたことがあります。
さて、そうでしょうか?

たしかに、「育てたいように」「親の希望通りに」は、子どもは育たないでしょう。
でも、子どもの姿は、「育てたように育」った姿なのです。

「育てたように」とは、親の意図的な教育・躾(しつけ)を言っているのではないと思います。
「子は、親の後ろ姿を見て育つ」という表現がありますが、親の姿・行動・仕草は、よく見ているものです。
自分の子どもを見ていて、「なんか、自分に似ているなぁ」と思うことはありませんか? それは、教えてそうなったわけではないですよね。
掃除好きとか、丁寧な言葉遣いとか、優しい気遣いとか、そういうところが似てくれればいいのですが(親にそういう姿があればの話ですが)、自分の気にくわないところばかり似てしまうものです。それだけ、よく見てくれているのです。
足癖が悪いとか、時間にルーズだとか、周りの評価を気にするとか、周りの人を非難・批判するとか、そういうところが似てしまうものです、真似するものです。でもそれって、何もないところから生まれてくる性格ではなく、親の姿の映しなのだと思います。つまり、「育てたように」子は育ってくれているのです。

子どもに、「あぁしろ」「こうしろ」言う前に、自分の姿を振り返ってみましょう。
子どもに、「あぁなれ」「こうなれ」言う前に、自分が実践して見せましょう。
育てたように子は育ちます。
    
 
   
4歳の娘が、「あぁ、つまんない」とつぶやいているので、
「なにが つまんないの?」と尋ねると、「わからない」と言うので、
「“つまんない”って、どういう意味?」と尋ねると、「わからない」と言われてしまいました。
つまり、意味も分からずに、ことばを発していたということ。
まったく何もないところから「あぁ、つまんない」などとは言えないと思うので、真似をしていたということ。私の真似を。我が身を反省したしだいです。子どもからお育てをいただいています。

そういえば、娘が3歳のとき、私と妻の前で突然言いました。
「パパ、ママ、こんな生活でいいの?」
私も妻もドキッとして、顔を見合わせました。
「う~ん、いいわけはないよね」というような応えをした気がします。
「なんで急にあんなこと言ったんだろう」…それから数日、私と妻との話題の中心でした。
ふとしたときに、原因(元ネタ)がわかりました。
録画したアニメから「こんな生活でいいの!?」のセリフが。“クレヨンしんちゃん”でした。
私と妻、「これかぁ!!」と顔を見合わせて納得しました。
しかし、「パパ、ママ、こんな生活でいいの?」のことばは、戒めとして、紙に書いて貼ってあります。
うん、このままでいいわけはないんだよ。

2013年2月 1日 (金)

2013年2月のことば

Img153
どれほど巧みに着物を縫っても、
糸に結び目がなかったら みな抜けてしまう。

初心忘るべからず
「どれほど巧みに着物を縫っても、糸に結び目がなかったら みな抜けてしまう」…人生における結び目とはなんでしょうか?
新しい年を迎える際、あらたに目標や誓いを立てられた方も多いことと思います。しかし、年が明け、早くもひと月を経過し、その目標や誓いも、当初の意気込みを失っているのが現実ではないでしょうか。
無理をする必要はありませんが、目標や誓いを立てたときの気持ちは、決して嘘ではありません。その頃の気持ちを忘れることなく、日々の歩みを大切にしたいものです。「初心忘るべからず」です。
 
裁縫は、始めに結び目を作ってから縫い始めます。そして、縫い終わったときにも、結び目が必要です。始めと終わりに結び目ができます。「結び目」とは、人生における始めと終わりとも了解できます。
人生における始めと終わりをシッカリしてこそ、着物は出来上がる(満足できる人生をおくることができる)という了解もできます。
 
シュウカツ
「シュウカツ」といえば、従来は「就職活動」を意味していましたが、最近は新しい意味もあるようです。「シュウカツ」とは「終活」と書き、「自身の終焉を、自分の手で計画的に迎える活動」を言います。
テレビで「終活」の様子を放映していました。ある葬儀屋さんが開催した終活セミナーに参加されていた方にインタビューをしていました。
「私は、学校も、就職先も、結婚相手も、全部自分で決めてきました。だから、自分が死んでからのことも、今のうちに決めておこうと思い、終活をしています」というようなことを仰っていました。
人生の先輩に対して大変失礼ではありますが、インタビューを聞いていて悲しい気持ちになりました。進学する学校も、就職先も、人生を供にする伴侶も、おそらくそれ以外の事柄も、すべて自分の取捨選択で選んできたと思われているのですね。たしかに、ご本人の努力もあることと思います。しかし、すべて自分の判断で人生を歩んできたと豪語する姿に、「あぁ、この人は独りなんだなぁ」と感じました。
私は、さまざまな縁をいただいて、私となっています。私が先にあって、そこに縁が寄ってくるのではありません。縁が私となっているのです。
インタビューに応えていた方に限らず、多くの方が、進学することも、就職することも、結婚することも、自分で選んできた、決めてきたとお考えのことと思います。
しかし、進学することも、就職することも、結婚することも、縁の催しがあるからこそ、我が身に起こる事実なのです。三度三度の食事でさえも。
「縁を生かされている」と言うと、「消極的だ」「自分がないじゃないか」などと批判されます。そうはいっても、「縁を生かされている」のだから仕方がありません。何事を決めるにしても、決めるに先だって出遇いがあります。それら出遇いの積み重ねによって、私が私となりました。
縁の事実に向き合えば、他者(ひと)が見えてきます。他者が見えて初めて、私が見えてきます。「すべて自分で決めてきた」と言えてしまう背景には、周りの人など見えていません。どんなに立派な人生を歩んだとしても、さまざまな縁の交わり、積み重ねに想いを馳せることのない人生は、人生の終焉を迎えたとき、スルスルッと糸が抜けていってしまう虚しさが残るのではないでしょうか。それゆえ、「あぁ、この人は独りなんだなぁ」と感じたのです。

