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2013年1月 1日 (火)

2013年1月のことば

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深海魚 光に遠く 住むものは つひにまなこも 失ふとあり
                                     堀口 大學

   
民意と現実
明けましておめでとうございます。暮れの国政選挙の喧騒を経て、新しい年を迎えました。本年もよろしくお願いいたします。
さて、選挙の結果は、皆さんご存じの通り自民党の圧勝となりました。民主党政権に愛想を尽かした民衆が、長きに亘り政権を担っていた自民党に再び期待を込めた結果なのでしょうか。
2011年3月11日の東日本大震災と、その後に起きた原発事故。世間は、当時の与党の不手際を厳しく責めます。責められて仕方ない側面もありますが、さて、あの大惨事の渦中、誰が手際よくタクトを振ることが出来たでしょう。今も続く原発事故の被害も、最悪の場合を想定せず、地震大国日本に54基もの原発の建設を推進してきたのは、どこの誰でしょう。
毎週金曜日の国会前や首相官邸前での反原発デモは続いています。その他にも、さまざまな抗議活動が起きています。自分が反原発の意思表示をしているせいか、民意は反原発・脱原発・卒原発に向いているものとばかり思っていました。しかし、情勢はまったく正反対の方を指し示しました。あぁ、私は何も見えていませんでした。

深海魚に見る私
今月のことばは、昭和42年(1967年)の歌会始において、詩人の堀口大學氏が詠まれた歌です。お題は「魚」でした。
太陽光が届かない深く暗い海の底に生きる深海魚は、視力を失います。大學の歌は、まさに深海魚のことを詠っているのでしょうが、それと同時に、なにも見えずに生きている人間の有り様を歎き悲しんで詠んだようにも聞こえてきます。
イメージが大切だ
原発の事故により、故郷を奪われた人々がいます。被害を受けない地域に住んでいる人は、「そんな危ない所からは早く逃げなさい」と言います。しかし、離れられない場所・いつかは帰りたい土地こそが、故郷なのではないでしょうか。捨てられないのです。あきらめきれないのです。
ということを言うと、「自己責任でそこに住んでいるのだから、覚悟があるのでしょう」と言われてしまいます。他者(ひと)の故郷を、早々に避難した方がよい環境に変えてしまったのは、どこの誰でしょう。この私なのです。我が身の振る舞いが見えずに、他者を責める。つひに眼を失っているのは、この私です。他を責めるのはたやすいですが、自分を責める(自分の姿に気づく)ことは、難しいことです。
原発事故後、「原発の事故や、悲しみの中にいる人がいることを忘れてはいけない」と耳にします。悲しみに寄り添って生きてくださる方もたくさんいらっしゃいます。しかし、投票において、「なんの政策に重きを置きましたか?」という問いに、多くの人が「経済政策」と応え、「原発問題」と応えた人は僅かでした。
「他者(ひと)のことも大切だけど、先ずは自分が生きることを考えなければいけないでしょう」と言われれば、確かにその通りかもしれません。
(こういう話をするとき、宮沢賢治さんの「世界全体が幸福にならないかぎりは、個人の幸福はありえない」ということばが突き刺さってきます)
しかし、経済や雇用を優先して投票した結果が、暮れの選挙結果ですか…。経済のために、また新たな争いを起こそうというのですね。これからの日本が、世界がどのような方向に進んでいくのか分かりません。どの政党が政権を担うべきなのか、正解だってありません。しかし、私たちはもっともっと考えなければいけません。先が読める訳ではないけれど、正解が導き出せる訳ではないけれど、イメージしなければいけません。何も見えていない私を自覚しながら。

コンセントの向こう側
ある朝、妻から「あなた、夜、ポットのコンセントを抜くの忘れたでしょ」と注意されました。べつにいいじゃんと思いつつ、「ごめん」と返事をする私に妻は言います。「コンセントの向こうを想像してご覧なさい」と。
妻の戒めのことばは、「さようなら原発集会」における武藤類子さんのスピーチからの引用です。
「私たちは、なにげなく差し込むコンセントのむこう側の世界を、想像しなければなりません。便利さや発展が、差別と犠牲の上に成り立っている事に思いをはせなければなりません。原発はその向こうにあるのです」。
このスピーチを耳にしたとき、原発問題に無自覚・無関心でいた私を思い知らされました。大切な訴えでした。肝に銘じたつもりでした。でも、忘れてしまっていました。思い切り頭を殴られたような朝でした。

