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2012年12月

2012年12月29日 (土)

せっかく出会えた人なんだから、新年の挨拶も欠かしたくありません

さて、昨日のブログでは、今夏、私の祖母が阿弥陀さまの元へ還ったお話を書きました。
ブログをお読みの方から、今朝メールが届きました。「おばあさまを亡くされたのに、あなたに年賀状を出してしまいました。すみません」と。

ぜんっぜん気にしてないから大丈夫です。どうか気になさらないでください。
だって私、今年賀状書いてますから

「喪中のため、新年のご挨拶失礼します」に対し、想うところがあり、その想いをブログでも書いたことがあります。
お読みください。

2008年12月8日(月)の文章です
そういう考え方もあるんだなぁって気持ちでお読みください
  
  
お読みいただけましたか?
大切な人、身近な人亡くしたことと、新年の挨拶欠礼の関連性が、私にはまったく分かりません。
新年のご挨拶はキチンとしたいし、年賀状はこちらの近況報告にもなります。
1年欠礼するということは、2年間礼を欠くことになってしまいます。限りある いのち を生きる中で、2年間の空白はもったいなさすぎます。しょっちゅう会える人なら、会ったときに挨拶もできますが、年賀状だけでつながっている恩師・級友・仲間・旅先で知り合った人などなど いらっしゃいませんか?  そういう人たちのことを想うと、私は欠礼する気にはなりません。
喪中につき新年の挨拶は失礼いたします・・・欠礼は、大切な人との別れが理由なのでしょうか。
大切な人との別れに重ね、今つながって生きるいのちとの関係も欠かしてしまっていいのでしょうか。
それは、亡き人の望んでいることでしょうか。

などということを思うのです。
あの、「喪中につき新年の挨拶欠礼」のハガキを出しからといって、そのことを咎めようとか、正そうというのではありません(私の言っていることが正しいわけでもありませんし)。
「そういう考え方もある(のかな)」と思っていただければ幸いです。

ちなみに、西蓮寺では、家族みんなで語り合って、「年賀状を出そうね」ということを確認しあいました。みんなそれぞれに年賀状を用意しています。
ですから、お寺としても、ご門徒の皆様に年賀状を出させていただきます(2012年中にお家の方が亡くなられたお宅に対しては、年賀状をお出ししていません。そこまで こちらの主張を押し付けるのは、間違っていますから)。
「坊守さんのお母さんが亡くなられたって聞いたけど、年賀状がきたわ!!」って驚かないでくださいね。

今年もお世話になりました。
来年もまたよろしくお願い致します。

2012年12月28日 (金)

故郷(阿弥陀さまのふるさと)でつながっている

妻の帰省にお供して、秋田に行ってきました。
雪がすんごいこと!! 吹雪いて、雪煙が舞っていました。
雪の恐さをしらない長女は、大喜びです。

妻の祖母が入院している病院へ、娘ふたりを連れてお見舞いに行ってきました。
長女は、祖母(彼女にとっては曾祖母)を覚えているけれど、次女は「だぁれ?」って感じ。

今夏、私は祖母(母の母)を亡くしました。
最後に会ったのは3年前。大好きなおばあちゃんなのに、私を育ててくれたおばあちゃんなのに、元気ではあるけれど、いつ何が起こるかわからないのに、私はこの3年間おばあちゃんに会いに行きませんでした。「行けませんでした」というのは言い訳です。行く気があれば、行けるものです。
そして、いよいよ今夏、家族で祖母の待つ長崎に行く予定にしていました。長崎行きの2週間ほど前に、おばあちゃんは阿弥陀さまのもとへ還ってゆきました。結局、3年前に手を握ったのがお別れになってしまいました。
後悔というものとは違うけど、やっぱり…会いたかった。

そんな想いがあったので、ベットから手を差し出す妻のおばあちゃんに、長女の手を重ねてあげました。
「ほら、握ってあげて」
おばあちゃんの手(指)を握る長女。
「しっかり握ってあげてね」
おばあちゃんに孫の温もりを伝えてあげました。
泣くつもりはなかったけど、いろいろなことが頭を巡り、涙がこぼれました(妻に気づかれていないと思うけど)。

