« 2012年10月 | トップページ | 2012年12月 »

2012年11月

2012年11月30日 (金)

共命鸞恩

2012年11月24日(土)~26日(月)
ご本山 京都 東本願寺の報恩講に家族で参詣してきました。

観光地によくある、穴から顔を出す看板がありました。
ご本山の御遠忌キャラクター鸞恩くんです。
娘がふたり、顔を出しました。
共命鳥ならぬ、共命鸞恩です。

Dsc_0142_2
 
最近、仲良く遊んでいたかと思えば、オモチャの取り合いを始めるようになりました。
喧嘩そのものは止めません。大事なことですから。
でも言います。「仲良く喧嘩しなよ!」って。
トムとジェリーみたいですね。


(参考)
共命鳥とは、胴体はひとつで頭がふたつの鳥です。共命鳥の容姿はとても美しく、誰もがほめたたえるほどでした。

ひとつの胴体に頭がふたつある共命鳥は、容姿の美しさとは反対に、いつも喧嘩ばかりです。
「お前の容姿が気に入らない」
「お前さえいなければ、私だけがほめたたえられるはずなのに」
「お前さえいなければ、この美しさは私だけのものなのに」
お互い、相手が邪魔で仕方ありません。
   
「邪魔なあいつを殺してしまおう」
ある日、一方の鳥が決断し、もう一方の鳥の食事に毒を盛ります。
そうとは知らない鳥は、毒入りの食事を食べてしまいます。鳥は苦しみ、死んでしまいました。
さて、頭はふたつと言っても胴体はひとつです。結局、毒を盛った方の鳥も苦しみ、死んでしまいました。

2012年11月29日 (木)

真宗本廟 御影堂門修復③

2012年11月24日(土)~26日(月)
ご本山 京都 東本願寺の報恩講に家族で参詣してきました。

Dsc_0114


Dsc_0112

修復中の御影堂門の下が通り抜けられるようになっていました。

2012年11月23日 (金)

一歩一歩 一音一音 一語一語

今日、出遇ったことば

「被災地に、出来上がりも、完成もないように思う。でもそれは音楽と同じだ。再生、消えてなくなる一音の次の音を奏でるように、生き続けること、前をすすみ続けること、被災地がそのような姿であってほしい」
(2012年11月23日 「東京新聞」朝刊「筆洗」より)

三重の高校に通う伊藤江里華さんは、昨年の震災後、何か出来ることがないかと迷われます。
指揮者の佐渡裕さん率いるスーパーキッズ・オーケストラでバイオリンを弾く彼女は、昨年夏と今夏、そのオーケストラで、被災地で演奏をする機会を得ます。
演奏をしたものの、目にした惨状の前に、自分の無力さ・罪悪感を感じるばかりでした。そんな彼女に、声を掛けてくれる女性がいました。
「悲しみは大きい。大きすぎる。でも生きていかなくてはならない。前に進む一歩、そのきっかけに、音楽が必要だった」と。

音も、ことばも、発した瞬間に流れ去ってゆきます。発する方としては、相手に届けという想いを込めていても、儚く消えてゆきます。そこに、自分の無力さを感じてしまいます。
でも、音やことばでもって、「出来上がりや完成」を成就させるわけでは無い。そう願うことも、おこがましい。
音やことばが、はじめの一歩を踏み出さしめるきっかけとなる。下を向いていた人に、前を(光の方を)向かせる一助となる。

「そんな力が音楽には込められている」…女性からかけていただいたことばをきっかけに、伊藤江里華さんは、自分が今まで感じていなかった音楽の力について考え始めます。その想いを綴ったエッセーが、東北大文学部が主催するコンクールで、最優秀賞に選ばれたそうです。はじめの文章は、そのエッセーの結びです。

たとえ発したその瞬間に忘却の彼方へ行ってしまうことばや音も、耳を、目を、こころを通過していないわけではない。聞いた人・見た人・感じた人のこころに、ほんの一瞬に深く刻まれる。前を向く、一歩を踏み出す力となるときがある。何も無ければ、始まらない。
伊藤江里華さんのエッセーに、前を向く勇気をいただきました。ありがとうございます。

