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2012年6月23日 (土)

私が無駄に過ごした今日は、

私が無駄に過ごした今日は、
昨日死んだ人が
痛切に生きたいと思った一日(いちにち)である。


「今日は何もしなかったなぁ」「無駄に過ごしたなぁ」と思う一日があるかもしれません。
その、無駄に過ごした一日は、昨日死んだ人にとって、痛切に生きたいと思う一日であったかもしれません。
そう思うと、無駄に過ごしていい一日などないし、一日の無駄は一生の無駄に通じてしまうかもしれません。
大切に生きたいものです。

しかし、自分の感覚として「無駄に過ごした」と思う一日があったとしても、
いのちにとって、無駄な一日などあり得ません。

縁を生かされている私
すべての事柄は、縁によって起こります。すべての人々や様々な事柄が複雑に絡み合う縁の中で、“私”となりました。自分の力で生きてきたつもりでも、実は何一つ自分で為し得ないのです。
縁を生きる(生かされている)ことに向き合うと、自分で頑張った事柄だけでなく、つらく悲しい出来事にも忘れてしまいたい現実にも、すべての出来事に意味があることが知らされます。無駄なことなどありません。

諸行無常のいのちを生きている私
形あるものは常に滅し、いのちあるものは常に「死」に向かっての「生」を歩んでいます。お釈迦さまは「諸行無常」と教えてくださいました。
有限ないのちを生きているという事実に向き合えば、日や方向や縁起の善し悪しを気にしたり、迷信に惑わされたり、「死」を忌み嫌うことがどれほど無駄なことか気付かされます。
「死」も含めての「生」であり、誰にも訪れる「死」は、「生の証」なのです。

昨日死んだ人(私に先立って生ききられた人)は、いのちの現実を私に目覚めさせます。「生きたい!」という目覚めは、人生を無駄にはさせません。

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コメント


こんにちは。突飛な質問ですみません。

http://sairen99.cocolog-nifty.com/kotoba/2012/02/post-b90e.html

は、こそこそっと、後ろの方に座っていたりしてOKなものでしょうか?

☆HikkenDokugoさんへ
HikkenDokugoは、もしかして theotherwindさんで、N川さんですか?
失礼しました。今、気付きました。
東京五組同朋会は、公開の講座です。どうぞご参加ください。後ろの方にコソコソッとではなく、どうぞ真ん前でご聴聞ください。
開催日・会場(地図)は、PDFを添付してますから、分かりますよね。
ご参加お待ちしています。


ああ、すみません!

有難うございます。

智慧(智は、あれはあれ、これはこれと分別して思い計らうによりて思惟に名づく。慧は、このおもいの定まりて、ともかくも計らわぬによりて普等三昧なり)の光明はかりなし 有量の諸相(よろづの衆生なり。有量は、世間にあることはみな計りあるによりて有量というなり。仏法はきわほとりなきによりて無量というなり)ことごとく 光暁(ひかりにてらさるるなり)かふらぬものはなし 真実明(あみだにょらいなり。しんといふは、いつはりへつらわぬをいふ。じちというは、かならずもののみとなるをいふなり)に帰命せよ

解脱の光輪(げだちといふは、さとりをひらき仏になるをいふ。われらがあくごふぼんなうをあみだのおんひかりにてくだくといふこころなり)きはもなし 光触かふるものはみな 有無をはなる(じゃけんをはなるるなり)とのべたまふ 平等覚(あみだはほうじんにてましますあひだびょうどうかくというなり)に帰命せよ

光雲無碍如虚空(ひかりくものごとくにてさはりなきことそらのごとしとなり)一切の有碍(よろづのよのことなり。さはりあることなり)にさはりなし光沢(うるほふ反)(ひかりにあたるゆへにちえのいでくるなり)かふらぬものぞなき難思議(こころのよろこばぬによりてなんしぎといふ)を帰命せよ

清浄光明(どむよくのつみをけさんれうにしやうじやうくわうみやうとまうすなり)ならびなし 遇斯光(このひかりにあふものはみだぶちにまうあいぬるゆへに)のゆヘなれば 一切の業繋(つみのなわにしばらるるなり。あくごふのつなといふなり)ものぞこりぬ 畢竟依(ほうじんのさとりのこるところなくきはまりたまひたりといふこころなり)を帰命せよ

仏光照耀最第一(てらしかがやくことことにもっともすぐれたりといふこころなり) 光炎王仏となづけたり 三塗の黒闇(ぢごくかくいちくしょうくらきやみなり)ひらくなり 大応供(みだにょらいなり。いちさいしゅじゃうのくやうをうけたまふにこたへたまふによりてだいおうぐとまうすなり)を帰命せよ

中島義道『善人ほど悪い奴はいない』角川oneテーマ21、という本があります。

一部、引用します。

善人が悪事をなさないのは、それが「悪い」からではない。ひとえに社会から抹殺されたくないから、つまり悪をするだけの勇気がないからである。[...]それにもかかわらず、彼らは「良心がとがめるゆえに悪いことをしないのだと思い込んでいる。どこまでも(ずうずうしくも)自分を美化したいのだ。善人の最大の罪は、鈍感であること。つまり、自分自身をよく見ないこと、考えないこと、感じないことである。善人は絶対に犯罪に手を染めることのないほど賢明である。しかし、同時に、殺人を犯したり放火したり強姦する人の気持ちが皆目分からないほど愚かである。[...]親に復習するために家ごと燃やしてしまいたい、人生が厭になったから無差別に他人を巻き添えにして死刑になりたい、という青年の気持ちなどまったく分からないと涼しい顔をして語る。そして、「そんなに死にたければ、一人で死ねばいいのに」と、頭の片隅でひねり出しただけの薄汚いコメントを大っぴらに披瀝する。さらに、「同じように苦しくても、必死に我慢して生きている人もいるのに」と、これ以上ないアホ面を下げてしみじみ語る。なぜなのか?なぜ、彼らはこれほど愚かであるのに平然としていられるのか?

