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2012年8月

2012年8月31日 (金)

青空を目に焼き付ける(まぶしいけど)

暑い熱い8月でした。
お疲れではありませんか?
9月も暑さが続くそうです。
でも、日が暮れてからは少し秋の匂いがしてきましたね。
で、寒い季節になると暑さを求め、暑くなると寒さを求める。
こうして一年が過ぎてゆきます。
お身体お大事になさってください。

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2012年8月28日 (火)

ぼくは想うんだな

今日出遇った素敵なことば

みんなが爆弾なんか作らないで きれいな花火ばかりを作っていたら、きっと戦争なんか起こらなかったんだな
山下清(画家)

2012年8月26日 (日)

朝には紅顔ありて

2012年8月7日のブログで、「昨年の夏祭りですくってきた“きんぎょさん”が、家に来て、一年が経ちました」と投稿しました。
ところが、8月26日(日)、“きんぎょさん”がお亡くなりになりました。
その日の朝、水槽を掃除して、「大きくなったねぇ」「水槽きれいになってよかったねぇ」などとみんなに声をかけられていました。
法務を終え、ホッとしているときに若坊守が、「“きんぎょさん”が亡くなっちゃったぁ」と呼びに来ました。
見に行くと、まったく動かずに浮かんでいる“きんぎょさん”がいました。
朝、元気に泳いでいたのに…
実際に亡くなった姿を見たときはショックでしたが、私以上に長女のみほが悲しみました。
「“きんぎょさん”、死んじゃったぁ。いやだよぉ。もっと一緒にいたかったよぉ」泣き叫ぶ声が止まりません。泣き止むまで 泣かせてあげようと思いました。
 
水槽を抱え、みほに「“きんぎょさん”のお墓をつくるよ」と声をかけました。
境内のある場所に穴を掘り、“きんぎょさん”を埋めてあげました。みほにも手伝わせました。
手を合わせて、南無阿弥陀仏
その間も、みほは泣き続けています。
死に直面し、泣いてくれる みほ を抱きしめて、「ありがとう」と言いました。

水槽をどかして 空いた棚が、もの悲しさを語っています。
“きんぎょさん” 大切ないのちを 尽してくれてありがとう。大事な何かを娘に感じさせてくれて ありがとう。

2012年8月15日 (水)

なんのために「節電」をするのでしょうか?

原発に頼らない社会を目指し、「節電」が叫ばれています。
しかし、どうして「節電」なのでしょう。
先に「原発に頼らない社会を目指し」と書きましたが、そのために「節電」が必要なのでしょうか? あるいは、原発が二基しか稼働していない今の日本における危機感から、「節電」をしているのでしょうか?
もし、それらのために「節電」をしているのであれば、少し考えてみましょう。

そもそも、節電に限らず、無駄遣いをしないということは、人として当然のことではないでしょうか。原発云々ではなくて。

そもそも、54基もの原発が存在し、国も経済界も原発を必要だと言い放つ国において、「節電」は何を意味するでしょう。
電力が足りなくなれば、国や電力会社、経済界にとっては好都合ですよね。「ほら、電気が足りない。原発が必要でしょ」と言われかねません。
ところが、電力が足りている現在においても、「国民のみなさまの協力のおかげで、なんとか電力供給が足りています。引き続きのご協力をお願い致します」と言われ、「原発がなくても大丈夫ですね」とはなりません。もう、あることが大前提になっている環境にあるのです。

「節電」の必要がないと言っているのではありません。
節電・節約・節制などは、大切で尊いことだと思います。しかしそれは、生きる姿としての自然な行動であると思うのです。
原発の事故が起きたから、原発が稼働するまでの辛抱だから、原発に頼らない社会を目指すため等々の話ではないのです。
ないのですが、いつのまにかそういう話に、私たちはどっぷり つかってしまっているのです。脱原発・反原発を目指しながら、原発推進派の意の中にいるのです。気付かないということは、恐ろしいものです。

私自身、原発の事故を受け、その後の状態を鑑み、「節電」が、私たちに先ず出来ることと思いこんできました。
しかし、昨夏、長田浩昭住職(真宗大谷派僧侶。「原子力行政を問い直す宗教者の会」事務局)にお会いし、「節電をしなければ」と考えることについて、「それは、結局政府や電力会社の思惑の中にいることです。もっと考えなければならないことがあります」と、流されている私を喝破されてしまいました。

