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2012年6月 1日 (金)

2012年6月のことば

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名前は宝物

お仲間のお寺さんと話しているとき、今は亡きある住職(以下、H住職)の話になりました。
「H住職は、人を呼ぶとき、名前で呼んでいたよね」
 (たとえば、「よしかずっ」とか「つとむっ」とか。なぜか私には「かっちゃん」でしたが。)
「そうだね。考えてみれば珍しいよね」
「でも、それが温かかったよねぇ」
「懐かしいね」
名前で呼んでくれる人って、あまりいません。「○○さん」とか、あだ名とか、中には「おいっ」など人権無視的な呼び方をする人もいますが。それだけに、H住職の呼び方は、H住職自身の人柄もあり、とても温かく、とても懐かしく、いつまでも耳の底に残っています。みんなで ふと思い出したことでした。

今春から長女が幼稚園に通っています。幼稚園の面接日、入園希望の子どもたちは幼稚園が預かってくれて、別室で親の面接や説明会がありました。子どもたちの遊ぶ様子を見ていたら、幼稚園の先生たちが子どもたちのことを 「○○ちゃん」「○○くん」と、名前で呼んでいました。まだ入園するかどうかも分からない、初めて会った子どもたちを、名前で呼んでくれている先生方。名前で呼ぶということは、そこにあっという間に感情の交流が生まれるんだなぁと感じました。この幼稚園に入れたらいいなぁと思いました。おかげさまで入園が決まり、長女は毎朝元気に登園しています。

H住職が人の名前を呼ぶと、大勢の中の誰かを呼んだのではなく、あなたのことを呼んだのですという、代わりのいない私を認めてくれていたような響きがありました。幼稚園で先生方が子どもの名前を呼んでくれるのも、安心感を得られます。一人ひとりを見てくれているんだなぁって。だから温かく、だから懐かしいのですね。

宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」では、主人公の千尋は、名前を奪われることによって、千尋としての記憶を失いそうになります。ハクという少年は、名前を奪われることによって、過去の記憶・自分の生い立ちを思い出せずにいました。「名前」というものが、一人ひとりの個性や人生を表わすものであり、無数の縁が込められたものであるからこそ、「千と千尋の神隠し」のような作品が生まれたのですね。

親鸞聖人のおしえをいただく者にとって、自分の名前と共に大切な「名前」があります。「南無阿弥陀仏」です。「南無阿弥陀仏」を名号(みょうごう)と言いますが、名前のことです。
浄土真宗のご本尊 阿弥陀如来は、生きとし生けるものすべてのすくいを願い、「あらゆる いのちあるものよ。どうか私の名前を呼んでください。名前を呼ぶすべてのものを、私はすくいます」と誓いを建てられました。この願いによって、私たちは「南無阿弥陀仏」の念仏を称える縁をいただきました。
阿弥陀如来とは、無量寿・無量光。人知を越えた、量り知れないいのちの歴史と、量り知れないいのちとのつながりを意味します。つまり、「南無阿弥陀仏」の名号とは、ご本尊 阿弥陀如来の呼称ではなく、過去現在未来を貫くいのちの歴史と、今の世を共に生きるいのちのつながり。つまり「縁」です。

子どもやペットに対し、名付け親は様々な想い・希望・願いを込めます。しかし、「名前を付ける」というと、名前を付ける人が主体になってしまいますが、名前を付けることができるのは、子どもやペットなどがいてくれるからです。つまり、名前をつけてあげるのではなく、名前をつけさせてもらっているのです。そのような事実から、縁をいただいて今の私がいることを思わされます。

曽我量深先生(1875~1971)は、
「南無阿弥陀仏は生ける言葉の仏身なり」
と教えて下さいました。「南無阿弥陀仏の名号は、生きた言葉となって、私たちにはたらいてくださっている仏さまであります」と。
阿弥陀如来やそのすくいといっても、目に見えないものは信じられないと言う人もいることでしょう。しかし、名前を付けるのではなく、付けさせてもらう縁をいただくということも、目に見えないはたらき(すくい)が、私に届いているということです。慈悲のはたらきが、生きた力となって私にまで届いています。名号(名前)は、縁を生きる私の姿と、私にまで届いている慈悲のこころ(阿弥陀如来の願い)を明らかにしてくださいます。

さて、土地にも名前があります。土地の名前は、風土の特徴などが表現されています。風土と名前が一体となって、人のこころに記憶されます。原発事故により、故郷(ふるさと)を追われている方々がいます。放射能汚染を気にしないでいられる地に住む者は、「危険な場所からは、一刻も早く離れた方がいいのに」などと簡単に言います。しかし、その土地を故郷として生きている人にとって、故郷を離れるのはつらいものです。
「故郷を失う」という言い方をしますが、はじめ私は、故郷から離れても失うことはないだろうと思っていました。しかし、福島の人々に対する差別が生まれている現代日本において「故郷を失う」とは、「福島出身であることを名のれない」ということを意味するのでした。故郷を名のれないということは、自分の名まえを奪われるに等しいことです。「名のれない」と書きましたが、正確には「名のらせない」のです。どうして人の名前(故郷)を奪う権利が、私たちにあるのでしょうか。故郷を名のれない(名のらせない)現代に、絆だ、つながりだ、縁だと言っても、虚しく響くだけです。

「○○出身の○○です」「南無阿弥陀仏」
名前を名のることができる、名号を称えることができるということは、宝物を持って生きている事実です。誰にも奪われることのない大切な宝物を、誰もが抱えて生きています。

   

掲示板 6月の人形
カエルの親子とでんでん虫です
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コメント

>宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」では、主人公の千尋は、名前を奪われることによって、千尋としての記憶を失いそうになります。

戦時中、朝鮮半島を侵略支配してた帝国時代の日本が執ってた創氏改名を彷彿とさせます。(悲)

☆坊や鉄さんへ
はじめまして コメントをありがとうございます
この文章を書いているとき、同じことを思っていました。
名前を奪われるということの苦しみを!

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