無明(むみょう)
「真理に暗いこと」「何も見えていないこと」を「無明」といいます。「自分さえ良ければいい」と、自分しか見えていない(実は自分すら見えていないのですが)私の姿を教えてくださることばです。
光届かぬ深海で視力を失う深海魚のように、無明なる生き様をさらす私は、他者(ひと)のみならず、自分自身も見失って生きています。

すでに光の中
深海魚は、現実に光から遠く離れて住んでいます(生きています)。でもね、私たち人間は、光に照らされながら生きているのです。誰をも平等に照らす光、阿弥陀の慈悲の光を浴びながら生きているのです。それなのに、光から遠く離れ、眼を失う生き方をしている私なのです。

光があるからこそ、見えてくるものがある
「無明」とは、「他者が見えない生き方」のみを言うのではありません。悲しみに襲われ、孤独に身を置く私も、「無明」のただ中と言えるでしょう。
生きていれば、人と関わりを持っていれば、つらいこと悲しいこと腹立たしいこと、たくさんあります。嬉しい記憶・幸せな時間など、悲しい出来事によって一瞬で吹き飛んでしまいます。愕然とする現実の中で、それでも私は生きていかねばいけません。年間の自死者が何年にも亘り三万人を超す日本です。「自殺はいけないよ」と声を掛けることは、もしかしたら「そんな危ない所からは、早く逃げなさい」と言い放つことと同質なのかもしれません。自死を止めること、とがめることは、相手が見えていないことなのかもしれません。
自死を選ぶほどの苦しみを抱えた人は、何が見えているのでしょう。悲しい現実だけなのでしょうか。我が身に降り注ぐ阿弥陀の慈悲の光を感知して欲しい。
もちろん、感知したところで、悲しみやその原因が解消するわけではありません。現実は現実のままです。しかし、光の感知によって、「こっちの道に行ってみようかな」「立ち止まってもいいんだ」「独りじゃなかった」と、今まで見えていなかった生き方が見えてくるものです。
悲しみは・・・つらいです。でも、悲しみがつらいのは、悲しい出来事そのものよりも、悲しみによって周りが見えなくなってしまうことなのかもしれません。
悲しみ(苦しみ・悩み)にぶつかると、何も見えなくなってしまいます。悲しみのただ中にいる私に見える道は…一本。でも、他にも道はあります。道ではない所も、私が歩めば道になります。
先に進むばかりが歩みではありません。立ち止まることも、来た道を戻ってみることも、悲しみを抱えながらも越えてゆく歩みです。
「誰も助けてくれない」「こんなに頑張っているのに」と、孤独に陥っているときも、実は周りに人はいます。自分自身で壁を作って、独り閉じこもってしまっているだけのことなのでした。

これからが これまでを決める
堀口大學の詩に、「つひに」とあるのが、希望だと感じます。「遂に(終に)」ということは、「まだ」眼を失わずに生きているとも受け取られます。
他者(ひと)を人と思わず、自分の利益のために他者を傷付け、悲しみをきっかけに自ら悲しみを深めてしまう私。そんな私の姿に目覚めてくださいと、呼びかけられている(光の中にいる)我が身なのでした。暗くて見えないのではなく、自ら眼を閉じていました。すでに光の中を生きています。
南無阿弥陀仏
 
   

掲示板の人形
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いろいろ飾りすぎて、とても賑やかになりました

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コメント

明けましておめでとうございます。年末は自らの無明がよく身に染みました。とは言え生きれている現実があるのでワイキョクした意味で大丈夫と思っています。今年もよろしくお願いします。

