« 四畳半に炬燵置けなくなるが、あったかいよ | トップページ | 存明寺様報恩講参詣① »

2012年11月 1日 (木)

2012年11月のことば

Img139

肉眼(にくげん)は他の非が見える。
仏眼(ぶつげん)は自己の非に目覚める。

川瀬和敬

幽霊の掛け軸
このようなお話があります。恐ろしい顔をした幽霊の掛け軸があることで有名なお寺がありました。その幽霊の掛け軸を見せてもらうために、二人の老女がお寺を訪ねました。
お座敷に通された二人は、住職が掛け軸を持ってくるのを待ちます。しばらくして、住職が来て言いました。「これから掛け軸を掛けますから、私がいいですよと言うまで、目をつむっていてください」。その掛け軸の幽霊の顔は、身も凍るほどの恐さだそうです。ふたりはドキドキしながら目をつむって待ちました。
「さぁ、掛け終わりました。どうぞ目を開いてご覧ください」
住職が言い終わるが早いか、ふたりは目を開け、掛け軸を見ました。叫び声ともつかぬ声でふたりは言いました。
ひとりは、「ぎゃぁぁ、この顔は、うちの嫁の顔じゃ、そうじゃ、こういう顔で、いつも私をにらんでいるんじゃ。こっちを見ないでくれぇ!」と叫びました。
同時にもう一人は「きゃぁぁ、こんな顔で私は日々暮らしてはいないだろうか。こんな目で、人を見てはいないだろうか。申し訳ありません!」と叫びました。
同じ幽霊の掛け軸を見ながら、ひとりの老女は嫁の顔を思い、もうひとりの老女は、自分がこんな顔をして生きてはいないだろうかと懺悔されたということです。
どちらの見方が正しくて、どちらが間違っているという話ではありませんが、後者の老女は、常日頃聞法の生活を送られていたということです。

肉眼は他の非が見える。仏眼は自己の非に目覚める。
現代では肉眼を「にくがん」と読みますが、本来は「にくげん」と読み、人間の眼・人間の狭い視野で物事を見たり感じたりすることを言います。
私たちは、目で見えたものを、自分の狭い知恵・浅い考えで捉え、それを我が物としてしまいます。まるでそれが正しいことのように。幽霊の掛け軸の話でも分かるように、同じ物を見ても、同じ話を聞いても、同じ物を食べても、同じ人と接していても、反応や感想は人それぞれ違うものです。そんなことは分かっていても、それでも、自分の考えこそが正しいと思ってしまいます。ということは、他者の捉え方に非があるように感じてしまいます。
他人の非は、うんざりするほど見えるものです。でも、自分の非はなかなか見えるものではありません。人のことは悪く言うくせに、自分のことをちょっとでも悪く言われると怒る人っていませんか? そう、すぐそばに。そうそう、あなたあなたです。

経教は鏡の如し
善導大師という方は、「経教は鏡の如し(お経や教えのことばは、私を写しだす鏡である)」と教えてくださいました。
教えという鏡に何が映るのでしょう? 私自身の姿です。さて、鏡に映る私(おしえによって照らし出される私)はどんな姿でしょう?
おしえを聞けば、ましな人間になれる。仏教聴聞すれば、心が清くなる。そのようなものだと思われていますが、果たして、自分の姿が見えるというおしえを聴聞し、ましな人間になれるでしょうか? 心が清くなるでしょうか?
曲がったこころの持ち主でありながら、そのことに気づかずに生きている私。でありながら、他人の曲がり具合(非)は目につく、目につく。仏さまのおしえは、曲がった物を真っ直ぐにしてくださるものではありません。曲がったこころの持ち主でありながら、そのことに気づかずに生きている私の曲がり具合(非)を目覚めさせてくださるのが、仏さまのおしえです。
そのようなおしえなら、聞きたくもないと思われるかもしれませんね。確かに、仕事や遊びと相談しながら(優先しながら)生きていると、仏法聴聞の意識は芽生えません。つまりは、自分の姿が見えないまま一生を終えてゆくのです。「ぎゃぁぁ、この顔は、うちの嫁の顔じゃ、そうじゃ、こういう顔で、いつも私をにらんでいるんじゃ。こっちを見ないでくれぇ!」というような叫びと共に。自分がそう叫ばれていると気づくこともなく(ある意味幸せですね)。
しかし、仏法聴聞のご縁をいただくと、無常なるいのちや燃えさかる煩悩を持つ我が身に目覚め、ますます仏法聴聞せずにはおれなくなります。いつかは尽き果てるいのちを、どうして生きねばならないのだろうか。汚れ濁ったこころの持ち主である私が生きていていいのだろうか。仏法聴聞により、我が身の非に目覚めます。暗くなってしまいそうですが、決して暗くはなりません。無常なるいのちを生きながらも、溢れんばかりの煩悩を抱えながらも生き切ることが許されている我が身であるという目覚め。そこには、私を包み込む暖かな眼差し(阿弥陀仏の眼)があります。だからこそ生ききれるのです。
不思議なことに、その阿弥陀仏の眼は、仏法聴聞した者限定ではなく、仕事や遊びばかりと相談して生きている者にも注がれています。同じ眼差しを受けていながら、他を非として見ながら人生を終えてゆくのか、自分の非に目覚めながら生き往くのか。
「こんな顔で私は日々暮らしてはいないだろうか。こんな目で、人を見てはいないだろうか。申し訳ありません!」という叫びを胸に、今日も生きたいものです。

川瀬和敬(かわせ わけい)さん
 (1911年~還浄年不明) 真宗高田派鑑学
 
   

掲示板の人形
親鸞聖人とネコ(西蓮寺 お座敷の縁側にて)
Dsc_1093

« 四畳半に炬燵置けなくなるが、あったかいよ | トップページ | 存明寺様報恩講参詣① »

コメント

chao~~。住職!!
僕は此処一年住職とは飲めない。飲まないで過ごしました。
教経は今や仏様の問題に成ってますが。
しかし、縁のなかで業なわれている事なので、
畜生のわたくしには因果は解りません。終(おわり)

要は、
眞鍋かおりと優木まおみな気がします。
この二人はセイント星矢つっても気になんない様な。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 四畳半に炬燵置けなくなるが、あったかいよ | トップページ | 存明寺様報恩講参詣① »

フォト
2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