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2012年8月13日 (月)

葛藤を抱えて生きる

人は、立場や環境によって考え方も意見も変わってしまいます。
脱原発・反原発を訴えている人も、もし身内や親友に電力会社関係者がいれば、脱原発・反原発を訴えるまでにはならないかもしれません。
原発を推進している人も、もし自身が被害を被れば、脱原発・反原発運動に関わることでしょう(ということは、推進している人は、常に被害が及ばないところにいるということですね)。

原発のことだけでなく、領土問題にしても、いじめ問題にしても、立場や環境によって考え方も意見も変わってしまう。
Aという意見を言う人がいれば、Bという意見を言う人もいる・・・という話だけではなく、Aという考え方をしていた私が、正反対のBという考え方をするようになることもある・・・ということ。

考え方や意見は、AかBかだけで表現できるものではない。人の数だけ考え方や意見はある。同じ方向を向いているようでいて、正反対の考え方だったり、正反対を向いているようで、意見が合ったりすることもある。複雑です。
でも、どのような考え方や意見を持つにしても、相手(他者)の気持ちや想いがあるということを感じるこころを忘れたくない。
脱原発・反原発にしろ、反原発にしろ、それぞれに想いはある。理由はある。言い分はある。
「こんなに危険なものなのに、どうして原発にこだわる!?」と言われても、推進している(せざるをえない)ほとんどの人は、ほんの少数の甘い蜜を吸っている人たちの思惑の中に納められているのだと思う。
デモに参加して、いがみ合う必要のない人たちが、いがみ合わざるを得ない環境に置かれているのが、今の日本なんだと感じた。つらかった。私は、脱原発を訴える者としてデモに参加した。デモの規模が回を重ねるにしたがって大きくなり、警察や公安の動員数も増えてゆく。おそらく、地方から動員されている警察官がたくさんいた。彼らにも家族がいるし、もしかしたら気持ちでは原発は恐いものだと思っていても、立場上・仕事上そんなこと言えない人もたくさんいるんだろうなと思った。そういう彼らに、罵声を浴びせる人もいる。「国民を守るのが仕事じゃないのか!」「原発が有っていいのか?」 当然、向こうは言い返さないし、罵声など浴びせるはずもない。こころの底でははらわたが煮えくりかえっているかもしれないけれど。もしかしたら、葛藤に苦しんでいるかも知れない。
「原発反対なら、警察官辞めればいいじゃないか」と言う人もいるだろうけれど、福島から離れられない人々がたくさんいるように、今の立場を辞められない・離れられない人もたくさんいる。

それぞれに想いはある…なんて言うと、それがお前の甘いところだと言われるだろうが、しかし、そういうことを忘れて、自分の想いや意見を言うのは、なにを主張するにしても、筋の通らないことだと思う。人を守ろうとして、人を傷付けるようなものだ。

相手(他者)には相手(他者)の想いがあるのだから…と思うのだけど、
それはないだろう、こいつは許せない、なにを言ってるんだと、本気で頭に来た人がいる。
原発についての公聴会の席で、なぜか参加していた電力会社の社員が、「原発で死んだ人は一人もいません」と言ったことだ。
原発立地以来、どれだけの人が被爆動労を強いられていると思っているのだろう。日本人だけではない、ウラン採掘場における被爆者もいる。原発事故後、すぐに命に関わる中で、作業に携わられていた人たちもいる。そういう人たちがいることは知っているはずだ。「原発と発ガンとの因果関係が分からない。つまり、原発が直接の原因で亡くなった人はいない」ということでごまかす気だろうか。もし原発で亡くなった人がいないというのなら、あなたが福島第一原発で作業をすればいいのに。
先の警察官のように、葛藤を抱えている(私の想像上の話ですが)のならまだしも、状況を誰よりも知っていながら、「原発で死んだ人はいません」と言い切る姿。葛藤も苦しみも後ろめたさも感じない生き方に、気持ち悪さを感じます。
思います。葛藤や苦しみや後ろめたさを感じる生き方は、つらいかもしれないけれど、人と人との血と血が通う、温もりを感じる生き方なのだと。


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コメント

アラン・バディウ『聖パウロ』河出書房新社, 2004.