大切な人には、会いたいときに会っておきましょうね。

病院を後にして、学生時代にお世話になった恩師のお寺へ、恩師に会いに行きました。
お寺のそばで車から降ろしてもらい、私だけお寺へ。妻と娘たちは先に帰宅しました(お母さん、雪の中運転をありがとうございます)
恩師も、昨年 阿弥陀さまの元へ還られました。
本堂で手を合わさせてもらい、先生の奥様、娘さん、お孫さんに会って、お話をすることができました。

秋田県にある恩師のお寺。
東京に住む私にとって、秋田へは、本来なかなか出かけない地です。
しかし、秋田出身の妻と出会い、私の背負っているものをすべて認めて一緒になってくれて、帰省のたびにお供して(とても楽しみ)…調べてみたら、妻の実家と恩師のお寺は、車で10分ほどの距離。妻との結婚後、3回お寺参りをさせていただきました。
ご縁だなぁ。自分の想い計らいを越えた中を、生かされています。
お寺には3回お参りさせていただいていますが、京都で倒れて秋田に帰られた恩師との再会は、やはり果たせませんでした。最後に会って、会話をしたのは、いつだったかなぁ。10年ほど経ってしまうかもしれません。

でも不思議なもので、恩師とも、(私の)おばあちゃんとも、面と向かうことはかないませんが、いつもいっしょにいる、つながっているような感覚があります。
親鸞聖人のおしえに出遇えたおかげだと思っています。南無阿弥陀仏

追記
坊守の故郷の長崎 若坊守の故郷の秋田 我がこころの故郷京都
娘たちにとっても、故郷(縁のある地)がたくさんあってよかったなぁと感じています(行くとなるとお金がかかりますが)。
故郷…阿弥陀さまのお浄土で、みんなつながっています。

2012年12月23日 (日)

寒さにあたらないと、花は咲きません

春の準備
妻がチューリップの球根を50個買ってきました。
娘たちと一緒に、チューリップの球根を植えました。
私が穴を掘り、長女が球根を置き、次女が土をかける。
と、それほどきれいな流れ作業が出来たわけではありませんが、娘たちはワクワクしています。

球根に、植え方・育て方についての注意書きが添えてありました。
「チューリップは、一定期間寒さにあたらないと、花が咲きません」
春に咲く花だから、暖かい方がいいのかなと思ってしまいますが、花咲くために、冬の寒さも必要なのですね。
数年前の暖冬の際、「暖冬だから、今年は桜の開花が早そうですね」なんて会話をよく耳にしましたが、実際は例年より開花が遅かった記憶が。桜もまた、冬の厳しい寒さが必要なのです。

人の目を、気持ちを潤わせてくれる花々。そのために、冬の寒さをシッカリ身に受けているのですね。
チューリップの、桜の、春の花々の彩りに、躍動するこころをいただくと共に、
花々の背景にある堪え忍ぶ力に、敬いの気持ちが湧いてきます。

人もまたしかり。
厳しい寒さに堪え忍ぶ果てに、春が訪れます。
厳しさがそのまま輝きに変わります。
     
  
    
  
  
  
いずれ、冬が訪れます。
そしてまた春が訪れます。

2012年12月17日 (月)

戦後67年も経つと、戦争を起こしたくてウズウズするらしい

争いは、
他(外)からの攻撃によって起こるのではなく、
自ら(内)からの想いによって生ずる。

2012年12月16日 (日)

