NHK[クローズアップ現代」 12月10日(月)の放送を見ました。
テーマは、「商品リスクをどう避ける?」
製品や食品の事故を防ぐため(限りなくゼロにするため)、企業は努力をしています。
ひとたび製品や食品の不備・欠陥等が見つかれば、企業は回収・対応を迫られます。そのこと自体は当然のことなのかもしれませんが、消費者にも問題はあるはずです。にも関わらず、なにかまずい点があれば、ここぞとばかりに不備を訴え出します。最近、製品や食品の説明書きが事細かになったと感じませんか? そのことは、企業側の、クレーム回避の手段です。「こんなことまで注意を促さなければいけないの?」「こんなことする人いないでしょ」って、笑えたことはありませんか? でも、実際に「このようなことをしてはいけません」と書かれている、笑えるような行為をする人がいるのです。或いは、企業側はそこまでイメージして、注意を訴えているのです。アメリカの洗濯機の取説で、「洗濯機の中で遊んではいけません」と書かれていると聞いたことがあります。「そんな人いるかよ!」って突っ込みたくなりますが、実際にいるのでしょう。或いは、そのように注意を促していないと、「取説に書いてないから、いけないんだ!」と言い出す人がいるのでしょう。
番組のテーマは「商品リスクをどう避ける?」ですが、その奥には、リスクを自分で背負おうとしない、責任を他者に押し付ける現代日本の消費者の姿があります。番組を見ていて、そちらこそ中心のテーマのように感じました。
番組では、最近流行の料理教室の模様が映し出されていました。その料理教室では、料理の作り方を教えるだけでなく、食品の自分の嗅覚での賞味期限の感じ方や、台所用品の片付け方について教えてくれるのです。料理教室の先生が教えておられました。「包丁を洗うときは、刃とは逆の方にスポンジをあてて洗ってください。ほら、これだと手を切ることがないでしょ」。先生のことばを、懸命にメモする受講生。
スタジオゲストの先生は、「消費者側にもリスクを残すということも大事なんですけどね」と仰っていました。「こうすればケガしないですよ」と、前もって教えてあげる親切もありますが、あえて言わずに、ケガをすることを通して覚えるということもあります。しかし、現代は「あえて言わずに」ということが許されないのです。包丁の刃にスポンジをあてて、ケガをしたら、包丁を作り、取説に注意を書かずに売った方が悪になってしまうのです。
番組を見て、現代(いま)、そんな状況なの?と思ってしまいました。自分で考える、イメージするという作業をしないのですね。
自分で考える、イメージするということについて
NHKが続きますが、大河ドラマについて思うことがあります。いえ、大河ドラマを見て、その評価について思うことがあります。
今年(2012年)の大河ドラマ「平清盛」は歴史的視聴率の低さで話題になっています。その評価として、「画面(映像)が汚い(暗い)」「この時代のことは、よくわからない」ということをよく耳にします。
しかし、「映像が暗い」のは、「龍馬伝」のときも、時代のリアリティを出すために、けっこう暗かったと思います。でも、「龍馬伝」のときは、そんな批判は、今年ほどは聞かれなかったのではないでしょうか。福山雅治は好きだけど、松山ケンイチは嫌いということの表われのような気がしますが。「この時代のことはよく分からない」という声も、番組のせいではなく、自分自身の不勉強に尽きるのではないでしょうか。好まれる織田・豊臣・徳川時代に比べて、確かに分かりづらい、似たような名前が出てきてややこしい時代ではありますが、批判の矛先になることではないと思います。分かりづらい、あまり知られていない時代とは言われるけれど、よくぞここまで表現してくださったという内容だと思うのですが。
毎年毎年、春先には大河ドラマの批判の声が聞こえてきます。賞賛の声は聞こえませんね。人は、誉めるよりも、文句を言っている方が楽しいのでしょうね。
今書こうとしたことは、「文句を言うもんじゃないよ」ということではありません。文句や批判は、あってしかるべきだと思います。しかし、評価・批判を聞いていると(目にすると)、「本当に自分でそう思って批判してるのかな?」「その批判って、番組は悪くないよね」と思ってしまいます。なんだか、マスコミやネット上の意見に扇動されているように感じます。自分の目で番組を見て、自分の意見として「ここが悪い」「ここは事実と違うよね」と表現すればいいのですが、本筋と違うところで、自分の想いもなく批判しているだけのように感じます。自分で考えるということ抜きに、想いのこもっていない表現をしていることに気持ち悪さを感じます。
大河ドラマは、一年を通して、特定の人物・集団を描いています。一年を通して見ていると、「映像が暗い」だの「この時代のことは知らない」とは、批判にも意見にもならないことだと気付けると思うのですが。清盛晩年の老害など、見事に演じられていると思います。まぁ、批判の対象になるということは、実はそれだけ気にしている人がいることの裏返しでもあるのですが。
で、今書こうとしたのは、NHKの番組についてではありません。
2012年12月16日(日) 日本は、衆議院選挙(小選挙区・比例選)の投票日を迎えました。東京都は、都知事選もあります。いつの時代であっても、選挙は大切なことに変わりないのですが、今回は特に、今後の日本を左右する大きな選挙であります。
ハッキリ言って、これだけ政党があると、どこに投票して良いのか分からなくなります。できうる限り政党の資料(マニフェスト等)を入手し、妻と意見を交わし合いました。16日は投票に行く時間がないため、期日前投票に行って参りました。
自民党に愛想を尽かし、民主党に期待を込めた前の選挙。しかし、政権を奪った民主党のていたらくに落胆し、別の党(人)に期待を込めようとする私たち。報道によると、自民党が優勢だそうな。一度愛想を尽かした相手は、また見直すような相手になってでしょうか? こっちがダメだからあっち。あっちがダメだったからまたこっち(或いは、別の そっち)。さて、果たしてそこに、「よく考える」「イメージする」「想いを込める」ということがあるでしょうか?