ネオナチのような偏執には自分が崇め奉る時代に対する収集家のような記憶が潜んでおり、こうした収集家は、ナチの残虐を事細かに記憶することで、それを大いに楽しみ、さらにはそれらを繰り返すことが出来るのではないかといった渇望にすらアラン・バディウ『聖パウロ』河出書房新社, 2004. ネオナチのような偏執には自分が崇め奉る時代に対する収集家のような記憶が潜んでおり、こうした収集家は、ナチの残虐を事細かに記憶することで、それを大いに楽しみ、さらにはそれらを繰り返すことが出来るのではないかといった渇望にすら問題も解決する能力がないと言うことなのだ。起きたことは起きたことだと自らの名において宣言し、人びとが或る状況にさまざまに開かれてゆくアクチュアルな可能性に関わって構想することがかかる宣言を要請しているからこそ宣言が重要であるような、そんな瞬間はつねにある。パウロの確信とはまさに問題も解決する能力がないと言うことなのだ。起きたことは起きたことだと自らの名において宣言し、人びとが或る状況にさまざまに開かれてゆくアクチュアルな可能性に関わって構想することがかかる宣言を要請しているからこそ宣言が重要であるような、そんな瞬間はつねにある。パウロの確信とはまさにしなかったことを過剰に「証明」する根っからのナチとの論争にかかずらわる気など、私にはないのだ。(pp. 80-81)

たとえばアウシュビッツの「記憶」はすべきである、それには何の疑義もないんだけれども、残念ながら「記憶」には、いま・ここの問題を解決する能力はない。なぜならば、虐殺はなかった、という「証拠」を出してくる、あるいは、占領下はよかったという「証言」を出してくる「学識ある」人びとはいま・ここに、いつでもつねに、いるから。ここでバディウは書いていませんが、虐殺はあったとか、占領下での占領された人びとはひでえめにあっていたとか、自分が専門家になって100年、「証拠」を集めればという選択肢は、純粋に論理的にはあり得ますね。無限にデータ集めてから、判断すればという。ただ、これは、一個の問題について、無限年かかるわけで、合理的に判断するのに足りるデータが充分に集まることは、有り得ないわけです。虐殺はあったとか、占領下で人びとをひでえ目にあわせたとか、データで証明してから言えと言われたら、無限にデータ集めにかかります。100年とかでは無理。未来永劫かかる。よって、虐殺はあった、また、占領下でひとびとを虐待した、というのは、バディウの言う「宣言」となるわけですね。それは充分なデータを集めないと言っちゃダメ、なことではない。一般に判断するときに、判断するのに充分なデータが既に集まっていることはない。判断するのに足りる充分なデータがあって、判断するというのは、有り得ないわけで、そんなものは判断の名に値しない。だから、虐殺はあった、占領下で人びとを虐待したというのは「宣言」であると。それはいま・ここでのアクチュアルな状況を開く可能性から「要請される」。いま・ここから未来を開くのに、どうしても必要だからそれなくしては未来がないから、いま・ここがないから、要請されているから、宣言する。

☆HikkenDokugoさんへ
私、問題解決を目的とするのではなく、記憶のために、アクチュアルにブログにて宣言しております。
といった具合でしょうか。
(コメント、何度も読み返させていただきました。なるほどぉと思いながら読みましたが、受け取りが合っているのか否か…)
いつもありがとうございます。

ご無沙汰しております。

難しいですね。

バディウの言っているのは

「アウシュビッツはなかった」という「記憶」=「証拠」=「証言」は、次から次へいくらでもと出てきてしまうということでしょう。

未来永劫に、アウシュビッツはなかったんだ、というか、建物はあるかもしれないけれども、虐待や虐殺はなかったという「証拠」や「証言」は未来永劫、無限に出てくるということでしょうね。

だから、逆に、虐待や虐殺はあったという「証拠」や「証言」、「記憶」は、アウシュビッツはあった、虐待はあった、虐殺はあったということを、人類全員に納得させるためには、まるっきり、全く、無力であり、虐待や虐殺があったかなかったかは、合理的なデータには、原理的に、拠らない、ということでしょうね。

データとか論理とか証拠とか証言とか記憶とかは、虐待があった、虐殺があったということを信じる信じないには原理的に、無関係だということでしょう。

イエスは復活したという証拠とか証言とか記憶とかが、キリスト教信仰にまったく無関係で、証拠があれば、証言があれば、記憶があれば信じるというものではないのと同じだと。

ただ、ここで難しいのは、イエスが復活したというのは、誰が考えても、理性で、データで、証拠、証言、記憶に基づいて、理性、頭脳で分かることではなくて、信仰の問題である(イエスが復活しなかったのなら、いま・ここで、生きていく立脚地を失ってしまう。世界の全てを失ってしまうから、イエスは復活したという宣言は好むと好まざるとにかかわらず、せざるを得ない)というのは、まあ、分かる気はするんですが、それ以外のこと、アウシュビッツもそうなのかどうか、ということですね。

