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2012年12月 1日 (土)

2012年12月のことば

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食うか 食べるか いただくか

「いただきます」の聞こえない食卓
食物を口に運ぶ行為、「食う」とも「食べる」とも「いただきます」とも表現します。同じ行為でありながら、口にすることばで、その人の生き様が表われているように感じます。

長女が通う幼稚園で、園長先生が保護者に対してお話をしてくださいました。
家族揃って食事をできること、そのこと自体幸せなことです。しかし、その幸せな場において、「いただきます」の声が聞こえない食卓があります。他のいのちをいただいて食事を取ることができるわけですから、「いただきます」を言うことと、その気持ちは大切なことです。

お金を払ったら、感謝は必要ないのか?
ある小学校で、給食のときに、先生が手を合わせて「いただきます」をするように指導したら、「宗教行為の押しつけだから、そのようなことはやめて欲しい」と、親からクレームが来たという話を聞いたことがあります。あるいは、「お金(給食費)を払っているのだから、『いただきます』を言う必要はない」と言う親もいるそうです。

こんなこともありました。
「私たちは生き物のいのちをいただいて生きています。魚のいのち、牛のいのち、豚のいのち…。『いただきます』ということばには、私たちがいのちをいただいて生きているということに想いを馳せる意味があります」と話をしたときに、
「食事の度に、いちいち感謝しろっていうのですか? そんなの切りがないじゃないですか。いちいちそんなことを思いながら食べていられません」と、口を挟まれたことがあります。
あぁ、そういう感覚なんだと思いました。いちいち想いを馳せられないと言いながら、日に何度も食事はするんですよね。いちいち面倒臭いなどと言わずに(最近では、食事を面倒臭がる人もいると聞きますが)。

自然に出る六字のことば
私がいのちを長らえさせるために取る食事。その背景には、どれだけのいのちが犠牲になっていることでしょう。「申し訳ありません。おいのちを ちょうだいいたします」という想いが込められた「いただきます」。たった六文字のことばを発することすら、人は素直に出来ないものなのですね。
そういえば、「南無阿弥陀仏」も六文字。「ただお念仏申せ」という親鸞聖人のおしえに対し、「お念仏したらどうなりますか?」「お念仏しても何も変わらないだろう」などと疑念を持つ私たち。お念仏は、良い結果のために称えるものではありません。自然に出てくるものです。「いただきます」も同じ。「おいのちを ちょうだいいたします」云々と書きましたが、本当は、食事を前にして、自然と手が合わさるものでしょう。教えられるまでもなく、「いただきます」の声が出てくるものでしょう。理屈ではないのです。いのち生きるものの、当たり前の姿なのです。「いただきます」も、「南無阿弥陀仏」も。

生きるっていうことは
山崎まどかさんという方が書かれた詩(当時小学六年生)を紹介させていただきます。

 人間は、生きるために
 にわとりも殺さなくちゃいけないし
 豚も殺さなくちゃいけない。
 生きているってことは
 ずいぶん迷わくをかけることなんだ。
 自分で自分のことを全部できたら
 人は一人ぼっちになってしまう。
 他人に迷わくをかけることは
 その人とつながりをもつことなんだ。
 他人の世話をすることは
 その人に愛をもつことなんだ。
 生きるっていうことは
 たくさんの命と
 つながりをもつことなんだ。
  (真宗大谷派児童教化連盟 児童教化冊子『いのち』より)
 
食べることだけではありません。人は、いえ、いのちあるものは、あらゆるいのちとつながっています。一人では生きてゆけません。一人では生きていません。

2012年12月16日、衆議院や東京都知事の選挙が行われます。賑やかな(騒々しい?)年の暮れになりそうです。「誰が当選しても同じ」「どうせ何も変わらない」などと言わず、私たちも真剣に考えなければいけません。
野田総理が解散を宣言し、民主党を離党する議員が相次ぎました。政党が乱立する中で、党を変えたり、党が変わったり。人の好き嫌いや意見の食い違いは、人の世の習いです。手をつないだ者どうしが、いつまでも一緒にいられるわけではありません。しかし、私利私欲に溺れ、つながるいのちの叫びに耳を澄ますことのない傲慢さが見え隠れします。
人間は、一人ひとりが想いを抱えて生きています。極論すれば、人間の数だけ想いがあります。同じ想いの人などいません。でもそれでいて、人は孤独かといえばそうではありません。想いの違いを抱えながらも、それでも一緒にいられるのです。「バラバラでいっしょ」なのです。「意見が合わないから」「自分がやりたいことができないから」などと言っていたら、どこに居ても、何も出来ないことでしょう。
人間を人間とも思わない態度を、「人を食う」と言います。票をいただく身であることを、忘れて欲しくはありません。

食事が終わったら「ごちそうさま」も忘れずに。この私と出会うために、駆け回ってきてくださった(生きてこられた)いのちなのですから。

   

掲示板の人形
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雪ん子の土鈴です。ご門徒の西脇様よりいただきました。ありがとうございます。

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コメント

食うか食べるかいただくか 大変意味のある言葉としていただきました 孫娘が小学生と中学生の二人おりますが、とかく学校の先生方の無気力、惰性あるいは、奇怪な行動をする先生が多く見られます これも父兄のとんでもない行動が引き起こすものもあるのです たいしたことを大げさに学校に抗議したりすることに先生は委縮してしまい、もっと悪いことをした場合は強く叱るのも教育だと思うのです それが体罰だと云うのも可笑しいし、世間が可笑しくしたのもあるように思えるのです
一時大津のいじめだとか、喧嘩だとか論議した事が有りますが、果たして喧嘩もいじめも何ら変わらないのです 入り口で堂々巡りをし、結局結論先送りとなるようですね 政治も都合が悪いのは先送りし、これじゃ、娑婆はもやもやだけが残るのですね

言葉って面白いですね。
単純な原始仏教の解釈だったら「御光の本」でいい訳っすもんね。
ごちそうさまは「清き食をうく」か?
いや!今の方が可愛いけど、ギャル文化なのかぁ。

☆jykさん はじめまして
学校の先生の奇怪な行動を、先生のせいにするのではなく、父兄によってもたらされてしまうものであるという見方をされていて、ホッとしました。
先生云々ではなく、家庭が原点だと思います。
先生のせいにしてしまうのは簡単。でも、問題をすりかえているだけのことです。
自分の姿を見つめることを抜きに問題をつついても、愚痴か文句しか出ないと思います。

南无阿彌陀佛 南无阿彌陀佛 南无阿彌陀佛 慎莫問味濃淡(つつしんであじののうたんをとうことなかれ)慎莫論品多少(つつしんでしなのたしょうをろんずることなかれ)普教化諸衆生(あまねくもろもろのしゅじょうをきょうけし)共往生安楽国(ともにあんらっこくにおうじょうせん)→いただく。

HikkenDokugo さん
南无阿彌陀佛 南无阿彌陀佛 南无阿彌陀佛
ただ念仏

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