☆ひろポピくん
明けましておめでとうございます
汝、起ちて 更に衣服を整うべし
本年もよろしくお願い致します
           

繋がっちゃいました。すみません。一個、削除して頂けると有り難く。ごめんなさい。

http://www.amazon.co.jp/dp/4400121038 

『「贈与」された生命を、おごることなく、またいたずらに卑屈になることもなく、淡々とイエスと共に、また人々と共に、生きていきたい』p.263

☆HikkenDokugoさん 明けましておめでとうございます
一個、削除しておきました。
と、リンク、なにも繋がりませんです。

すいません。最後にスペースが余分だったようです。ごめんなさい。

http://www.amazon.co.jp/dp/4400121038

「十字架の神学」をめぐって: 講演集 (新教新書)

という引用元をリンクしたつもりでしたです。

謹賀新年

ことしも何卒よろしくお願い申し上げます。特に声明のご指導を。

>宮沢賢治さんの「世界全体が幸福にならないかぎりは、個人の幸福はありえない」

賢治さんにこういう言葉があったとは初めて知りました。私は幸福・不幸ということを考えない人間ですので、自分の幸・不幸を感じたことが無いのですが、改めて考えてみると仏法を聞けて念仏が出ること以外に幸福なんてあり得るのかと思います。賢治さんも熱心な法華宗の人だった筈で、何を幸福だと思っていたのでしょうかね?

12月下旬から、安田理深先生の講義録出版のための原稿編集を分担させていただいています。他の方は相応学舎の留守居役の平野さん(私の知人の女性のご主人)、相応学舎で講義を持っている虎頭先生、本多弘之先生のお嬢さんの3人です。今回はテープ起こしが済んでいる原稿の校正を行っていますが、話し言葉を読む文章に修正する大変さを痛感しています。また代名詞の使用が多いので、それが何を意味しているかをよく考えて言葉や文章を補っていますが、これが安田先生の教えを理解するのに大いに役立っています。(実は理解出来ずに誤解しているのかも知れませんが) あとは引用されている仏典を特定して、文章を原文に忠実に直すことをやっていますが、安田先生は仏典の中の「故」「本」「由」「謹」などの字が有る箇所に教法の肝要を見ていることが分かりました。大いに学ばされる役をいただきました。2時間行なうとヘトヘトに疲れますが、充実感を味わわせていただいております。これが幸福なのかも知れません。

無明は、光明をいただくから無明だと知らされるのでしょうね。

では、また。

明けましておめでとうございます 今年もよろしくおねがいいたします
わたしの、聞法仲間の一人、年齢はわたしと同じ、
その彼女、昨年は転んで骨折2回も、
でも、骨折して寝てなんら居られないと、腕を包帯で吊ってお寺に、
みんなに言われちゃうのよ、何でそんなに嬉しそうな顔してお寺に行くの?
だって、逆に聞きたいわ、なんでこんな良い機会があるのに来ないのかしら・・
こんなステキな人が私の近くに居るのです 感謝!

☆やすさんへ
先日はお寺参りにお越しくださり、ありがとうございます。留守をしており、失礼しました。
宮沢賢治さんのことばは、「幸せ」をどのように受け取るかで、解釈が分かれていることばでもありますが、今月のことばの文章中においては、すんなりと出てきました。

安田先生の原稿編集、ご苦労様です。お疲れのこととは思いますが、集中して一気に文章に向かうと、不思議とお話ししている先生の姿や、その空間の中にいるような気になりますよね(なりませんか? 失礼しました)。その中で、『仏典の中の「故」「本」「由」「謹」などの字が有る箇所に教法の肝要を見ていることが分かりました』という気づきは、大いなる財産ですね。うらやましいです。

新たなお仕事(お役目)と、新たな第一歩を踏み出す年となりました。そんなやすさんとご一緒できること、光栄であります。本年もよろしくお願い致します。

☆佐智子さまへ
明けましておめでとうございます。いつもコメントありがとうございます。こちらこそ、本年もよろしくお願い致します。

佐智子さんの聞法の歩みもすてきだなぁと感じていましたが、お友達も素晴らしいですね。
おしえは、「聞かなければいけない」ものではなく、「聞かずにはおれない」ものですよね。
我が身に何事かあればあるほどに、身がおしえを求めるものだと思っています。
それだけに、聞法の場も、笑顔(表面的な笑顔ではなくて、ここにこられてよかったぁという安堵の表情)で溢れても良いはずなのになぁ…。

お友達と、佐智子さんに感謝!!

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