今書いていることは、特定の政党を批判、あるいは応援しているわけではありません。誤解を生む危うさがあります。書かずにおこうと思いました。でも、「よく考える」「イメージする」「想いを込める」という所に立ったとき、投票日を迎えるにあたり、どうしても書かずにはおれない気持ちになり、書いています。
ある党は「国防軍」を作ると訴えています(重ねて申しあげます。特定の政党の批判・応援をしているわけではありません)。
「国が国民を守るのは当然だ」と仰る方もいます。しかし、今の自衛隊もそうですが、自衛隊も国防軍も、国民を守るためのものではありません。国を守るのです。「どう違うの?」と思われるかもしれませんが、国土・領海・領空・日本の憲法や法律(もかな)を守るためのものです。国民一人ひとりのいのちを直接守るためのものではありません。
仮に国防軍なるものが出来たとすると、ゆくゆく「徴兵制」も出来ることでしょう。そうなると、自分や自分の子どもたちが戦地に行く可能性が出てきます。戦地ではなくても、危険地帯に行く機会が生じます。
「国が国民を守るのは当然だ」と言ったときに、その言葉の奥に、「自分や自分の子ども、親しい人が戦場で、人と人との殺し合いをすることになるかもしれない」という想いはありますか? そこまでの想いを込めて「国が国民を守るのは当然だ」と仰っているのですか?
今日(12月15日)、東京五組の同朋会(聞法会)が麻布のお寺であり、行ってきました。道中、門徒さんと一緒になり、お寺までの道のりをいろいろ話しながら行きました。
(門)「アメリカで、銃の乱射事件があったらしいねぇ」
(私)「らしいですね。誰もが銃を持てる環境なのですから、その手の事件も後を絶たないでしょうね。ある州で、拳銃保持を禁止する州条例を出したら、国から認められなかったという話も聞いたことがあります。銃を持つのが当たり前。銃を持たない、つまり、売れないと困るわけですよね」
(門)「銃や軍事産業は、経済にとって大きいわけだよ。やめるわけにはいかないんだよ、人間は」
(私)「原発も同じですよね。安定したエネルギーの供給とか言っているけど、核保有のための原発ですよね」
(門)「そう。それらを持つということが何を意味するのかなんて、どうでもいいんだよ」
というようなことを話していました。
ここまで書いて想いました。日本に住まいする私たちは、今現在「戦地」や「危険地帯」と言われるところに行くことはありません。しかし、私たちの生活を成り立たせるために、今実際に戦い、危険地帯に身を置き、身を削りながら生きている人々がいらっしゃいます。その人たちのことを考えることなく
『「国が国民を守るのは当然だ」と言ったときに、その言葉の奥に、「自分や自分の子ども、親しい人が戦場で、人と人との殺し合いをすることになるかもしれない」という想いはありますか? そこまでの想いを込めて「国が国民を守るのは当然だ」と仰っているのですか?』
と言うことは、その人たちのいのちを踏みにじっていることにもなってしまいます。
本日の同朋会で、講師の先生は教えてくださいました。
「今の私たちの生活はね、食べるものにしても、着るものにしても、よその国の人々の力抜きにはありえないんですよ。会ってもいない人たち、顔も見ていない人たちのおかげで、私たちの生活は成り立っているんです。会っていない、顔も見ていない・・・つまり“かげ”です。だから、“かげ”なる力に感謝の想いを込めて“お”と“さま”をつけて“おかげさま”っていうんですよ。そういう“おかげさま”のはたらきの中を、私たちは生かされているんです。面と向かって“おかげさまで”ってお礼を言うことがありますが、それは“おかげさま”じゃないです“おもてさま”です。見えないはたらきと、私たちはつながっているんです!!!!」
見えないはたらき、見えないつながりの中の私。見えないから「知らない」でいいのか、「自分さえよければいい」でいいのか。それは、つまりは自分自身の否定でもあります。関係を断ったところで、自分を立たせようとしているのですから。でも、そうではない。つながりなどないと思っていても、つながって生きているいのちなのです。
どこに投票すれば良いのか? どれが正解なのか?
正解など、ありません。どこに投票しても、どこが政権を担っても、やはりいろいろ問題は出てきます。
しかし、投票する一人ひとりが、自分の中で「よく考える」「イメージする」「想いを込める」ということが大事なのです。
そうでないと、「包丁を洗うときは、刃とは逆の方にスポンジをあてて洗ってください。ほら、これだと手を切ることがないでしょ」と言われないと包丁を洗えないように、「私たちの言うとおりにすれば、ケガ(戦争)は起こりませんからね」「私たちの言うとおりにすれば、安全・安心ですからね」という言葉を鵜呑みにして生きてゆくことになります。で、結局ケガをするのは、私たち一人ひとりです。で、結局文句を言うのも私たち一人ひとりです。自分の中で「よく考える」「イメージする」「想いを込める」ということをしてこなかったことは棚に上げて。
投票日を迎えるに当たり、想うことを書かせていただきました。
ダラダラ書きましたが、投票には必ず行きましょうね。そのことにおいて、少しは考えているわけだから。
「考えた結果、投票に行かないことにした」という人もいるかもしれません。でも、“おかげさま”のいのちを生かされているということを想うとき、投票せずにはおれないのではないでしょうか。