「よく考える」「イメージする」「想いを込める」

NHK[クローズアップ現代」 12月10日(月)の放送を見ました。
テーマは、「商品リスクをどう避ける?」
製品や食品の事故を防ぐため(限りなくゼロにするため)、企業は努力をしています。
ひとたび製品や食品の不備・欠陥等が見つかれば、企業は回収・対応を迫られます。そのこと自体は当然のことなのかもしれませんが、消費者にも問題はあるはずです。にも関わらず、なにかまずい点があれば、ここぞとばかりに不備を訴え出します。最近、製品や食品の説明書きが事細かになったと感じませんか? そのことは、企業側の、クレーム回避の手段です。「こんなことまで注意を促さなければいけないの?」「こんなことする人いないでしょ」って、笑えたことはありませんか? でも、実際に「このようなことをしてはいけません」と書かれている、笑えるような行為をする人がいるのです。或いは、企業側はそこまでイメージして、注意を訴えているのです。アメリカの洗濯機の取説で、「洗濯機の中で遊んではいけません」と書かれていると聞いたことがあります。「そんな人いるかよ!」って突っ込みたくなりますが、実際にいるのでしょう。或いは、そのように注意を促していないと、「取説に書いてないから、いけないんだ!」と言い出す人がいるのでしょう。
番組のテーマは「商品リスクをどう避ける?」ですが、その奥には、リスクを自分で背負おうとしない、責任を他者に押し付ける現代日本の消費者の姿があります。番組を見ていて、そちらこそ中心のテーマのように感じました。
番組では、最近流行の料理教室の模様が映し出されていました。その料理教室では、料理の作り方を教えるだけでなく、食品の自分の嗅覚での賞味期限の感じ方や、台所用品の片付け方について教えてくれるのです。料理教室の先生が教えておられました。「包丁を洗うときは、刃とは逆の方にスポンジをあてて洗ってください。ほら、これだと手を切ることがないでしょ」。先生のことばを、懸命にメモする受講生。
スタジオゲストの先生は、「消費者側にもリスクを残すということも大事なんですけどね」と仰っていました。「こうすればケガしないですよ」と、前もって教えてあげる親切もありますが、あえて言わずに、ケガをすることを通して覚えるということもあります。しかし、現代は「あえて言わずに」ということが許されないのです。包丁の刃にスポンジをあてて、ケガをしたら、包丁を作り、取説に注意を書かずに売った方が悪になってしまうのです。
番組を見て、現代(いま)、そんな状況なの?と思ってしまいました。自分で考える、イメージするという作業をしないのですね。 


自分で考える、イメージするということについて
NHKが続きますが、大河ドラマについて思うことがあります。いえ、大河ドラマを見て、その評価について思うことがあります。
今年(2012年)の大河ドラマ「平清盛」は歴史的視聴率の低さで話題になっています。その評価として、「画面(映像)が汚い(暗い)」「この時代のことは、よくわからない」ということをよく耳にします。
しかし、「映像が暗い」のは、「龍馬伝」のときも、時代のリアリティを出すために、けっこう暗かったと思います。でも、「龍馬伝」のときは、そんな批判は、今年ほどは聞かれなかったのではないでしょうか。福山雅治は好きだけど、松山ケンイチは嫌いということの表われのような気がしますが。「この時代のことはよく分からない」という声も、番組のせいではなく、自分自身の不勉強に尽きるのではないでしょうか。好まれる織田・豊臣・徳川時代に比べて、確かに分かりづらい、似たような名前が出てきてややこしい時代ではありますが、批判の矛先になることではないと思います。分かりづらい、あまり知られていない時代とは言われるけれど、よくぞここまで表現してくださったという内容だと思うのですが。
毎年毎年、春先には大河ドラマの批判の声が聞こえてきます。賞賛の声は聞こえませんね。人は、誉めるよりも、文句を言っている方が楽しいのでしょうね。
今書こうとしたことは、「文句を言うもんじゃないよ」ということではありません。文句や批判は、あってしかるべきだと思います。しかし、評価・批判を聞いていると(目にすると)、「本当に自分でそう思って批判してるのかな?」「その批判って、番組は悪くないよね」と思ってしまいます。なんだか、マスコミやネット上の意見に扇動されているように感じます。自分の目で番組を見て、自分の意見として「ここが悪い」「ここは事実と違うよね」と表現すればいいのですが、本筋と違うところで、自分の想いもなく批判しているだけのように感じます。自分で考えるということ抜きに、想いのこもっていない表現をしていることに気持ち悪さを感じます。
大河ドラマは、一年を通して、特定の人物・集団を描いています。一年を通して見ていると、「映像が暗い」だの「この時代のことは知らない」とは、批判にも意見にもならないことだと気付けると思うのですが。清盛晩年の老害など、見事に演じられていると思います。まぁ、批判の対象になるということは、実はそれだけ気にしている人がいることの裏返しでもあるのですが。


