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2012年6月15日 (金)

私の前を歩く人が、ゴミをポイッと捨てていったとして、何も感じませんか?

前回は、真宗大谷派の声明(大飯原子力発電所再稼動に関する声明)をアップしました。
声明に賛同し、取り急ぎアップしたため、私の想いを書きませんでした。無責任でした。失礼しました。想うところを書かせていただきます。

今回の声明や「死刑執行の停止、死刑廃止を求める声明」を発表したとき、あるいは、差別を受けている方々の側に立って活動をしたり、社会運動と言われるものに関わったとき、「どうして真宗はそういうことをするの?」「親鸞のおしえなの?」と問われることがあります。「親鸞のおしえは、煩悩具足・煩悩成就の身の自覚を促す教えであり、その教えの元に、こんな声明とか社会運動に関わるのは、違うんじゃないの?」といった具合に。

親鸞聖人は言われます。
「私たちは、出遇う縁によって、なにをしでかすか分からない存在です」と。
お釈迦さまも、縁起の道理を説かれました。すべての事柄は縁によって起こるのです、と。
縁によって生きる(生かされている)存在です、と。

以前の私は、
原発の事故によって苦しむ人々の側にいようと思うこと
差別で悲しむ人の助けになりたいと思うこと
社会問題に関わろうと思うこと
それらのことは、“縁”によって出会った人・事との関係において促され、こころに動きが生じ、行動に移る…そういうことを“縁”だと思っていました。

しかし、3.11以降、“縁”とは、私たちが日常 口にするような“出会い”を意味する程度の話ではないのだと感じるようになりました。

両親の縁、そのまた両親の縁。代々受け継がれてきた血や法(おしえ)のつながり・・・時間という縦軸
同時代を生きる衆生(生きとし生けるもの)とのつながりという横軸
それら縦軸と横軸が編み目のように織り成すつながり “縁”の中に、私はできました。
その事実は、
私にとって楽しい出来事が起これば、同時に悲しい想いをしている人を生じさせます。
誰かが幸せを享受しているとき、私は涙を飲まねばならないかもしれません。
それが“縁”であり、そういう中を生かさせるはたらきが“阿弥陀”です。

「原子力発電所再稼動に関する声明」を出し、原発再稼働をすることないように念じます。原発に依存しない社会を目指します。
すると、「電力が足りなくなったらどうするんだ?」「原発に生活を依存している人々がいるんだぞ!」「お前らも原発がある生活を享受してるじゃないか」と言われます。
「死刑執行の停止、死刑廃止を求める声明」を出し、死刑の廃止を願います。
すると、「身内を殺された遺族の気持ちはどうするんだ?」「お前の身内が殺されても、死刑廃止を訴えられるのか!」「本山はそう言ってるけど、お前らの本心はどうなんだ?」と詰め寄られます。うん、鬼気迫る感じで。
声明を発表するにしても、社会活動に関わるにしても、賛成にしても反対にしても、関わりをいただいた誰かのために行動を起こすと、反面つらい思いをさせる人も生まれるのです。先ほどの“縁”の話です。
ご本山も、何らかの活動をしている人も、すべての人(いのち)のためになるとは思っていないと思います(お一人お一人と話したことがないので分かりませんが)。自分が関わることによって、悲しむ人も生じている。その自覚が、胸に突き刺さりながらの声明発表であり、社会活動への参加なのだと思います。逆に言うと、胸を突き刺す痛みのない活動は、自己満足・自己陶酔にすぎません。

原発停止に関して、「大谷派は動きが速いね、よく活動するね」という声を聞きます。それは、お他宗が何もしていないわけではありません。
当然、原発が建っている地に立っているお寺もある、生活している檀家・信徒・門徒もいる。ということは、原発関係の仕事に就いている檀家を多く抱えているお寺もあるわけです。すると、宗派として大きな声で「原発反対」を訴えられないのです。お他宗の住職からそのような苦悩を聞いたことがあります。個人レベルでは活動できても、宗派として「原発反対」「再稼働反対」とまでは言えない実情があるのです。
ではなぜ真宗大谷派は声明を出したのか。そのような地に寺がない、ご門徒がいないわけではありません。お寺もあるし、ご門徒もいます。思うに、親鸞聖人のおしえをいただき、“縁”に生かされている身の事実を感じているからこそ、声明が出せる・素早く行動ができるのです。
声明を出すことによって苦しむ人がいる。そのことを承知の上で、行動に移しているのです。
「親鸞のおしえは、煩悩具足・煩悩成就の身の自覚を促す教えであり、その教えの元に、こんな声明とか社会運動に関わるのは、違うんじゃないの?」・・・いえ、煩悩具足・煩悩成就の身であることを知ったからこそ、身が動くのです。
「人間ってそんなもんだからしょうがない」と立ち止まるのではなく、「“縁”によって生かされているんなら、自分から何かする必要もない」のではなく、身が動くのです(「身を動かす」のではなく)。他力(阿弥陀のはからい・縁)に包まれ生かされているからこそ、必死で自力を尽くせるのです。

