一如のいたみ⑨
⑨「いたみ」あるがゆえに
先の文章で、
「天秤の双方に、争う両者を乗せていました。しかし私は勘違いをしていました。天秤の片方に乗せるべきは私でありました。私を傍観者にしてしまっていました」
というような気づきを書きました。
しかし、狐野先生と信國先生の「一如」についてのことばに出遇い、まだまだ勘違いをしている私に気付かせていただきました。
天秤に乗せるということで、比較するこころが働いてしまっていました。比較心・差別心・分別心の眼で天秤を見ていました。片方のお皿に自分を乗せつつも、まだ俯瞰・傍観していたのです。
天秤の双方のお皿に乗っかったものを見るのではなく、天秤そのものを、一如:ひとつのもの(いのち)として見るべきなのでした。いえ、見えるものなのです。
その眼には、反対派も推進派もありません。
だからといって、みんな仲良く手をつないで的なことを言おうとしているのではありません。そこには「いたみ」がありません。「いたみ」を消して手を取り合えるものでもありません。
「いたみ」を感じるところに、ひとつとなれるのです。
「いたみ」を抱えながらも、ひとりでいられるのです。
「いたみ」があるからこそ、「一如」たり得るのです。
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