西蓮寺聞法会 「共に」
2012年10月10日(水) 西蓮寺聞法会
「共に」ということでお話
「共に」とか「同朋」と言ったとき、
「正義」を掲げて生きている私たちが、掲げている「正義」を下ろし、衆生(生きとし生けるもの)と手を取り合って、仲良く生きる姿が連想されませんか?
その姿は究極の理想かもしれませんが、そうはなれないというところに立ち、苦しむところに、すべての人々にかけられている阿弥陀の慈悲・本願が見えてきます。
念仏のおしえに出遇い、その慶びを説かれた聖人。
念仏によって悩みや苦悩をなくされた方と思われがちですが、そうではありません。
念仏によって、阿弥陀との出遇いによって、ますます自身の苦悩が明らかになったのです。
聖人は、生涯を通して苦悩の自分を見つめ、だからこそ、阿弥陀に出遇われ続けました。
苦悩の衆生一人ひとりに、阿弥陀の慈悲は届いています。
弥陀の本願は、すべての衆生が対象です。
そこにこそ、「共に」とか「同朋」ということが成り立っていると感じるのです。
私たち衆生が「共に」と言うと、そこには共になれない者を生み出す落とし穴があります。
阿弥陀如来からの目線だからこそ、「共に」ということが成り立つ。
その頷きにおいて、「同朋」として朋に聴聞できるのだと感じています。
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