「節電」によって考えなければいけないことは、原発のことではありません。
私自身の生きる姿です。
ものがあるから使っていいじゃないか。お金を払ってるんだから文句を言うな。節電(節約・節制)なんて面倒臭い…。
このような考え方・姿勢が根本にあるから、豊富で安全でクリーンな発電システム“原発”が生まれ、広まったのでしょう。
このような考え方・姿勢が根本にある限り、仮に原発がなくなって、別の自然エネルギー供給システムができたとして、そこでまた無駄遣いや更なる過ちを犯してしまいます。

代替となる自然エネルギー供給システムの確立を願い、風力・水力・地熱の利用などが言われています。私自身、そちらにシフトすると国が決断すれば、日本の技術力・日本人の勤勉さなら、あっという間に次なるエネルギー供給の道筋が出来ると思っていました(います)。
しかし、たとえば風力発電。大きな風車が回っていますよね。あの風車からは、人間の耳に聞こえない周波数の音が流れ、近隣に住む方々に、現に健康被害が出ているのだそうです。そういうことすらも知らずにいました。
つまり、私たちの贅沢(今の生活)のために、次なるエネルギー・新しいシステムを求め確立できたとしても、放射能汚染による被害とまではいかなくても、今は思いつきもしない負の面が出てくるものなのです。
そういうことに思いも寄せずに、私自身の生き様を省みることなく、贅沢のために、今危険なものを排除して新しい何かを求めても、結局は同じことの繰り返しになってしまいます。私のいのちのために、また他者のいのちを傷付けてしまいます。

「節電」を通して見えてくるのは、脱原発・反原発した社会ではありません。私自身です。

(追記)
長田浩昭住職は、本年(2012年)11月2日3日、西蓮寺ご近所の存明寺様の報恩講にご出講されます。
お会いするのが楽しみですが、「まだまだ分かってないなぁ」と言われそうです。
でも、おかげさまで いろいろと考えさせていただいています。

2012年8月13日 (月)

葛藤を抱えて生きる

人は、立場や環境によって考え方も意見も変わってしまいます。
脱原発・反原発を訴えている人も、もし身内や親友に電力会社関係者がいれば、脱原発・反原発を訴えるまでにはならないかもしれません。
原発を推進している人も、もし自身が被害を被れば、脱原発・反原発運動に関わることでしょう(ということは、推進している人は、常に被害が及ばないところにいるということですね)。

原発のことだけでなく、領土問題にしても、いじめ問題にしても、立場や環境によって考え方も意見も変わってしまう。
Aという意見を言う人がいれば、Bという意見を言う人もいる・・・という話だけではなく、Aという考え方をしていた私が、正反対のBという考え方をするようになることもある・・・ということ。

考え方や意見は、AかBかだけで表現できるものではない。人の数だけ考え方や意見はある。同じ方向を向いているようでいて、正反対の考え方だったり、正反対を向いているようで、意見が合ったりすることもある。複雑です。
でも、どのような考え方や意見を持つにしても、相手(他者)の気持ちや想いがあるということを感じるこころを忘れたくない。
脱原発・反原発にしろ、反原発にしろ、それぞれに想いはある。理由はある。言い分はある。
「こんなに危険なものなのに、どうして原発にこだわる!?」と言われても、推進している(せざるをえない)ほとんどの人は、ほんの少数の甘い蜜を吸っている人たちの思惑の中に納められているのだと思う。
デモに参加して、いがみ合う必要のない人たちが、いがみ合わざるを得ない環境に置かれているのが、今の日本なんだと感じた。つらかった。私は、脱原発を訴える者としてデモに参加した。デモの規模が回を重ねるにしたがって大きくなり、警察や公安の動員数も増えてゆく。おそらく、地方から動員されている警察官がたくさんいた。彼らにも家族がいるし、もしかしたら気持ちでは原発は恐いものだと思っていても、立場上・仕事上そんなこと言えない人もたくさんいるんだろうなと思った。そういう彼らに、罵声を浴びせる人もいる。「国民を守るのが仕事じゃないのか!」「原発が有っていいのか?」 当然、向こうは言い返さないし、罵声など浴びせるはずもない。こころの底でははらわたが煮えくりかえっているかもしれないけれど。もしかしたら、葛藤に苦しんでいるかも知れない。
「原発反対なら、警察官辞めればいいじゃないか」と言う人もいるだろうけれど、福島から離れられない人々がたくさんいるように、今の立場を辞められない・離れられない人もたくさんいる。

それぞれに想いはある…なんて言うと、それがお前の甘いところだと言われるだろうが、しかし、そういうことを忘れて、自分の想いや意見を言うのは、なにを主張するにしても、筋の通らないことだと思う。人を守ろうとして、人を傷付けるようなものだ。

