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2012年10月 7日 (日)

難の中の難…“可能”ということ

2012年10月6日(土) 東京五組同朋会 「正信偈」を縁として
お話 橋本正博住職(横浜組 智広寺)

「正信偈」依経段 最後のお話でした(次回から七高僧のお話に入ります)
 信を獲れば見て敬い大きに慶喜せん、
 すなわち横に五悪趣を超截す。
 一切善悪の凡夫人、
 如来の弘誓願を聞信すれば、
 仏、広大勝解の者と言えり。
 この人を分陀利華と名づく。
 弥陀仏の本願念仏は、
 邪見憍慢の悪衆生、
 信楽受持すること、はなはだもって難し。
 難の中の難、これに過ぎたるはなし。
 
人と人とが付き合えば、手を取り合えることもあれば、争いも起こる。
争いとは、正義と悪の対立ではなく、正義と正義が対立して起こるのです。
平野修先生(故人)は教えてくださいました。
我々には、自分が考えたことは“正しい”と思う 悪い癖がある
自分が正しい、誰もがそんな狭い考えの中を生き、対立を生んでいるのです。
しかし、そんな私(一切善悪の凡夫人)ですが、弥陀の本願に包まれ、信心を獲得したら大慶喜すると説かれています。
その喜びとは、信心を獲た人だけに起こる個人的な喜びではありません。
「大」には、「個人を超えた全ての人々に開かれた」という意味が内包されています。
「慶」には、「自他共によろこぶ」という意味があり、個人的な喜びに対しては使いません。
信心を獲て“喜ぶ”のではなく、信心を獲て“大慶喜”する…他の人々と、多くの人々と喜べる身となると説かれているのです。
自分にとっての正義で、他者との対立を生んでいる私。誰もがそういう姿を生きている。
でも、それにもかわらず、そのままの姿で、阿弥陀に摂め取られるのです。
蓮の花は、清らかな水の中には咲きません。卑湿の淤泥にこそ咲くのです。
自分の正義で着飾らず、誰とでも仲良く生きられるような清らかな身となることが目的ではありません。
自分の正義で飾り立て、他者との対立の中で生きつつも、そういう生き方しか出来ない私を、私のままにおすくいくださる。それが弥陀の本願です。
信心を獲ること。それは「難の中の難」です。でも、「不可能」ではないのです。不可能ならば、「不可能」だと書かれます。「不可能」ではなく、「難の中の難」と説かれるということは、誰の身にも起こり得ることなのです。
南無阿弥陀仏

以上、私のノートより。明福寺様お世話になりました。
次回は12月15日(土)西福寺様(港区南麻布2-14-17)を会場に午後2時より開催されます。
会場でお会いしましょう。

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