« 青空を目に焼き付ける(まぶしいけど) | トップページ | そのときのペースで歩めばいいさ »

2012年9月 1日 (土)

2012年9月のことば

Img031
吾唯足るを知る


吾唯足るを知る
今月のことばを「吾唯足るを知る」にしたのは、「今あるもの(こと)に満足することって、難しいんだなぁ」と感じることがあったからです。ただその一点です。

さて、掲示した文字の配列は、京都龍安寺にあります「吾唯足知」の蹲踞(つくばい)をイメージしています。
「足るを知る者は、貧しといえども富めり
足るを知らない者は、富めりといえども貧し」
というお釈迦さまのおしえから由来します。

「足るを知る」とは、何のことを言っているのでしょう?
物やお金や土地だとか、地位や名誉や肩書きなど、欲するものは数多くあることでしょう。今あるもの(こと)で満ち足りていることを知る人は、こころが豊かです。しかし、足りていることを知らない人にとっては、どれだけ手に入れても満ち足りた気持ちにはなれず、こころも貧しくなります。充分手にしているのに、他の人に渡すよりは自分のものにしようと躍起になっていませんか?
人に対する想いもありますね。親、連れ合い、子ども、兄弟、友人…いてくれるだけで満ち足りているのに、優しさを、収入を、成績を求めてしまいます。足りないのは、他者ではなく、私の想いなのに。
今あるもの(こと)に満足することとは、難しいものです。
 
「足るを知る」とは、欲望の対象物だけではありません。今いただいている いのち にこそ、なかなか満足できないものです。だから、仏教などよりどころとするおしえに対して、幸福を欲し、より善い人間となることを願い、こころの平穏を求めてしまうのでしょう。
想像も出来ないほどの縁の中で、今の私となりました。その事実に、それ以上何を必要とするのでしょう。既に満ち足りている身であることを知らず、足りない足りないと欲し続ける。それでは、いつまで経っても足りることはありません。

慈悲に包まれ、私となりました
私は、すでに足りた身である。そのことを知る。つまり、すでに人であるということを知ることと感じます。
すでに人である私は、数え切れないほどの縁をいただいて、この身となりました。数え切れないほどの縁、人知を越えた縁とは、私を包み、守る慈悲です。その慈しみがあるからこそ、すでに満ち足りている身である私がいるのです。その慈しみのはたらきを、阿弥陀如来といいます。
私がいて、阿弥陀やおしえに、欲望の成就、より善い人生、穏やかな死を求めるのではありません。阿弥陀如来あるゆえに、私となりました。これ以上何かを求める身ではなく、求める必要のない身をいただいているということです。

仏教、仏さまのおしえには、ふたつの側面があります。
ひとつは、私を包み、守るはたらき(阿弥陀如来)があるということ。慈悲のこころに包まれているからこそ、これ以上何も求める必要もなく、生きることができます。
この慈悲の側面はよく説かれます。「守られている」と言われれば分かりやすいし、安心できるから。説く方も話しやすいから。しかし、それだけでは、せっかく出会った仏教が、「ご縁に感謝しております」というセリフで終わってしまいます。
仏教に出遇い、阿弥陀の慈悲に包まれていることを感得し、感謝しながら生きる。平穏無事なときには「おかげさまで」と念仏できても、ひとたび石につまづけば、途方に暮れてしまうことでしょう。

成仏道を歩む身となる
もうひとつの側面は、「成仏道(じょうぶつどう)」としての仏教です。
仏教、仏さまのおしえに出会い、縁をいただく身であることを知り、仏に成る道を問い尋ねずにはいられなくなる。成仏道を歩み始める身となるのです。それが仏教からおしえられる、もうひとつの大事なことです。
「成仏」というと、現代では「死ぬこと」と捉えられそうですが、そうではありません。仏に成るとは、さとりを獲ること。さとって聖人君子となるのではありません。足ることを知らず、求め続ける我が身でありました、つまり「人間〇〇(自分の名前を入れてください)でありました」と知ること。そのことを知る歩みが、成仏道です。

すでに満ち足りていたから、歩み出せる
震災後、今も仮設住宅での生活を強いられている方々がいます。炊き出し等のボランティアに行き続けている友は、被災地の方とも仲良くなりました。「来てくれてありがとう」「忘れずにいてくれてありがとう」「話を聞いてくれてありがとう」被災地の方からかけられることばは尽きません。
それらの言葉と共に、「与えられるばかりではつらい」という言葉を耳にしたと言います。支援して頂いて、もう何もいらないという意味ではありません。自分も人の役に立ちたい、自分も何かせずにはいられない、自分のやるべきことが見つからないという想いの吐露だと思うのです。
震災津波による甚大な被害ゆえの「やるべきことが見つからない」ということではなく、人として生まれ生きてきた身が、これからどのように歩んでいったらいいのか、その道が見えないという叫びのように聞こえます。
物質的欲望を叶えるための仏教ではありません。こころからの叫びに応えつづけてくれているのが仏教なのでした。
足るを知る…満ち足りた身であることを知る。或いは、あらゆるものがどんなに満ち足りても、満足できない私であるということを知る。その知足があるからこそ、成仏道を歩む身となる。ただ歩む足があることを知るのです。

   
 
掲示板の人形
Dsc_0870
長崎で買ってきた土鈴です。

« 青空を目に焼き付ける(まぶしいけど) | トップページ | そのときのペースで歩めばいいさ »

コメント

最近、自分がベジータだと唯う事に気が付いて、
己れを乞克(こっか)しようと考えて居たのですが、
足を知るとわ、欲を少さくして、その上で自分のcolorを出せれば良いのでわと。云々

かめはめ波ーーーーーーーーーーーーーーーっ!!

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 青空を目に焼き付ける(まぶしいけど) | トップページ | そのときのペースで歩めばいいさ »

フォト
2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