この本、2010年夏の出版です。しかしどうでしょう?2012年春現在、やっぱり、「そんなに死にたければ、一人で死ねばいいのに」って、へっちゃらで口から出てないでしょうか?われわれ。自分の口から。残酷非道なフレーズが。出ますね。へっちゃらで出る。この口から。即ち、人間は、なんべん「ええがになっとった」と反省しても、やっぱり「善人」。死刑になりたいからだけの理由で無差別に殺人する人は悪人なんで、私はそういう人間ではないという無関係な態度。

自分が「殺人を犯したり放火したり強姦する人の気持ちが皆目分からないほど愚かである」ということに気がついている瞬間は、ありますね。あるけれども、1分後に忘れる。

そしてまた、「そんなに死にたければ、一人で死ねばいいのに」って、へっちゃらで口から出る。よく反省してみたら、おそろしい発言です。でも、どうしても、また、思う。

人間、全員、救い難く「善人」だと思います。

五劫思惟之摂受 と言いますね。何故、五劫もかかっているのでしょうか?法藏菩薩さまが、この上なく正しいお誓いをお建てになれれることが可能であったならば、すでに、そのとき、如来の智慧があったはずです。法藏菩薩さまは、もともと、如来だったはずです。にもかかわらず、五劫もかかっている。

それは、覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪 というのが三千大千世界の全ての仏国土(260億でしょうか?)に生きる、全ての衆生の人生を、ひとつひとつ、ご自身が、歩んで下さったからと考えられます。三世にわたり。

法蔵菩薩さまが、私の人生も既に歩んで下さっている、また、いつでも共に歩んで下さっていると考えられます。

すると、その中には、何の理由らしい理由もなく、大量に殺戮してしまった人なども大量にいたはずなので、法藏菩薩さまは、超極悪人と言えます。

そうして初めて、攝取不捨なのだと。

われわれ、人間は、ただ死刑になりたいからというだけの理由で、見ず知らずの人々を次々ナイフでさしてしまった青年の気持ち、そこに至らせた無限にある要因を分かってあげることはできません。無限に微妙な要因があるわけですが、全く理解してあげることができない。そういう慈悲が私たちにはないわけです。(もっと言ってしまえば、テレビで報道しているこの容疑者が、もしかしたら、犯人ではないのではないか、ということすら、思いもしないことすら、大いにあり得ます。警察に逮捕されたのだから、こいつが犯人に違いない。こいつは悪人であって、善人である自分とは違う人間なんだ。自分とは無関係なのだと、即時、思いたい、自己都合、自己中心があるわけですね。はやくそう決めつけて、無視したい。深く考えたくないわれわれがいるわけです。)

そして、それを悲しいことだとすら気がつかない。

そうした、どこまでも救いがたく善人なわれわれを、阿弥陀様は悲しんで頂いているのでしょう。

南无阿弥陀佛

☆HikkenDokugoさんへ
先日は同朋会にお越しくださいまして、ありがとうございます。
善人根性のわれら、こころが痛むばかりです。
「殺人を犯したり放火したり強姦する」といった極端な例で考えるから、「自分は、そんなひどいことしない」「そんなひどいことする奴はけしからん」といった発言になりますが、
縁を生きているわれらは、常に悪事をなしています。頭で悪さを考えています(誰々嫌い、あんな奴いなくなればいいのに等々も、人の否定という殺人です)。頭で考えることも、実際に為したことも、同じ罪です。
気付かせるための光が、常に届いていますのにね。
阿弥陀さま(法蔵菩薩)が、五劫ものあいだひとりひとりの人間と同じ時を過ごしてくださったことの有り難さも、感じたいものです。

「そんなに死にたければ、一人で死ねばいいのに」という言葉は、口から出た、あるいは、口には出さなくても、頭に閃いた、5秒後には、とんでもない恐ろしい言葉であることは、反省はされますが、しかし、毎回、人生が厭になったから無差別に他人を巻き添えにして死刑になりたい、という青年の気持ちなどまったく分からないと口にしたり、頭に閃いたりする、われわれがおりますね。恐ろしいことです。

また、おっしゃる通り、自分が、既に造ってしまった悪は、それですら、われわれは、即時、忘れるわけですが、本当は、自分が、未だ造っていない悪の方が、怖い。語弊はありますが、既に造ってしまった悪は、所詮、有限。一方で、未だ造っていない悪は、自分が、明日、何をするかまったくわからないのですから無限。

自分はあてにならないことです。

南无阿弥陀佛。

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