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2012年9月27日 (木)

一如のいたみ⑧

⑧一如のいたみ

天秤をイメージすると、天秤に乗っける双方の姿(主張や言い分など)を比べてしまいます。
まさにそんなことをしているときに、『同朋』 2012年8月号(東本願寺出版部発行)を読んでいたら、狐野秀存先生(この しゅうぞん先生:大谷専修学院長)の文章が目に留まりました。

「一如のいたみ」に思いをめぐらす
元大谷専修学院長の信國淳(のぶくに あつし)先生は、こうしたことを「一如(いちにょ)のいたみ」という言葉で教えてくださっています。「一如」とは、「自分と他人」とか「善と悪」といった差別や矛盾がない、本来のいのちの在り方です。しかし、私どもはふだん、そのような自己の本来性に背いた生き方をしている。そのために感じる孤独や苦悩が「一如のいたみ」です。その痛みに思いをめぐらし、それが一如といういのちの根源的事実から沸き起こってくることを自覚したとき、「もはや自己においてだけ自己を生きようとするのではなく、他人と共に、他人と一つになって、自己を生きようと欲する」ような信心が成り立ち、「かくしてわれわれのうちに新しい主体的な生活がはじまる」と信國先生は述べておられます。
(『親鸞聖人のことば-歎異抄入門』1964年東本願寺出版部発行、現在品切)


抜粋ですので、“こうしたことを”という指示語で始まってしまいますが、お許しください(月刊『同朋』リニューアルされました。よろしかったらご購読ください)。
「一如」とは差別や矛盾がない世界です。その差別や矛盾とは、「自分と他人」とか「善と悪」という私自身の分別心によって生み出されるものであり、その分別心ゆえに孤独や苦悩を味わうのです。
しかし、その孤独や苦悩は、単に私を苦しめる(私が私自身を苦しめる)ものではなく、孤独や苦悩による“いたみ”の自覚を通してこそ、「他人と一つになって、自己を生きようと欲する」「主体的な生活がはじまる」のです。

“私”とは、私ひとりにおいて成り立つものではなく、
他人あるがゆえに、他人と共にありながら、私ひとりで在りきれるのです。

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