« 葛藤を抱えて生きる | トップページ | 朝には紅顔ありて »

2012年8月15日 (水)

なんのために「節電」をするのでしょうか?

原発に頼らない社会を目指し、「節電」が叫ばれています。
しかし、どうして「節電」なのでしょう。
先に「原発に頼らない社会を目指し」と書きましたが、そのために「節電」が必要なのでしょうか? あるいは、原発が二基しか稼働していない今の日本における危機感から、「節電」をしているのでしょうか?
もし、それらのために「節電」をしているのであれば、少し考えてみましょう。

そもそも、節電に限らず、無駄遣いをしないということは、人として当然のことではないでしょうか。原発云々ではなくて。

そもそも、54基もの原発が存在し、国も経済界も原発を必要だと言い放つ国において、「節電」は何を意味するでしょう。
電力が足りなくなれば、国や電力会社、経済界にとっては好都合ですよね。「ほら、電気が足りない。原発が必要でしょ」と言われかねません。
ところが、電力が足りている現在においても、「国民のみなさまの協力のおかげで、なんとか電力供給が足りています。引き続きのご協力をお願い致します」と言われ、「原発がなくても大丈夫ですね」とはなりません。もう、あることが大前提になっている環境にあるのです。

「節電」の必要がないと言っているのではありません。
節電・節約・節制などは、大切で尊いことだと思います。しかしそれは、生きる姿としての自然な行動であると思うのです。
原発の事故が起きたから、原発が稼働するまでの辛抱だから、原発に頼らない社会を目指すため等々の話ではないのです。
ないのですが、いつのまにかそういう話に、私たちはどっぷり つかってしまっているのです。脱原発・反原発を目指しながら、原発推進派の意の中にいるのです。気付かないということは、恐ろしいものです。

私自身、原発の事故を受け、その後の状態を鑑み、「節電」が、私たちに先ず出来ることと思いこんできました。
しかし、昨夏、長田浩昭住職(真宗大谷派僧侶。「原子力行政を問い直す宗教者の会」事務局)にお会いし、「節電をしなければ」と考えることについて、「それは、結局政府や電力会社の思惑の中にいることです。もっと考えなければならないことがあります」と、流されている私を喝破されてしまいました。

「節電」によって考えなければいけないことは、原発のことではありません。
私自身の生きる姿です。
ものがあるから使っていいじゃないか。お金を払ってるんだから文句を言うな。節電(節約・節制)なんて面倒臭い…。
このような考え方・姿勢が根本にあるから、豊富で安全でクリーンな発電システム“原発”が生まれ、広まったのでしょう。
このような考え方・姿勢が根本にある限り、仮に原発がなくなって、別の自然エネルギー供給システムができたとして、そこでまた無駄遣いや更なる過ちを犯してしまいます。

代替となる自然エネルギー供給システムの確立を願い、風力・水力・地熱の利用などが言われています。私自身、そちらにシフトすると国が決断すれば、日本の技術力・日本人の勤勉さなら、あっという間に次なるエネルギー供給の道筋が出来ると思っていました(います)。
しかし、たとえば風力発電。大きな風車が回っていますよね。あの風車からは、人間の耳に聞こえない周波数の音が流れ、近隣に住む方々に、現に健康被害が出ているのだそうです。そういうことすらも知らずにいました。
つまり、私たちの贅沢(今の生活)のために、次なるエネルギー・新しいシステムを求め確立できたとしても、放射能汚染による被害とまではいかなくても、今は思いつきもしない負の面が出てくるものなのです。
そういうことに思いも寄せずに、私自身の生き様を省みることなく、贅沢のために、今危険なものを排除して新しい何かを求めても、結局は同じことの繰り返しになってしまいます。私のいのちのために、また他者のいのちを傷付けてしまいます。

「節電」を通して見えてくるのは、脱原発・反原発した社会ではありません。私自身です。

(追記)
長田浩昭住職は、本年(2012年)11月2日3日、西蓮寺ご近所の存明寺様の報恩講にご出講されます。
お会いするのが楽しみですが、「まだまだ分かってないなぁ」と言われそうです。
でも、おかげさまで いろいろと考えさせていただいています。

« 葛藤を抱えて生きる | トップページ | 朝には紅顔ありて »

コメント

難しい問題ですね。

1960年代から、と、申しますか、世界で原発第一号機が建設されることになったときより前から、「反原発」運動はあるのだと思います。

「反原発」運動が当初から一貫して言っていることに、一国の問題ではなくて、世界の問題であるということがあるのだと思います。つまり、日本で原発をなくせば終わりではないわけですね。韓国でも中国でもなくさないといけない、と。

もう一つ、いえ、他にも反原発運動が当初から一貫して言っていることはあると思いますが、もう一つ挙げると、反原発運動はその当初から、「化石燃料の代替エネルギーなんてないんだ」と言っていると思います。

これは、当初から、原発に反対するならば、代替エネルギー案を出せ、ほら出せ、今出せ、すぐ出せ、出せないなら黙れ、ということがあったからだと、想像できます。

すると、厳密に言うならば、代替エネルギーを…と言ってしまった途端に、もう、原発推進派の言説にのっかってしまっている、妥協してしまっている、もう、反原発運動は、骨抜きにされている…と言うことが言えるかと思います。

日本から…と言った途端に、もう骨抜きと同じでしょう。

もちろん、「反原発」運動は、昔からあるにもかかわらず、「脱原発」と言い換えた途端に、もう負けている、とも言えそうですね。

そして、反原発は、データには還元されない過剰がそこにあるわけです。

しかし、では、反原発は、自分にとって自明なことなのに、なんべん言っても分からないあいつらがいる。ついては、もうパワーポリティックスしかない、端的に、殴らないとダメ、になっても、困りますね。

ですから、反原発というのは、非常に難しい。

われわれは原発なくてもやっていけるというのは、信仰の問題になります。どんなに脅迫されても負けない信仰。けれども、逆に、原発推進派は、なんべん言っても分からないから…になってしまってはいけないわけで、踏みとどまる力、凌ぐ力が必要だからです。

われわれは原発なくてもやっていける、それは、宣言です。根拠地、立脚地。立証も検証も不要な宣言。

それを理解しないと、つまり、原発なくてもやっていけるというのが、何か科学的だったりデータに基づいていたり、勉強したら誰でも分かることだったり…と誤解してしまうと、自分に自明なことが、なぜ、分からない人びとがいるのか分からない、あとは、もうパワーポリティックスしかない…というところにはまり込んでしまいます。

われわれは原発なくてもやっていける、それは、宣言。

それに対して、では、われわれは、原発をなくすという選択を本当に、わがこととして、自分たちが選べるのか?それはわれわれに対する問いであり、唯一の問題です。

他に問題は一切存在しません。なぜなら、われわれは原発なくてもやっていける、それが、宣言であるならば、もうそこは疑いの余地はないからで、そこを、なにかデータを集める必要はないからです。


コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 葛藤を抱えて生きる | トップページ | 朝には紅顔ありて »

フォト
2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