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2012年10月 1日 (月)

一如のいたみ⑫

⑫我が身を波に重ね合わせる

「一味」ということ…阿弥陀如来の元に、ひとつひとつのいのちが、それぞれにあるのではありません。
「一味」なのです。すべてが溶け合い、混ざり合い、阿弥陀と共なるひとつのいのちとなるのです。いのちであるのです。

「一味」をおもうとき、親鸞聖人の思想に影響を与えた「海」を思います。
和讃でも「うしお(海)に一味なり」とありますね。

すべてのいのちが、うしおに一味となるのです。
海は、常に、いつまでも、穏やかなわけではありません。
海は波の形をとり、浜辺で人々の足元をくすぐる柔らかな波となるときもあれば、あらゆる建物 あらゆる自然 あらゆるいのちを飲み込む波となることもあります。さまざまな形をとります。穏やかなときもあれば、恐ろしい勢いを示すときもある。そして、どのような姿を見せたとしても、波は、元の海へと還ってゆきます。
波の話ですが、波だけの話ではありません。波に、人の姿が重なります。
人は、誰もが常に怒り続けているわけではありません。主張し続けているわけではありません。ときに怒り、ときに主張し、ときに大きな波となって現われ、元のいのちへと還ってゆきます。
かたや夏の思い出を与えるさざ波があり、かたやいのちを飲み込む津波があるのではありません。ときに どのような姿形をとろうとも、阿弥陀如来と一味のいのちなのでした。

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