「終活」とは、終わりの結び目を作る作業なのかもしれませんが、他者が見えない「終活」って、どうなのでしょう?
他者が見えていないから、「老後は、私の死後は、迷惑をかけないように」というセリフとなって表われます。生きるとは、縁を生かされているとは、迷惑をかけ合いながら生きているということです。「迷惑をかけないように」とは、一見他者を思いやったことばのようでいて、実はまったく無視したことばです。「迷惑を掛けっぱなしでごめんなさい。今までありがとう」と言えるようになることこそ、「終活」なのではないでしょうか。

揺りかごから墓場まで
さて、『「結び目」とは、人生における始めと終わりとも了解できます』と、先に書きました。「人生における始めと終わり」といったら、一般的に、「誕生から死ぬまで」を指すでしょうか。
すると、「誕生から死ぬまで」と言った場合、一人の人間の生涯をイメージしますよね。しかし、誕生とは、母のお腹から出てきたときを指すのでしょうか? でも、母のお腹から出てくる前に、一年弱の間、母のお腹の中で、母と一緒に生きてきたのですよね。それでは受精したときが誕生でしょうか? しかし、受精に先だって、卵子と精子が必要で、つまりは母と父が必要です。そう考えると、受精より以前から私はいたと言っても過言ではありません。つまり、さかのぼって考えていくと、私の誕生とは、私といういのちがポッと出て、ある日いのちを終えてゆくのではないのです。ずっと ず~っと続いているいのちのほんの一瞬を、私は生かさせてもらっているのです。そのように想うと、「誕生から死ぬまで」などと、区切って考えられるようなことではありませんでした。自分の手を開いて見つめてください。数え切れないほどのいのちが、今、私となって生きています。
『「結び目」とは、人生における始めと終わりとも了解できます』と書きましたが、現実は人生における始めと終わりなどないのです。「いのち」とは、区切って考えられるような代物ではないのでした。
いのちのつながりは、血縁だけに限りません。出遇いは、人に影響を与えるものです。自分で物事を考えている・決めていると思っていても、考える・決める根拠となる思想は、出遇った人々・育った環境のご縁で培われてきたのです。出遇った人やことばや環境などが、私の中にすり込まれていくように、私と出遇った誰かにも、なにかしら影響を与えているものです。そのような意味で、血縁としてのいのちに限らず、いのちというものは相続され続けていくものなのです。
通夜葬儀という葬送を考えてみると、いつの頃からか「別れ」の儀式のようになってしまいました。葬送の場には、故人が出遇った人々(故人に出遇った人々)が集まります。お互いに影響を与え合った、受け合ったからこそ、万難を排して葬送の場に足を運ぶのです。遺族は、葬送の場に身を置き、「あぁ、亡くなった〇〇には、私の知らない、人と人との出遇いがあったんだなぁ」と、知らされるものです。亡き人を縁として、あらたな「出遇い」が始まってゆくものです。「別れ」と共に「出遇い」が始まる。それが葬送の本来の意味のような気がします。

根底に息づくおしえ
私は、縁の中を生かされています。独りではないいのちを生かされています。その事実に目覚めさせてくださるのが、お釈迦さまのおしえです。お釈迦さまのおしえのご縁をいただいて、「南無阿弥陀仏」の念仏をよりどころとされたのが法然上人であり、親鸞聖人です。そして、親鸞聖人その人は亡くなっても、おしえは生き続けています。
着物の生地が「縁」ならば、糸は「おしえ」です。縁とおしえが織り成して、出来た着物が「私」です。
巧みに縫われた着物に、糸は見えません。見えませんが、確かにあります。私がお預かりしているいのちにも、おしえがあります。私自身は「信じない」とか「無信心です」などと言うけれど、たしかにおしえがあるのです。いのちの根っこに、おしえが息づいているのです。
結び目とは、「おしえをよりどころとして生きてゆくこと」、つまり聞法の生活ではないでしょうか。聞法の生活という結び目があるからこそ、ときに立ち止まり、ときに自分を見つめ直す瞬間(とき)をいただけます。おしえとともにあるいのちを生きながら、そのことを感じずに生きるのか、目覚めつつ生きるのか。まったく同じ人生を歩んだとしても、聞法の有無で、その内容はまったく違います。

    

掲示板の人形

Dsc_0327_2
お雛様の土鈴の人形 ご門徒の西脇様よりいただきました。ありがとうございます。

P1010698_2
今月の掲示板も賑やかになりました。
中央のお雛様は、毎年飾っている木製のお雛様。
それ以外は、西脇様よりいただいた土鈴雛です。表情さまざまです。

« 2013年1月 | トップページ | 2013年3月 »

フォト
2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