アウシュビッツは理性で理解不可能、言語化不可能、生き残っても証言不可能な出来事だというのは、99%分かる気もしますが、1%、信仰の問題ではなくて、つまり、人間が人間であるために、われわれ1人1人が、いま・ここで、あったと言わざるを得ない問題ではなくて、客観的な歴史的事実(よって、ちょっとわれわれの「わがこと」からは遠い)である気もしないこともないので…。

> イエスは復活したという証拠とか証言とか記憶とかが、キリスト教信仰にまったく無関係で、証拠があれば、証言があれば、記憶があれば信じるというものではないのと同じだと。

↑ ちょっと分かりにくいですね。パウロという方は、イエスが十字架にかけられ、復活されたときに、その場にいません。イエスとは生前、全く面識ないです。キリスト教を迫害していたんですが、道を歩いていたら、天啓を受けて、電撃受けて、打ち倒されて、目から魚のうろこのようなものがごっそりおちた(目からうろこという言い方ができた元のエピソード)。回心体験です。で、パウロという方は、普遍主義と言って、ユダヤ人じゃなきゃイエスのことは分からん、異邦人だったらキリスト者としては二流市民、みたいな考えに対して、それは違うと、男も女も、ユダヤ人か異邦人か、などなど、なーーーんも関係ない、面授の弟子とかそういうこともなーーーんも関係ない、ひとりひとり、イエスの前に立つみたいなことを言われた方です。

バディウの言っていることは一理あって、アウシュビッツはあったということは、自分にとって決着済み、自分がいまここで生きる、他の人びとと共に生きていくことの、前提、立脚地なのだから、アウシュビッツはなかったと、毎日、未来永劫、出てくる、証言、証拠にいちいち、もう付き合わない、というのは、あるでしょうね、切りがないんで。

但し、それはそこに踏みとどまらないといけないですよね。バディウは、別の本(『倫理』)で、「不死なるもの(永遠)に、死すべきもの(状況への介入)として踏みとどまれ、と言っていますが、その踏みとどまることは、大変に大事と思います。

つまり、「自分には自明の真理であることを、分からない人がなぜいるのか、なぜ分からないのかが分からない。」となってしまうと、踏みとどまれていないわけで、自分が神となって、何遍言っても分からないから殴るしかないとなり、残れた道は、パワーポリティックスしかなくなってしまうわけです。この危険はありますね。

未来を己の範囲内で開くというところに踏みとどまらないと、いま、ここで、問題解決しようぜ、なう!となると、いまここで、アウシュビッツになりますから。(アウシュビッツってそういうことですよね。今、全人類に貢献しよう、今、俺らが神になろう、ですよね。怖ろしいことですが、実は、善行。)

2012年8月14日 (火) 12:57の私のコメントは、なにやら、ぐちゃぐちゃになってしまってますね…。すみません。正しくは下記です:


アラン・バディウ『聖パウロ』河出書房新社, 2004. pp. 80-81

ネオナチのような偏執には自分が崇め奉る時代に対する収集家のような記憶が潜んでおり、こうした収集家は、ナチの残虐を事細かに記憶することで、それを大いに楽しみ、さらにはそれらを繰り返すことが出来るのではないかといった渇望にすら憑かれている、と。

例えば、私は学識ある多くの人びと、歴史家さえも、占領についての自分の記憶や自分が蓄積してきたさまざまな史料から、ペタン元帥にも多くの良い点があったなどと言った結論を引き出す様を目の当たりにしている。

そうしたことから得られる否定しがたい結論は、「記憶」にはいかなる問題も解決する能力がないと言うことなのだ。

起きたことは起きたことだと自らの名において宣言し、人びとが或る状況にさまざまに開かれてゆくアクチュアルな可能性に関わって構想することがかかる宣言を要請しているからこそ宣言が重要であるような、そんな瞬間はつねにある。

パウロの確信とはまさにこれである。〈復活〉をめぐる論争は、彼の眼には、もはや歴史家と証言者との論争とは映らない。

それは、私の眼には、ナチスのガス室の存否をめぐる論争がそうでないのと同じである。我々は証拠や反証など必要としないだろう。
学識ある反ユダヤ主義者、ヒトラーはどのユダヤ人にも決して疎かな扱いをしなかったことを過剰に「証明」する根っからのナチとの論争にかかずらわる気など、私にはないのだ。

ツイッターやってるんですが、出てきますねぇ、無限に、未来永劫、永遠に、従軍慰安婦は、職業だったという証拠、証言。

永遠になくならない、未来永劫、無限に証拠や証言は出てくる、出てくる、出てくる。

南京大虐殺はなかったという証拠、証言も同じでしょうし、台湾は親日だという証拠、証言も同じでしょう。

切りなく出てくる。

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