相手(他者)には相手(他者)の想いがあるのだから…と思うのだけど、
それはないだろう、こいつは許せない、なにを言ってるんだと、本気で頭に来た人がいる。
原発についての公聴会の席で、なぜか参加していた電力会社の社員が、「原発で死んだ人は一人もいません」と言ったことだ。
原発立地以来、どれだけの人が被爆動労を強いられていると思っているのだろう。日本人だけではない、ウラン採掘場における被爆者もいる。原発事故後、すぐに命に関わる中で、作業に携わられていた人たちもいる。そういう人たちがいることは知っているはずだ。「原発と発ガンとの因果関係が分からない。つまり、原発が直接の原因で亡くなった人はいない」ということでごまかす気だろうか。もし原発で亡くなった人がいないというのなら、あなたが福島第一原発で作業をすればいいのに。
先の警察官のように、葛藤を抱えている(私の想像上の話ですが)のならまだしも、状況を誰よりも知っていながら、「原発で死んだ人はいません」と言い切る姿。葛藤も苦しみも後ろめたさも感じない生き方に、気持ち悪さを感じます。
思います。葛藤や苦しみや後ろめたさを感じる生き方は、つらいかもしれないけれど、人と人との血と血が通う、温もりを感じる生き方なのだと。


2012年8月10日 (金)

いつのまにか

67回目の原爆忌を迎えました。
今日は8月10日 金曜日 首相官邸前では大飯原発再稼働反対のデモが行われています。一度私も参加させていただきました。
大手マスコミは、核廃絶と反原発を同じく語るべきではないと訴えています。
しかし、原発を頼りとし、必要とし、使い続けるということは、核を頼りとし、必要とし、いつかは使うことも念頭に置いていると思わざるとえません。
同じく語ろうとしているのではなく、同じものであるという認識に立たなければ、恐ろしいことになります。
原子力の、平和利用だと“原子力発電所”、兵器利用だと“核爆弾”
原子力を、“いい国(と言われている国)”が使えば「原発」、“悪い国(と言われている国)”が使えば「核利用」
同じものを、場合によって表現を変えているだけのことです。

これだけ放射能汚染の問題が深刻化していても、どうして国は原発を推進するのだろう? と思ってきました。
電気の量が足りなくなるから? 
いえ、電気の量が足りないわけではないのはもうハッキリしていることです。
火力発電のための化石燃料がいつかは無くなるのだから、原発?
いえ、ウランも使い続ければ無くなりますから。

気になる記事を、友人のブログを通して知りました(「中日新聞」コラム 中日春秋 2012年7月14日より)。

夜空を見つめて、きぼうの光を探す。と言えば、陳腐な歌の文句のようだけれど、これがおもしろい ▼日本の実験棟「きぼう」がその一部を成す国際宇宙ステーション(ISS)を観測するのだ。宇宙航空研究開発機構のホームページで時間と方向を確認しさえすれば、肉眼で見える ▼サッカー場ほどもあるISSは、大きな太陽電池パネルを広げる。それが陽(ひ)の光を反射し、時に金星よりも輝く。飛行機より遠く星よりは近い独特の高さで夜空を横切っていく。その輝く点の中にも人間の営みがあるかと思うと、愛(いと)おしさすら湧く ▼宇宙への思いは心をわくわくさせる。しかし、気になることがある。日本の宇宙開発は、法で「平和のため」と限定されてきたが、その条件を削った改正法が先月の国会で成立した。この時、原子力基本法も改定されて「安全保障に資する」と盛り込まれた ▼同じものでも平和目的ならロケット。攻撃に使えばミサイル。宇宙と核、二つの技術が結び付いたのが核弾頭を積んだ大陸間弾道ミサイルだ。まさか、とは思う。だが、わざわざ法改正したのはなぜか。納得のいく説明を聞かない ▼十五日には、星出彰彦(ほしであきひこ)さん(43)がソユーズ宇宙船で飛び立ち、秋までISSに滞在するから、夜空を見上げて欲しい。ただし、「きぼう」の光の向こうに怪しい影が蠢(うごめ)いていないか、目を凝らしながら。


これだけ放射能汚染の問題が深刻化していても、どうして国は原発を推進するのだろう? と思ってきました。
あぁ、戦争のため。核を使いたいがためなのですね。分かりやすい。