で、今書こうとしたのは、NHKの番組についてではありません。
2012年12月16日(日) 日本は、衆議院選挙(小選挙区・比例選)の投票日を迎えました。東京都は、都知事選もあります。いつの時代であっても、選挙は大切なことに変わりないのですが、今回は特に、今後の日本を左右する大きな選挙であります。
ハッキリ言って、これだけ政党があると、どこに投票して良いのか分からなくなります。できうる限り政党の資料(マニフェスト等)を入手し、妻と意見を交わし合いました。16日は投票に行く時間がないため、期日前投票に行って参りました。
自民党に愛想を尽かし、民主党に期待を込めた前の選挙。しかし、政権を奪った民主党のていたらくに落胆し、別の党(人)に期待を込めようとする私たち。報道によると、自民党が優勢だそうな。一度愛想を尽かした相手は、また見直すような相手になってでしょうか? こっちがダメだからあっち。あっちがダメだったからまたこっち(或いは、別の そっち)。さて、果たしてそこに、「よく考える」「イメージする」「想いを込める」ということがあるでしょうか?

今書いていることは、特定の政党を批判、あるいは応援しているわけではありません。誤解を生む危うさがあります。書かずにおこうと思いました。でも、「よく考える」「イメージする」「想いを込める」という所に立ったとき、投票日を迎えるにあたり、どうしても書かずにはおれない気持ちになり、書いています。

ある党は「国防軍」を作ると訴えています(重ねて申しあげます。特定の政党の批判・応援をしているわけではありません)。
「国が国民を守るのは当然だ」と仰る方もいます。しかし、今の自衛隊もそうですが、自衛隊も国防軍も、国民を守るためのものではありません。国を守るのです。「どう違うの?」と思われるかもしれませんが、国土・領海・領空・日本の憲法や法律(もかな)を守るためのものです。国民一人ひとりのいのちを直接守るためのものではありません。
仮に国防軍なるものが出来たとすると、ゆくゆく「徴兵制」も出来ることでしょう。そうなると、自分や自分の子どもたちが戦地に行く可能性が出てきます。戦地ではなくても、危険地帯に行く機会が生じます。
「国が国民を守るのは当然だ」と言ったときに、その言葉の奥に、「自分や自分の子ども、親しい人が戦場で、人と人との殺し合いをすることになるかもしれない」という想いはありますか? そこまでの想いを込めて「国が国民を守るのは当然だ」と仰っているのですか?

今日(12月15日)、東京五組の同朋会(聞法会)が麻布のお寺であり、行ってきました。道中、門徒さんと一緒になり、お寺までの道のりをいろいろ話しながら行きました。
(門)「アメリカで、銃の乱射事件があったらしいねぇ」
(私)「らしいですね。誰もが銃を持てる環境なのですから、その手の事件も後を絶たないでしょうね。ある州で、拳銃保持を禁止する州条例を出したら、国から認められなかったという話も聞いたことがあります。銃を持つのが当たり前。銃を持たない、つまり、売れないと困るわけですよね」
(門)「銃や軍事産業は、経済にとって大きいわけだよ。やめるわけにはいかないんだよ、人間は」
(私)「原発も同じですよね。安定したエネルギーの供給とか言っているけど、核保有のための原発ですよね」
(門)「そう。それらを持つということが何を意味するのかなんて、どうでもいいんだよ」
というようなことを話していました。

ここまで書いて想いました。日本に住まいする私たちは、今現在「戦地」や「危険地帯」と言われるところに行くことはありません。しかし、私たちの生活を成り立たせるために、今実際に戦い、危険地帯に身を置き、身を削りながら生きている人々がいらっしゃいます。その人たちのことを考えることなく
『「国が国民を守るのは当然だ」と言ったときに、その言葉の奥に、「自分や自分の子ども、親しい人が戦場で、人と人との殺し合いをすることになるかもしれない」という想いはありますか? そこまでの想いを込めて「国が国民を守るのは当然だ」と仰っているのですか?』
と言うことは、その人たちのいのちを踏みにじっていることにもなってしまいます。

