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2012年10月18日 (木)

仏法に遇って、虚しく過ぎる者はなし

子どもがいると、お風呂や砂場で遊ぶために、
プリンやヨーグルトの空きカップや、粉の洗剤に入っている計量スプーンなんかを取っておきます。
子どもたちはカップやスプーンを喜んで使います。
使い捨てないから、けっこう長いこと使います。壊れるまで使います。

子どもたちと一緒に、カップやスプーンで遊んでいて思いました。
これらカップやスプーンって、多くの人は使い捨てますよね。
基本的に使い捨てられるために作られたものでも、子どもたちが遊ぶため、調理用具として使うため、整理整頓のために等、とっておかれるものもあります。
仲間のほとんどが使い捨てられるのに、わずかな数だけど生き残るものもある。
その分かれ目ってなんだろう?って考えてしまいます。

今、東京五組同朋会の2013年のチラシを作っています。
チラシや、寺で発行している寺報にしても、同じようなことを思います。
大事に大事にとっておかれるチラシや寺報もあれば、ポイ捨てされたり、一度も手に取られることなく役目を終えてゆくものもあります。

大事にされるものもあれば、使い捨てされるもの、使われずに捨てられてゆくものもある。
その違いに、淋しさや悲しみを感じます。
物に対してそこまで感じる人もいないでしょうが、遊び道具として手にしているカップやスプーンを見ていると、そんなことを想います。

それとともに、物だけの話ではなく、人も同じだなぁって思います。
生涯を虚しくなく生ききる者もいれば、生涯を虚しく終えて往く者もいる。
その分かれ目って、なんでしょう (虚無感の有無でいえば、仏教に出遇うか否かに尽きるのですが)。

こんな ことばに出遇いました。
使い捨てをする者は、やがて使い捨てられる。

おしえに出遇わずとも、生きてはいけます。
でも、おしえに出遇わない生涯を歩む者は、やがて虚しさだけが残ります。
「やがて使い捨てられる」って、誰かが私を使い捨てるのではなく、私が私自身のいのちを使い捨てているという意味ではないでしょうか。そんな気がします。
報恩講の季節です。どうか おしえに出遇ってください。

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