死刑廃止に関して、ここまで書き綴ってきたことでは、私の答(想い)としては、不十分ですね。
私は短気です。以前は瞬間湯沸かし器と言われることもありましたが、さすがに40歳にもなると、そこまでは怒りませんが(と、思っていますが)。
当然、大切な人の身に何かがあれば、何を考え、何をしでかすか分かりません。「お前の身内が殺されても、死刑廃止を訴えられるのか!」なんて問いを投げかけるな!! です。
恨みを持つこともあるでしょう。いえ、うちをメチャクチャにしてくれたものを憎み恨みながら生きています、今、現に。しかし、それはそれとして、私が他者を恨むこころを持つ者となるということは、私は誰かに恨まれる者となり得る存在であるのです(私が恨む他者から 恨み返されるということだけでなしに)。それが、“縁”ということです。
自分の中に尋常でない怒り心が存在するからこそ、その怒り心は自分に返るものであると突き刺さるほどに感じています。いえ、突き刺しながら生きています。忘れてはいけない。それでも生きていられるのは、他力を生かされているから。親鸞聖人のおしえに出遇えたから。

親鸞聖人は、おしえに「あう」というときに、「遇う」と書きます。
何度も書いてきましたし、何度もお話してきました。「遇」には、自分にとって良いことも悪いことも、すべてのひっくるめての「出遇い」の意味が込められているのだと。なぜなら、“縁”を生かされているから。
「縁」を、「いい人に出会えて」「いいご縁があって」という、私たちが日常 口にするような意味で捉えると、納得出来ないことでしょう。でも、おしえをいただき、身の事実を少しでも感じたのならば、「遇」には、いろいろな出遇いが含まれている、人生すべてが含まれているという気付きがあると思います。
「それじゃ、おしえに出遇った方が苦しいですね」と思われるかもしれません。確かに苦しいことだと思います。苦から逃れて理想(自分にとって好都合)を追い求めるためのおしえではありませんから。でも、人生とは苦しみながらも歩めるものだということを、親鸞聖人はおしえてくださったのです。

若坊守(妻)が得度をしました。得度式を終え、ご本山から出てきたら、お世話になっている先輩僧侶とちょうど出会いました。私のことも妻のことも知っている方です。
私 「今、妻が得度をさせていただきました」
先輩「そうですか、迷いの衆生を誕生させてしまいましたね。おめでとうございます」
と、お祝い()のことばをいただきました。
親鸞聖人のおしえに出遇い、悩みスッキリではなく、いよいよ迷いを生きる身となる。
悩み迷いが生じるのは、“縁”を生きるから。私に悩み迷いが生じるとき、楽しい想いをする人も生じ、私と共に悩み苦しんでくれる人も生じる。私が悩み苦しみなくスッキリできたとき、悩み苦しみが生じている人もいて、何も見えなくなっている私を哀れむ人も生じる。“縁”は、独りに起こる事柄ではなく、縦軸横軸がすべてを織り成し、人間だけでなく 生きとし生けるものすべてを結ぶ。
声明を出しては人を勇気づけ、励まし、新たなつながりを生む。
声明を出しては誰かを傷付け、何もしなければ不信感を生む。
どちらにしても、なにかが生じる。そんな中を生きているからこそ、立ち止まってなんかいられません。

修練(大谷派教師資格を得るための研修)を受けているとき、同じ班に、原発がある地にお寺がある子がいました。
「うちは、原発推進派の住職(父)と反対派の私で対立しています。うちだけじゃなく、私が住んでいる土地では、夫婦・親子・兄弟など肉親どうしで賛成反対に別れていがみ合っています。喧嘩が起こります」
と、話してくれました。20年ほど前の話です。そんな大事な話をしてくれたのに、私にはピンと来ませんでした。私事として聞いていませんでした。今更、彼の言っていたことの重大さが重くのしかかっています。原発そのものが身近にない私たちは、危険な原発を、ある地域に押し付けているだけでなく、そこに住む人々を、肉親でありながらもいがみ合い、喧嘩をさせているのでした。そういうことをさせる権利が、どうして私にあるでしょうか。
思い返すに、修練の話は20年ほど前の話。ということは、日本において原発がある生活が始まってから20年程度しか経っていない頃の話なのです。その時点で、苦しめられている人々がいました。今になって、申し訳ない気持ちでいっぱいです。
電気がある生活を享受しているとき、親子兄弟でいがみ合わされている人々がいます。