2012年11月 3日 (土)

存明寺様報恩講参詣②

2012年11月3日(土)
本日も存明寺様の報恩講に参詣させていただきました。お堂に入りきれないほどの参詣がありました。
 
P1010524

法要は音楽法要で執り行われました。
法要の最後、安武和音さんの「この偈(うた)」(作詞・指方和音/作曲・大谷暢文)の独唱がありました。
正信偈のエッセンスがギュッと凝縮されていて、「あっ、ここに正信偈のすべてがある!」と感じました。安武さんのお声と歌詞に、ふと涙が零れそうになりました(最近ちょっと涙もろい)。作詞をされた安武さんご自身が歌われる「この偈」…最高でした。

「このうたの中で育って/このうたがわたしを導き/このうたが人と出遇わせ/このうたに再び出遇う♪」

御遠忌法要の最後に、坊守の交代式がありました。54年間に亘り存明寺を守ってこられた坊守様。小さい頃からお世話になっているので、ウルッときました(また泣く (T^T)) お疲れ様でした。これからもよろしくお願い致します。
ご住職 (新)坊守様お疲れ様でした。
影のご住職様もお疲れ様でした。頭がパニックになられたこととお察し申しあげます。
長田先生 高橋先生もお疲れ様でした。お酒の抜ける間が無かったことかと。
安武さん 魯さん すてきな音楽法要 感動しました。
存明寺スタッフの皆様、あたたかな御遠忌法要をありがとうございます。
あたたかな報恩講(御遠忌法要)に参詣させていただきまして、ありがとうございます。

2012年11月 2日 (金)

存明寺様報恩講参詣①

2012年11月2日(金)
東京五組 存明寺 親鸞聖人七百五十回御遠忌法要
テーマ 親鸞聖人に遇う ―いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり―

P1010518_3

お話 高橋法信先生(大阪 光徳寺住職)
    長田浩昭先生(兵庫 法傳寺住職)

ご法要 音楽法要形式で
      うた 安武和音さん
      エレクトーン 魯あす香さん

いつものことながら、ご住職をはじめお寺の皆さんと、門徒さんたちみんなで おしえの場を創造されている姿に驚かされます。素敵な法要にご一緒させていただき、感謝申し上げます。

P1010519_2
親鸞聖人50年に1度の御遠忌に際し、本堂を修繕され、新しく親鸞聖人像をお迎えになりました。こんにちは、親鸞さま♪

11月3日(土)も報恩講(10時開会)がございます。お稚児さんが出ます。お楽しみに。
明日もお参りさせていただきます。よろしくお願い致します。

2012年11月 1日 (木)

2012年11月のことば

Img139

肉眼(にくげん)は他の非が見える。
仏眼(ぶつげん)は自己の非に目覚める。

川瀬和敬

幽霊の掛け軸
このようなお話があります。恐ろしい顔をした幽霊の掛け軸があることで有名なお寺がありました。その幽霊の掛け軸を見せてもらうために、二人の老女がお寺を訪ねました。
お座敷に通された二人は、住職が掛け軸を持ってくるのを待ちます。しばらくして、住職が来て言いました。「これから掛け軸を掛けますから、私がいいですよと言うまで、目をつむっていてください」。その掛け軸の幽霊の顔は、身も凍るほどの恐さだそうです。ふたりはドキドキしながら目をつむって待ちました。
「さぁ、掛け終わりました。どうぞ目を開いてご覧ください」
住職が言い終わるが早いか、ふたりは目を開け、掛け軸を見ました。叫び声ともつかぬ声でふたりは言いました。
ひとりは、「ぎゃぁぁ、この顔は、うちの嫁の顔じゃ、そうじゃ、こういう顔で、いつも私をにらんでいるんじゃ。こっちを見ないでくれぇ!」と叫びました。
同時にもう一人は「きゃぁぁ、こんな顔で私は日々暮らしてはいないだろうか。こんな目で、人を見てはいないだろうか。申し訳ありません!」と叫びました。
同じ幽霊の掛け軸を見ながら、ひとりの老女は嫁の顔を思い、もうひとりの老女は、自分がこんな顔をして生きてはいないだろうかと懺悔されたということです。
どちらの見方が正しくて、どちらが間違っているという話ではありませんが、後者の老女は、常日頃聞法の生活を送られていたということです。

