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2012年12月 9日 (日)

「いただきます(なむあみだぶつ)」

前の文章(2012年12月のことば)で感謝を連呼しすぎたせいか、嫌悪感を持たれてしまいました。

「先に私ありき」と思っていると、自分にとって都合の良いことには感謝できても、毎度毎度の食事とか、そばに人がいてくれることなど、“あたりまえ”と感じることになかなか感謝はできません。
「それって、感謝することなの?」「どうして感謝しなければいけないの?」という疑問が生じることでしょう。
私がいて、そこに縁が集まってくるのではありません。ありとあらゆるご縁が集まって、私となっています。

感謝は、押しつけられてするものではありません。自ずから湧いて出てくるものです。
「先に私ありき」では、押し付けられるように感じてしまいます。
「縁が集まっての私」という自覚には、感謝が自ずと湧いてきます。常に感謝に包まれての私です。
 
報恩感謝のお念仏も、押しつけではありません。自然と湧き起こったものが、絶え間なく今も湧き続けています。縁をいただいて、私があることを感じ謝している人々の間で。
 
 幸せだから感謝するのではない。
 感謝しているから幸せなのだ。

 
 生きるとは 感謝感謝の日々なりき
  わが灯の 消えるときまで

   釋尼聖智(西蓮寺門徒)

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コメント

あっあっ!?
ちなみに浄土宗(親鸞より)の解釈だと
「無量寿、無量光、(いただきます)」で「至心欲生、(ごちそうさま)」です。
いっけん、下ネタですが教義によるとこんなかんじっ。えへっ。

メラニー・クラインという人によると、赤ちゃんは「羨望」だそうです。「羨望」というのは、赤ちゃんは完全に受け身な存在。すると、自分を育ててくれるもの、育んでくれるものが、ないのではなくて、なぜ、あるんだ、あるからうざいので、なければいいのにと。これは言わば、おっぱいを押し付けられて息ができない状態と想像することができます。そこで、赤ちゃんは「無」を欲望すると言われます。つまり、あるのではなくて、なければ、欲しいと思わないということで、何もかもみんな爆破したいと思う。「死の欲動」とか言われます。主体設立の根源的暴力ともいわれますね。ここで「無というもの」というものが、現実に実体として外在はしてません。現実それ自体は、ベタにあるわけですね。ただ純粋に存在している。不在がない、欠如がない。すると、窒息してしまう。自他の距離が取れない。分別知が持てない。世界が意味あるものとして立ち上がらない。で、

一旦、「無」を欲望する。現実それ自体には存在しない「無なるもの」という概念、分別知、言葉、を欲望する。不在を導入するわけです。すると、世界が意味あるものとして立ち上がります。お母さんがいないのは消滅したとか死んだではなくて、いま、たまたま、ご飯つくってるから、そばにいてくれないわけで、不在なだけ。なくなってはいない。また、来てくれる。不在というものは現実にはないので、抽象であり、言語の効果であり、分別知です。すると、メラニークラインのいう、「羨望」から「感謝」への昇華が可能となります。つまり、考えたら、ないのではなくて、あってくれること、自分をはぐくんでくれるものが、ないのではなくて、あってくれることの方が奇跡であると。純粋贈与であると。それが「感謝」です。くどいですが現実にはあるものがあるだけで、不在というものはないので、あくまでも言語の効果、プラパンチャ、虚論なんですけども、それが人間。ないのがデフォというのは、知恵ですからね。体験ではなくて。煩悩なくして菩提なし。

HikkenDokugoさん
煩悩があってよかったです。感謝

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