本日の同朋会で、講師の先生は教えてくださいました。
「今の私たちの生活はね、食べるものにしても、着るものにしても、よその国の人々の力抜きにはありえないんですよ。会ってもいない人たち、顔も見ていない人たちのおかげで、私たちの生活は成り立っているんです。会っていない、顔も見ていない・・・つまり“かげ”です。だから、“かげ”なる力に感謝の想いを込めて“お”と“さま”をつけて“おかげさま”っていうんですよ。そういう“おかげさま”のはたらきの中を、私たちは生かされているんです。面と向かって“おかげさまで”ってお礼を言うことがありますが、それは“おかげさま”じゃないです“おもてさま”です。見えないはたらきと、私たちはつながっているんです!!!!」
見えないはたらき、見えないつながりの中の私。見えないから「知らない」でいいのか、「自分さえよければいい」でいいのか。それは、つまりは自分自身の否定でもあります。関係を断ったところで、自分を立たせようとしているのですから。でも、そうではない。つながりなどないと思っていても、つながって生きているいのちなのです。

どこに投票すれば良いのか?  どれが正解なのか?
正解など、ありません。どこに投票しても、どこが政権を担っても、やはりいろいろ問題は出てきます。
しかし、投票する一人ひとりが、自分の中で「よく考える」「イメージする」「想いを込める」ということが大事なのです。
そうでないと、「包丁を洗うときは、刃とは逆の方にスポンジをあてて洗ってください。ほら、これだと手を切ることがないでしょ」と言われないと包丁を洗えないように、「私たちの言うとおりにすれば、ケガ(戦争)は起こりませんからね」「私たちの言うとおりにすれば、安全・安心ですからね」という言葉を鵜呑みにして生きてゆくことになります。で、結局ケガをするのは、私たち一人ひとりです。で、結局文句を言うのも私たち一人ひとりです。自分の中で「よく考える」「イメージする」「想いを込める」ということをしてこなかったことは棚に上げて。

投票日を迎えるに当たり、想うことを書かせていただきました。
ダラダラ書きましたが、投票には必ず行きましょうね。そのことにおいて、少しは考えているわけだから。
「考えた結果、投票に行かないことにした」という人もいるかもしれません。でも、“おかげさま”のいのちを生かされているということを想うとき、投票せずにはおれないのではないでしょうか。

2012年12月 9日 (日)

「いただきます(なむあみだぶつ)」

前の文章(2012年12月のことば)で感謝を連呼しすぎたせいか、嫌悪感を持たれてしまいました。

「先に私ありき」と思っていると、自分にとって都合の良いことには感謝できても、毎度毎度の食事とか、そばに人がいてくれることなど、“あたりまえ”と感じることになかなか感謝はできません。
「それって、感謝することなの?」「どうして感謝しなければいけないの?」という疑問が生じることでしょう。
私がいて、そこに縁が集まってくるのではありません。ありとあらゆるご縁が集まって、私となっています。

感謝は、押しつけられてするものではありません。自ずから湧いて出てくるものです。
「先に私ありき」では、押し付けられるように感じてしまいます。
「縁が集まっての私」という自覚には、感謝が自ずと湧いてきます。常に感謝に包まれての私です。
 
報恩感謝のお念仏も、押しつけではありません。自然と湧き起こったものが、絶え間なく今も湧き続けています。縁をいただいて、私があることを感じ謝している人々の間で。
 
 幸せだから感謝するのではない。
 感謝しているから幸せなのだ。

 
 生きるとは 感謝感謝の日々なりき
  わが灯の 消えるときまで

   釋尼聖智(西蓮寺門徒)

2012年12月 1日 (土)

2012年12月のことば

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食うか 食べるか いただくか

「いただきます」の聞こえない食卓
食物を口に運ぶ行為、「食う」とも「食べる」とも「いただきます」とも表現します。同じ行為でありながら、口にすることばで、その人の生き様が表われているように感じます。

長女が通う幼稚園で、園長先生が保護者に対してお話をしてくださいました。
家族揃って食事をできること、そのこと自体幸せなことです。しかし、その幸せな場において、「いただきます」の声が聞こえない食卓があります。他のいのちをいただいて食事を取ることができるわけですから、「いただきます」を言うことと、その気持ちは大切なことです。

