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2012年10月22日 (月)

阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて

蓮如上人(本願寺8世)の御文(お手紙)に、「白骨の御文」があります。

「白骨の御文」の最後に、
 されば、人間のはかなき事は、
 老少不定(ふじょう)のさかいなれば、
 たれの人も
 はやく後生(ごしょう)の一大事(いちだいじ)を心にかけて、
 阿弥陀仏(あみだぶつ)をふかくたのみまいらせて、
 念仏もうすべきものなり。
とあります。

いつ終わりを迎えてもおかしくない いのちを生きている事実は、老いも若いも幼いも関係ありません。
だからこそ、残されたいのちの尊さ有り難さを心にかけて、
阿弥陀如来をよりどころとして「南無阿弥陀仏」とお念仏申す生活(人生)をお送りください。
と、蓮如上人は仰っています。

ここの部分で よく話題に上るのは、
「明日とも知れぬいのちを生きている」ということは分かるけど、「だからこそ 阿弥陀如来をよりどころとして」っていうのは、唐突というか、急に話が変わったような印象を受けるね。
ということです。
明日とも知れぬいのちを生きているからこそ…阿弥陀如来をよりどころとし、南無阿弥陀仏とお念仏を称えなさい
「…」の部分がつながらないのでしょうね。

こういうことが話題に上った記憶が頭の中にこびりついているので、「白骨の御文」を拝読するとき、この部分を読む度に、「どうして つながらなく感じてしまうのだろう」と考えていました。

ふと思いました。
私たち(僧侶)は、「阿弥陀とは、衆生救済の“はたらき”です」と、阿弥陀とは“はたらき”であると説きます。。衆生救済に尽力された阿弥陀如来という人物がかつていらっしゃったのではありません。衆生救済といっても、人々の悩み苦しみを取り除くのが救済ではありません。悩み苦しみがある人生だけれども、悩み苦しみを抱えながらも、抱えたままに私を生かすはたらきがある。だからこそ生きていける。その、私に寄り添う慈悲のおこころを阿弥陀と申します。というふうに説きます。

ふと思ったというのは、以上のように説きながら、「白骨の御文」のこの部分になると、実体としての阿弥陀如来(救世主)をイメージしているのではないだろうか、と思ったのです。
「明日とも知れぬいのちを生きているということは、悲しい事実を自覚したあなた。だからこそ、その悲しみを癒やす(楽にしてくれる)阿弥陀如来をよりどころとしなさい」といった感じでイメージしてはいないだろうか。

でも違う。阿弥陀という“はたらき”は、明日とも知れぬいのちの自覚をした者だけに与えられるものではない。南無阿弥陀仏のお念仏を称えたものだけを包んでくださるものでもない。年齢も性別も国籍も宗教も貧富も貴賎も問わず、生きとし生けるものすべてに阿弥陀という“はたらき”はかけられている。既に。
だから、「明日とも知れぬいのちの自覚に立った。さぁ、では阿弥陀如来をよりどころとして念仏称えましょう」という順番的なことを仰っているのではなく、
「明日とも知れぬいのちの自覚に立ったとき、すでに阿弥陀の“はたらき”の中を生かされて生きてきた身であることを知らされるのです」と、蓮如上人は仰っておられるのだ!! と、御文を拝読しながら思ったことです。

自分で自覚して、信じて、よりどころとして、念仏申すのではない。
私が自覚しようがしまいが、信じようが信じまいが、そんなことに関係なく阿弥陀如来のすくいの御手の中にいるのです。
という喜びの表明であると、いただいています。
子どもが親を呼ぶのは、子どもが親を呼ぶに先だって、親から子に対する愛情があるからである(なんか、ハッキリそう言い切れない現代を悲しくも感じます)。
私がお念仏を称えるのは、私がお念仏称えるに先だって、阿弥陀如来から衆生に対する願い・慈悲があるからである(このことは、ハッキリ言える)。

目に見えぬ“はたらき”は信じられませんか? だから、「白骨の御文」の最後の部分が唐突に感じるのかもしれません。すでにかけられている“はたらき”。その感得・喜びの表明が、蓮如上人にとっての「白骨の御文」なのかもしれません。

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