「私の前を歩く人が、ゴミをポイッと捨てていったとして、何も感じませんか?」
多くの方が不快に感じるのではないですか?
不快に感じながらも、そのまま通り過ぎてゆくことでしょう。
タバコだったら、火を踏み消してくれる人はいるかもしれません。
ゴミを拾ってゴミ箱に捨ててくださる人もいます。だって、そうでなければ日本中ゴミだらけです。
紙くずやタバコなどのゴミなら、簡単に片付けられます。しかし、核廃棄物はそうもいきません。原発から生じる核廃棄物は、その廃棄方法も確立していないし、一時保管もままならない現状です。つまり、原発に依る生活というのは、今を生きる人間が処理できないゴミを、後を生きる人に対してポイッする行為なのです。自分が不快に感じることを、実は平気でしているのです。気付いてやっているのか、気付かずにやっているのか分かりませんが。

原発推進・反対の話になるとき、その大多数は電力が足りる足りないの話に終始してしまいます。でも、そういう話ではないのです。
私のために、する必要のないいがみ合いをさせられている人たちがいます。
後の世を生きる人に対して、ゴミをポイッして平気なのでしょうか。
そういうことに目覚めさせようとしているのも、宗派声明であると受け止めています。

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コメント

大切なお話、ありがとうございます。真剣に読ませていただきました。
まことにまことに難しい問題で、私なども、友人とこのことについて話をしますと、それぞれに違う意見があり、お互いついつい熱くなって、友人関係にひびが入ってしまいそうな、そんな危険を何度も感じました。
しかし、目線を、いま乳児や小さな子供を抱えている人達に移すと、・・私の娘達がそうなのですが・・、毎日食べる食材に始まり、飲む水、被災地からの廃棄物焼却による空気の汚染はないのか、未来に向かっての心構え、・・夢を持って進むための・・などなど、とても真剣です、勉強会も自主的に行っているようです。
この重大な経験をどう受け止めるかが、なによりも大変な事でしょうね。

☆柳沢佐智子さま
私も、こういうことを書いてはいますが、電気がある生活を享受していることは事実であり、自身にジレンマ・矛盾を感じています。
人と意見が分かれるのも、仕方が無いことだと思います。それに、違う意見の人を正すことを目的に文章を書いてはいないので。「そういう考え方もあるかな…」と、自分の意見と違う考え方があることを知ってもらえたらなって気持ちで書いています。
でも、なによりも おしえが背景にあるから、ヨロヨロになりながらも立っていられます。ダラダラ書き綴った文章を、真剣に読んでコメントをくださる朋もいますし。有り難く、感謝申しあげます。
「重大な経験」・・・ホント、重大な経験です。でも、3.11を経験していなかったら、ここまで生きることを考え、意見が対立する誰かと議論を戦わせることがあったでしょうか。そんなことも想います。
今日は寺子屋じゃありませんでしたっけ? 法の場に身を置けること、“縁”を生きる身の醍醐味です。

外国で飛行機が墜ちました 
ニュースキャスターは嬉しそうに「乗客に日本人はいませんでした」
「いませんでした」
「いませんでした」
僕は何を思えばいいんだろう 
僕は何て言えばいいんだろう 
こんな夜は逢いたくて、逢いたくて、
逢いたくて
君に逢いたくて、君に逢いたくて 
また明日を待っている

遠くの死者について、私たちは何を思えばよいのか、そして、何を言えばよいのか。

小泉義之『デカルト』講談社現代新書 pp. 10-11

http://jpnews.org/pc/modules/mysection/item.php?itemid=443

日本同盟基督教団理事会は7月9日、「みこころの天になるごとく地にも」と題し原子力発電にかんする理事会見解を発表した。福島第一原発事故が、今後の日本の原発政策に関して国論を二分する状況の中で、キリスト者として原発をどう考えるべきかを整理し、聖書信仰に立つ教団理事会として、「主イエスの私たちに対する愛のご命令の観点から」考察。原発は、神が人間に託した被造物管理の能力の限度を超えており、「隣人を愛せよ」との教えにも反するとして、原発が本質的に聖書に反することに気づきながら、便利さを貪ってきたことを神の前に告白し、「原子力によらない社会の実現するように祈り、発言し、行動するものでありたい」と表明した。

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