国やマスコミ(すべてではないけれど)は、核と原発を同列で語らないように訴えているけれど、原発での核開発の先に、宇宙開発が結びついていたとは。もはやSFの世界を越えた現実が、ここにある。宇宙を通して核戦争をする気なのか、未知との遭遇に際し、核を利用する気なのか。想像するだけで恐ろしくなります。
国やマスコミの動向に無関心でいると、いつのまにかいろいろなことが進んで行ってしまう。平和を目的に決められた文章が削られたり、変更されたり。

デモに参加して思いました。デモを通して(参加の有無は別にして)、自分自身で学び、感じ、考えるということは大切なことです。で、声を伝えるべきことは、伝えてゆく。
なんてこと、本当は大事(おおごと)になる前に気付くべきこと、行動に移すべきことなんですよね。

最近、自衛隊(らしい)飛行機が頻繁に飛んでいませんか? 私はそう感じます。「なにか企んでいるのかな? なにか起こるのかな?」などと思いながら空を眺めています。そんなこと思いながら空を眺めたくないのだけれど…
学び、感じ、考えるということをしないと、いつのまにかいろいろなことが決まり、実行され、気付いたときにはとんでもないことになってしまいます。

原発と核開発は 切っても切り離せないことです。というか、同じ問題です。
かたや平和利用・経済の発展のため、かたや兵器・廃絶の対象。別々に語られることではないのです。
原発を有するということは、核を持っているようなもの(「それは言い過ぎである」と言われるかもしれませんが、核開発のための準備をしているようなものなのです。宇宙開発の条件の文章を削った事実が、その裏付けになるのではないでしょうか)。

2012年8月9日(木)11時2分
妻と子どもと正座 合掌して迎えました。
テレビでは長崎の平和祈念式典を放映しています。田上富久市長の平和宣言に耳を傾けました。時折野田首相の姿が映ります。前日まで自民党公明党とゴチョゴチョ話し合っていたようですが、式典に出席するにあたり、なにを考えていたことでしょう。式典に出席し、なにを感じたことでしょう。
それは、私たち一人ひとりも同じこと。なにを考え、なにを感じているか。後になって、「いつのまにか決まっていた」なんてこと言わないために。

2012年8月 7日 (火)

昨年の8月7日に、お祭りですくってきました

2012年8月7日(火)
早いもので、あなたが うちで暮らすようになってから1年が経つのですね。
あんなに小さかったのに、今では私の両手に余るほどに成長して。
はじめは ふたりで来たけれど、4ヵ月ほどで相棒は先立ってしまいましたね。
でも、それからもずっと元気でいてくれてありがとう。
これからもよろしくね。
「きんぎょさん」
(1年間、名前もつけず、「きんぎょさん」「きんぎょさん」と言い続けていました。「きんぎょさん」が名前ですね)

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(余談)
ご法話を頼まれて、8月4・5日、名古屋に行きました。
用意して頂いたホテルのロビーに、「9歳になります」と書かれた水槽に、きんぎょさんが一匹泳いでいました。
うちのきんぎょさんの1.5倍ほどだったでしょうか。あ、今以上はそんなに大きくならないんだなと思いました。
大きく育ったきんぎょさんは、鮒(フナ)のようです。って、元々は鮒ですものね。

2012年8月 2日 (木)

真宗本廟 御影堂門修復②

2012年8月2日(木)撮影
刺すような日射し セミの大合唱
東京も暑いですが、京都はより暑いです。

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2012年8月 1日 (水)

2012年8月のことば

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私が無駄に過ごした今日は、
昨日死んだ人が
痛切に生きたいと思った一日である。


今日はどんな一日だった?
今日は何をして過ごしましたか? 
充実した日、「今日は無駄に過ごしたなぁ」と思うような日、「忙しくて慌ただしい一日だった」と流されて過ごす日もあります。
私がどのような一日を過ごしたにしても、今日という一日は、亡くなった人にとっては生きることができなかった一日です。そんな大事な一日を、果たして私はどのように過ごしているでしょうか。

