一如のいたみ⑪
⑪一味
「一如」のおしえをいただき、「一味」ということを想いました。
名号不思議の海水は
逆謗の死骸もとどまらず
衆悪の万川帰しぬれば
功徳のうしおに一味なり
(親鸞聖人「曇鸞和讃」)
尽十方無碍光の
大悲大願の海水に
煩悩の衆流帰しぬれば
智慧のうしおに一味なり
(親鸞聖人「曇鸞和讃」)
乱暴に現代語訳しますと以下のようになるでしょうか。
濁った川も海に流れ出れば、清浄なる海とひとつとなるように、
阿弥陀如来を信じない、おしえを謗る(そしる)、煩悩によって濁りきっている私でさえも、阿弥陀如来の、衆生をすくいたいと願う海のような慈悲のこころに摂め(おさめ)取られて一味となります。
どちらの和讃にも「一味」と出てきます。現代では、“悪者の一味”のように、どちらかというとマイナスのイメージで使われるのではないでしょうか。しかし、現代語訳で書いたように、阿弥陀如来に摂め取られる、つまり、阿弥陀如来と共なる世界を生きる身となるというような味わいで「一味」と表現されます。
お釈迦さまも親鸞聖人も、死後については語られていません。「自分も行ったことないから、どんな世界か知らないよ」と。
お釈迦さまは、すべての物事・事柄は、縁によって起こると、縁起の道理を語られました。
親鸞聖人は、出遇う縁によっては、なにをしでかすか分からぬ身であると、明らかにしてくださいました。さまざまな縁の中を生かされるということは、私の行為によって、別の誰かが何かしらの縁を被るものである。縁を生きる(生かされている)私の生き様を見つめよと、親鸞聖人は教えられました。
死後の安楽のためにどうこうせよとは、お釈迦さまも親鸞聖人も言われてはいないのです。
さて、死後について語らぬ親鸞聖人が、どうして「阿弥陀如来と一味となれる」と書かれたのか、私の中での疑問でした。
この文章を書いている(考えている)うちに気付きました。私は、「“死後に”阿弥陀と一味となれる」と受け止めていたのでした。「死後」ではありません。まさに“今”阿弥陀と一味となれる、いえ、なっているのでした。その感得・自覚・信心獲得があったからこそ、「一味なり」という味わいが、親鸞聖人自身にあったのです。
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