一如のいたみ⑦
⑦私はどこにいましたか?
さて、私は大変な思い違いをしていました。
「行者とタカ」の話から、原発反対派と推進派を、天秤のそれぞれのお皿に乗っけてしまいました。
原発の話に限らず、あらゆる論争の、あらゆる争いの、あらゆる対立関係の、争っているそれぞれを、天秤の双方に乗せて考えていました。
そして、どちらが重い(正しい)ではなく、どちらも同じ重さなのだと言いました。
私は大変な勘違いをしていました。
「行者とタカ」の話を ちゃんといただいたのならば、争っているそれぞれを天秤に乗せるのではありませんでした。
この私自身を天秤の片一方に乗せねばならないのでした。そうでなければ、私は争いを俯瞰しているだけの傍観者になってしまいます。
天秤の、私の反対側のお皿に乗っているのは、私が助けようとしているハトなわけですから、私と同じ意見の方々になります(よね?)。
「それじゃぁ、釣り合って当然だろう」と言われそうですが、ハトの身代わりに我がいのちをタカ(自分と意見を異にする人々)に差し出すわけですから、結局はタカと私も釣り合っている、同じいのちということになります。
意見が異なると、「信じられない」「同じ人間とは思えない」「あんな奴 人間じゃない」などという怒りに満ちた声が出てくるわけですが、その「あんな奴人間じゃない」と同じいのちなのでした。
結論としては「同じいのち」の自覚という話になるのですが、
自分を抜きに考えるのではなく、「自分を天秤に乗っけて感じるという感覚」を無くしてはいけないのでした。
俯瞰する冷静さもときには必要ですが、傍観者となってはいけません。他国の内戦も、自国の原発も、他国と自国の領有権の主張も。
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