お金を払ったら、感謝は必要ないのか?
ある小学校で、給食のときに、先生が手を合わせて「いただきます」をするように指導したら、「宗教行為の押しつけだから、そのようなことはやめて欲しい」と、親からクレームが来たという話を聞いたことがあります。あるいは、「お金(給食費)を払っているのだから、『いただきます』を言う必要はない」と言う親もいるそうです。

こんなこともありました。
「私たちは生き物のいのちをいただいて生きています。魚のいのち、牛のいのち、豚のいのち…。『いただきます』ということばには、私たちがいのちをいただいて生きているということに想いを馳せる意味があります」と話をしたときに、
「食事の度に、いちいち感謝しろっていうのですか? そんなの切りがないじゃないですか。いちいちそんなことを思いながら食べていられません」と、口を挟まれたことがあります。
あぁ、そういう感覚なんだと思いました。いちいち想いを馳せられないと言いながら、日に何度も食事はするんですよね。いちいち面倒臭いなどと言わずに(最近では、食事を面倒臭がる人もいると聞きますが)。

自然に出る六字のことば
私がいのちを長らえさせるために取る食事。その背景には、どれだけのいのちが犠牲になっていることでしょう。「申し訳ありません。おいのちを ちょうだいいたします」という想いが込められた「いただきます」。たった六文字のことばを発することすら、人は素直に出来ないものなのですね。
そういえば、「南無阿弥陀仏」も六文字。「ただお念仏申せ」という親鸞聖人のおしえに対し、「お念仏したらどうなりますか?」「お念仏しても何も変わらないだろう」などと疑念を持つ私たち。お念仏は、良い結果のために称えるものではありません。自然に出てくるものです。「いただきます」も同じ。「おいのちを ちょうだいいたします」云々と書きましたが、本当は、食事を前にして、自然と手が合わさるものでしょう。教えられるまでもなく、「いただきます」の声が出てくるものでしょう。理屈ではないのです。いのち生きるものの、当たり前の姿なのです。「いただきます」も、「南無阿弥陀仏」も。

生きるっていうことは
山崎まどかさんという方が書かれた詩(当時小学六年生)を紹介させていただきます。

 人間は、生きるために
 にわとりも殺さなくちゃいけないし
 豚も殺さなくちゃいけない。
 生きているってことは
 ずいぶん迷わくをかけることなんだ。
 自分で自分のことを全部できたら
 人は一人ぼっちになってしまう。
 他人に迷わくをかけることは
 その人とつながりをもつことなんだ。
 他人の世話をすることは
 その人に愛をもつことなんだ。
 生きるっていうことは
 たくさんの命と
 つながりをもつことなんだ。
  (真宗大谷派児童教化連盟 児童教化冊子『いのち』より)
 
食べることだけではありません。人は、いえ、いのちあるものは、あらゆるいのちとつながっています。一人では生きてゆけません。一人では生きていません。

2012年12月16日、衆議院や東京都知事の選挙が行われます。賑やかな(騒々しい?)年の暮れになりそうです。「誰が当選しても同じ」「どうせ何も変わらない」などと言わず、私たちも真剣に考えなければいけません。
野田総理が解散を宣言し、民主党を離党する議員が相次ぎました。政党が乱立する中で、党を変えたり、党が変わったり。人の好き嫌いや意見の食い違いは、人の世の習いです。手をつないだ者どうしが、いつまでも一緒にいられるわけではありません。しかし、私利私欲に溺れ、つながるいのちの叫びに耳を澄ますことのない傲慢さが見え隠れします。
人間は、一人ひとりが想いを抱えて生きています。極論すれば、人間の数だけ想いがあります。同じ想いの人などいません。でもそれでいて、人は孤独かといえばそうではありません。想いの違いを抱えながらも、それでも一緒にいられるのです。「バラバラでいっしょ」なのです。「意見が合わないから」「自分がやりたいことができないから」などと言っていたら、どこに居ても、何も出来ないことでしょう。
人間を人間とも思わない態度を、「人を食う」と言います。票をいただく身であることを、忘れて欲しくはありません。

食事が終わったら「ごちそうさま」も忘れずに。この私と出会うために、駆け回ってきてくださった(生きてこられた)いのちなのですから。

   

掲示板の人形
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雪ん子の土鈴です。ご門徒の西脇様よりいただきました。ありがとうございます。

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