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2012年6月20日 (水)

うちゃ ぼんのうの深かけん もう一ぺんきっと人間に生まれ替わってくる

2012年6月20日(水) 西蓮寺聞法会
台風一過、まだ強い風の吹く中、西蓮寺聞法会にお出かけくださった皆様、ありがとうございます。
皆様には、若坊守得度のご報告をさせていただきました。

西蓮寺聞法会では、東本願寺より発行されています『真宗の生活』をもとにお話をさせていただいています。
6月は、常盤知暁先生が書かれた文章。

文章中、水俣の作家 石牟礼道子さんの「もう一ぺん人間に」(『苦海浄土』講談社)が引用されています。
登場人物 漁師の妻 坂上ゆきさんに次のように語らせています。
うちゃ ぼんのうの深かけん もう一ぺんきっと人間に生まれ替わってくる
初めて読んだときは、煩悩が深いから、罪深い身であから、再び苦悩多い人間として生まれ替わってしまうということを表現されているのかなと思いました。
でも、煩悩が深い、苦悩が多い身であるということは、想う気持ちが強いということ。執着とも言います。執着深きゆえに迷い苦しむのが人間ですが、執着深いからこそ人間であるとも言えると思います。執着を生きる身であるからこそ、おしえに出遇ったとき、自身の執着の深さを思い知らされます。私とは、人間とは、憐れむべき存在であることに目覚めます。しかし、憐れみ悲しんでくださっている主体は、実は阿弥陀如来であったのです。
自身の執着の深さを思い知り、そこでやっと阿弥陀の慈悲に巡り会います。執着ある故に、阿弥陀と出遇えるのです。
親鸞聖人のおしえに触れ、自身の執着に目覚め、阿弥陀の慈悲を感じる。そのような身となったものは、おしえを自分だけのものにしてしまうのではなく、身をもって他者(生きとし生けるもの)をすくいたいという願いに立つ。その願いの告白が、「もう一ぺん人間に生まれ替わってくる」ということだと聞こえてきました。

想いが強いということは・・・
人生における悩み苦しみからの逃避を求め願うけれど、
深い苦しみを経験するからこそ、身近な人を、大切な誰かを、自然を守りたいと想う気持ちも、強く出てくる。
自分だけが良ければいいのなら、もう一ぺん人間に生まれたいとは思わないかもしれない。
他を想う・感じるこころが芽生えたならば、もう一ぺん人間に生まれて、自力の限りを尽くしたいという願いに立つ。阿弥陀如来の慈悲のこころによって、持(たも)たれているから。

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