肉眼は他の非が見える。仏眼は自己の非に目覚める。
現代では肉眼を「にくがん」と読みますが、本来は「にくげん」と読み、人間の眼・人間の狭い視野で物事を見たり感じたりすることを言います。
私たちは、目で見えたものを、自分の狭い知恵・浅い考えで捉え、それを我が物としてしまいます。まるでそれが正しいことのように。幽霊の掛け軸の話でも分かるように、同じ物を見ても、同じ話を聞いても、同じ物を食べても、同じ人と接していても、反応や感想は人それぞれ違うものです。そんなことは分かっていても、それでも、自分の考えこそが正しいと思ってしまいます。ということは、他者の捉え方に非があるように感じてしまいます。
他人の非は、うんざりするほど見えるものです。でも、自分の非はなかなか見えるものではありません。人のことは悪く言うくせに、自分のことをちょっとでも悪く言われると怒る人っていませんか? そう、すぐそばに。そうそう、あなたあなたです。

経教は鏡の如し
善導大師という方は、「経教は鏡の如し(お経や教えのことばは、私を写しだす鏡である)」と教えてくださいました。
教えという鏡に何が映るのでしょう? 私自身の姿です。さて、鏡に映る私(おしえによって照らし出される私)はどんな姿でしょう?
おしえを聞けば、ましな人間になれる。仏教聴聞すれば、心が清くなる。そのようなものだと思われていますが、果たして、自分の姿が見えるというおしえを聴聞し、ましな人間になれるでしょうか? 心が清くなるでしょうか?
曲がったこころの持ち主でありながら、そのことに気づかずに生きている私。でありながら、他人の曲がり具合(非)は目につく、目につく。仏さまのおしえは、曲がった物を真っ直ぐにしてくださるものではありません。曲がったこころの持ち主でありながら、そのことに気づかずに生きている私の曲がり具合(非)を目覚めさせてくださるのが、仏さまのおしえです。
そのようなおしえなら、聞きたくもないと思われるかもしれませんね。確かに、仕事や遊びと相談しながら(優先しながら)生きていると、仏法聴聞の意識は芽生えません。つまりは、自分の姿が見えないまま一生を終えてゆくのです。「ぎゃぁぁ、この顔は、うちの嫁の顔じゃ、そうじゃ、こういう顔で、いつも私をにらんでいるんじゃ。こっちを見ないでくれぇ!」というような叫びと共に。自分がそう叫ばれていると気づくこともなく(ある意味幸せですね)。
しかし、仏法聴聞のご縁をいただくと、無常なるいのちや燃えさかる煩悩を持つ我が身に目覚め、ますます仏法聴聞せずにはおれなくなります。いつかは尽き果てるいのちを、どうして生きねばならないのだろうか。汚れ濁ったこころの持ち主である私が生きていていいのだろうか。仏法聴聞により、我が身の非に目覚めます。暗くなってしまいそうですが、決して暗くはなりません。無常なるいのちを生きながらも、溢れんばかりの煩悩を抱えながらも生き切ることが許されている我が身であるという目覚め。そこには、私を包み込む暖かな眼差し(阿弥陀仏の眼)があります。だからこそ生ききれるのです。
不思議なことに、その阿弥陀仏の眼は、仏法聴聞した者限定ではなく、仕事や遊びばかりと相談して生きている者にも注がれています。同じ眼差しを受けていながら、他を非として見ながら人生を終えてゆくのか、自分の非に目覚めながら生き往くのか。
「こんな顔で私は日々暮らしてはいないだろうか。こんな目で、人を見てはいないだろうか。申し訳ありません!」という叫びを胸に、今日も生きたいものです。

川瀬和敬(かわせ わけい)さん
 (1911年~還浄年不明) 真宗高田派鑑学
 
   

掲示板の人形
親鸞聖人とネコ(西蓮寺 お座敷の縁側にて)
Dsc_1093

« 2012年10月 | トップページ | 2012年12月 »

フォト
2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