一如のいたみ⑩
⑩見る、知る、感じるところに「いたみ」が生じる
俯瞰している自分がいると書きました。
本当に冷静に俯瞰していたのなら、「いたみ」も感じられたのではないでしょうか。
つまり、なにも見ていなかったのです。
行者はハトを助けようとしました。しかし、こころのどこかでハトのいのちと人間のいのちの軽重を量っていました。
「行者はブッダの前世の姿で」と書いたけれど(ごめんなさい、実際そうなのでしょうか? 書きながら分からずにいました)、この文章を書きながら、タカこそブッダの前世の姿ではないかと感じ始めています。
タカは、本当にお腹が空いていたのなら、行者が止めようがハトを食べていたことでしょう。行者をも食い殺していたかもしれません。しかし、そうはせずに身を刻む行者を眺めていたのは、決して俯瞰・鳥瞰していたのではなく、行者の「いたみ」を感じていたのではないでしょうか。
自分が生きるために、ハトの命を奪わねばならない。そのことは、ハト一羽の命を奪うことだけでは済まない。自分が生きるためには、他のいのちと、そして いたみが必要なのだ。そのことを、身を刻む行者の姿を通して、タカは感じたに違いありません。
そのように想うと、タカもブッダの前世の姿のように見えてきます。
今、現に、弱い立場に追いやられている人々がいます。
そのことを伝えるために、身をもって活動をされている人がいます。山本美香さんのように。
そういう人たちがいることに思いも馳せずに暮らしている私。
なかには、「かわいそうに」「なんとかしてあげたい」「伝えてくれてありがとう」という想いを抱いてくれる人も現れることでしょう。
しかし、
「弱い立場に追いやられている人々がいる」のは、私の「無関心」があったから。
「そのことを伝えるために、身をもって活動をされている人がいた」のは、「いたみ」を感じるこころを失いながら生きている私がいるから。
その現実を、見てみないふりをしてはいけない。
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