「今日は無駄に過ごしたなぁ」と思うような日がある反面、無駄に過ごしてはいけないという強迫観念にも、現代人は追われているような気がします。
動く歩道、エスカレーターを歩く人、短い間隔で運行される電車、よりスピードアップを目指す交通機関…。スピードを求めるのは、時間を有効に使いたいという思いでもあり、無駄な時間を嫌っていることの表われなのかもしれません。
しかし、出してしまったスピードには、それを緩めるための時間もまた必要なのです。急ブレーキをかけると転んでしまうでしょう? スピードを出せば出すほど、止まるための距離や時間が必要なのです。つまり、無駄をなくそうとして、かえって無駄を生み出したり、より危険性が増しているものなのです。現代、「都会」などと呼ばれている所に住んでいる人は、無駄を嫌って無理をしているのかもしれません。
動く歩道や電車を例えに出しましたが、目に見えてスピードがあるものに限らず、生活に関わるものすべてにおいて、スピードを求めていないでしょうか。便利さの追求も、その想いの一面です。その結果、かえってしんどい想いをしていませんか?
「無駄に過ごした」「無駄にしてはいけない」とか「充実していた」「これだけのことをやった」とか、それらは私の主観に過ぎません。 無駄がダメで、充実しているのが良いとも言い切れません。今月のことばをいただいて、一日の大切さを感じてくださる人もいると思います。しかし、「無駄に過ごしてはいけない」という戒めのことばとして受け止めるだけでは、生きていることが窮屈になってしまいます。昨日死んだ人も、そんな一日を生きたいと思ったのではないことでしょう。もう一歩踏み込んで、ことばをいただきたいと思います。

いのちには「無駄」はない
私の感覚として「無駄」とか、そうでないとか思うことはあっても、いのちにとって無駄などありません。無駄など無いのです。お釈迦さまや親鸞聖人のおしえは、いのちの真実の姿を照らし出してくださっています。

縁を生かされている私
この世で起こるすべての事柄は、縁によって起こります。お釈迦さまは、「縁起の道理」をお説きくださいました。様々な事柄や生きとし生けるものすべてが複雑に絡み合う縁の中で、私は私となりました。自分の力で生きてきたつもりでも、何一つ自分では為し得ていないのです。何か一つの事柄・いのちが欠けただけでも、私はいないのです。
自分にとって都合の良い出来事は「いいご縁をいただいて」「○○のおかげで」と喜べますが、都合の悪いことを「ご縁をいただいて」とは言えないものです。しかし、良いも悪いもすべてひっくるめてのご縁をいただいての「私」なのです。
すべてひっくるめてのご縁を生かされているという事実と向き合うと、すべての出来事に意味があることが知らされます。自分で頑張った事柄だけではなく、つらく悲しい出来事にも、忘れてしまいたい現実にさえも。いのちにおいて、無駄なことは何一つありません。

諸行無常のいのちを生きている私
形あるものは必ず滅し、いのちあるものは常に「死」に向かっての「生」を歩んでいます。お釈迦さまは「諸行無常」と教えてくださっています。
自分の手の平を見つめてください。何も変化がないように見えますが、細胞レベルでは刻一刻と変化し、生まれ変わっているのです。仮にあと一年生きたとして、今の私と一年後の私とでは、細胞が全て入れ替わり、全く別人になっているそうです。いのちは、それほどの勢いで生まれかわり死にかわりしているのです。
細胞レベルで生まれかわり死にかわりしている個体自身も、やがて死を迎えます。有限ないのちを生きています。しかし、我が身が滅ぶ故に、新しいいのちが芽生えることができるのです。「諸行無常」というと、冬枯れの悲しさを連想しますが、いのちは諸行無常であるからこそ、子も生まれ孫も生まれ、花も咲き実も結ぶのです。穏やかな春の日の誕生のイメージでもあるのです。
有限ないのちを生きているという事実と向き合うと、日や方向や縁起の善し悪しを気にしたり、迷信に惑わされたり、「死」を忌み嫌うことがどれほど無駄なことか気付かされます。「死」も含めての「生」であり、誰にでも訪れる「死」は、「生の証(あかし)」なのです。

どうか教えに出遇ってください
縁起の道理を生き、諸行無常のいのちを尽くしている。それが「いのち」です。いや応なく生まれ、老い、病み、死が訪れる。ことばにすればこれだけの事実に、人間は迷います。しかし、それでも「いのち」は生きています。老い、病み、死んでも、「いのち」は生きているのです。この厳粛な事実を忌み嫌い、我が目をふさいで生きています。どれだけ「いのち」を無駄にしていることでしょう。
しかし、迷いの人間という器は、阿弥陀さまの慈悲を受け容れるための器でもあります。だからこそ、身の事実に迷い苦しみながらも、生ききることができるのです。
昨日死んだ人、私に先立って生ききられた人は、「いのち」の真実の姿を私に目覚めさせてくれます。何一つ無駄など無い「いのち」の目覚めは、「生きたい!」という心からの叫びを呼び起こします。

   

掲示板の人形
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若坊守がスカイツリーに行った際(残念ながら、のぼってはいません)、買ってきてくれました。
スカイツリーと浅草雷門、東京都庁、それからNHK どーもくん
「なんだ!?」と思われるかもしれませんが、たまには楽しいでしょ(^_-)-☆

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