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2012年5月

2012年5月31日 (木)

苦労考

「苦労」という字を見ていて、ふと思いました。

「労」にも“骨を折る” “努力する” “働く”といった意味があるから、
「苦労」は「苦」も「労」も「苦しみ」を内包しています。
だから、「私は苦労しています」「昔 苦労してねぇ」と、自分で言っても間違いではないのだけど…

「労」は、「いたわる(労る)」「ねぎらう(労う)」と読みます。
つまり、「苦労」とは「苦をいたわる」「苦をねぎらう」とも読めます。
「頑張ったね」「あなたの努力を、私は見てますよ」「無理しなくていいんだよ」と、「苦をいたわる」「苦をねぎらう」人がいてくれて初めて、「苦労」は成り立つんだなぁと、ふと思いました。

「こんなに頑張っているのに、苦労しているのに」と愚痴をこぼしたくなるときもあるでしょうが、頑張っている姿って、必ず誰かが見ていてくれているものです。
自分で「苦労したよぉ」「苦労してんだぁ」などと言うものではなく、
たとえ声はかけられなくても、「頑張ったね」「あなたの努力を、私は見てますよ」「無理しなくていいんだよ」って、苦をいたわって(ねぎらって)くれる人がいます。
そういう想いや視線に守られているからこそ、実は「苦労」が出来るのです。

でも、誰かの頑張りを知っているのなら、いたわり・ねぎらいのことばをかけてあげてください。
そのとき、ただの「苦しみ」が「苦労」に変わります。
一人で背負っていた「苦しみ」が、支えられているから頑張れたんだなぁって思える「苦労」に変わります。

2012年5月28日 (月)

何を聞いているのだろう。どこで聞いているのだろう。

2012年5月28日(月) 白骨の会(西蓮寺仏教青年会)
最近の白骨は、とくにテーマも設けず、参加者どうし 興味のあることを自由に話していました。
今月の白骨は、久しぶりにテーマを設けさせていただきました(発題形式にしました)。
テーマの題をつけるとしたら、“ことばと発言主との関係性について”とでもなりましょうか。

世にはさまざまなことばが溢れています。
このブログでもたくさんのことばを紹介してきましたし、門前に掲示したりもしています。
「いいことばですね」ということばばかりではなく、「納得できない」ということばもあることでしょう。
それは、人それぞれの受け止めですから、いろいろな受け止めがあります。
発題して聞きたかったことは、たとえば、罪を犯した人が残したことばについて。
ことばだけを取り上げれば、とてもこころに響くことばだったとします。しかし、そのことばが、罪を犯した人から出たことばであると分かったとき、ことばに感動した人も、途端に ことば までも否定するのではないでしょうか。

ことばだけに限らず、法話を聞くということにしても、「この先生は好きだから聞く」「この先生は嫌いだから聞かない」という選びをしてしまいがちです。

人間、好き嫌いがあるものです。それは否定できません。
でも、「好きだ」「嫌いだ」  「感動した」「けど、○○の ことば ならば受け入れられない」 という受け止めってどうなんだろう。おしえを他人事として聞いているような気がします。自分事として聞く、受け止める、自分を見つめるということが聞法ではないだろうか。
みなさんどう思います?

というような発題をしました。
久しぶりにテーマ設定をして話をしたので、話が大きくブレずに みんなで話すことができました。
フリートークもいいけれど、テーマ設定もいいなぁと、あらためて思いました。


(備忘)
西蓮寺では毎月1日貼り替えで、「ことば」を掲示しています。親鸞聖人のことば・先達のことば・外国の方のことば・他宗の方のことば・メディアを通して出会ったことば…こころに響いた ことば、自作のことば、いろいろなことばを掲示してきました。発言者がハッキリ分かっていることばは、その方の名前も明記しています。
さて、掲示することばについて、考えたことがあります。例えば、何らかの罪を犯した人が、とてもこころに響くことばを残していたとします。その方の名前を明記せずに、ことばだけを掲示したとします。おそらく、多くの方のこころに訴えかけるのではないかと思います。そこで「このことばは、○○さんのことばです」と明かしたときに、こころ打たれたあなたは、どのように反応しますか? がっかりするか、怒るか、感動したはずのことばを否定あうるのではないでしょうか。「名前を明記せず」と書きましたが、そんな作為的なことをせず、始めから名前を出した場合、「どうしてこんな人のことばを掲示するのですか?」という見方をするのではないでしょうか。罪を犯した事実はいけないことですが、その人がこころの底から発したことばまでも否定されるものではないと思います(もちろん、こころの底からの叫びなのか、上っ面だけのことばなのかは、本人にしか分かりませんが)。人間、誰しも懸命に生きています。だからこそ、苦に直面したときや失ったものの大切さに気付いたとき、何かしら感じ得たことを、ことばとして発するものだと思います。どのような人が発したことばであっても、ことばには、否定し得ない いのち が脈打っているのではないでしょうか。
ことばを掲示していると、いろいろな感想をいただきます。「いいことばですね」「感動しました」「力をもらいました」という感想ばかりではありません。「納得できない」
「(名前が明記してあって、)この人のことばは嫌いだ」ということも耳にします。掲示することばばかりではありません。法話の会にしても、「○○先生は好きだから聞く(××先生は嫌いだから聞かない)」という声を聞くこともあります。人間ですから当然好き嫌いも得手不得手もあります。ことばや法話に出遇い、好き嫌いで判断して終わりますか? 好き嫌いで判断する場合、他人事・客観的におしえを評価しているのでしょう。それとも、自分事として受け止め、考え、向かい合うのか。それが、納得できないことばであったとしても。おしえは、人を見るのではなく、自分を見つめるものです。おしえに触れるほど、おしえや他者に対する批評家・評論家になってはいないでしょうか。おしえは、私を映し出す鏡なのに。

2012年5月27日 (日)

目には青葉 山ほととぎす 初鰹

心地よい気候になってきました。
境内の植物もみずみずしく生き生きとしてきました。


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2012年5月22日 (火)

御遠忌団体参拝から一年 今、想うこと

2012年5月22日(火) 
宗祖親鸞聖人750回御遠忌 東京五組団体参拝から一年が経ちました。
今年、巷では金環日食とスカイツリー開業の話題で持ちきりでした。昨年の5月22日時点で、スカイツリーの開業日は決定していたのでしょうか? 「来年の今日は、スカイツリーの開業日なんだよ」など、まったく話題にも上りませんでしたね。

「一年経つのは早いなぁ」なんて、口で言うのは簡単ですが、誰もが一年 年を積み重ね、亡くなられた方もいれば、生まれたいのちもあるわけです。
私の周りにも、生死の境を彷徨った方もいれば、病院のお世話になり始めている方々もいます。私自身も、40歳を越えて急に病院のお世話になることが増えました。また、団体参拝前に誕生した次女がたくましく成長してもいます。

生死無常 諸行無常
時の流れの中を、今一瞬も同じ「わたし」であることはなく、「いのち」が生きています。

御遠忌が終わり、そこからまた新たな一歩が始まるのだと勇んで踏み出した足が、今止まっています(私のね)。

 あぁ、なにをしてきたのやら
 あぁ、なにをしているのやら
 あぁ、なにをしたいのやら

生まれたいのちは、やがて死に往く。
やがて死ぬからと言って、なにもしないでいい「いのち」ではない。
おしえに出遇うために生まれてきたいのちなのだから。

おしえに出遇えて、楽になるのではない。
おしえに出遇えたからこそ、この世の苦しみを、本当の苦しみと感じられる。
つまり、本当に生きるということ。
そこで初めて、南無阿弥陀仏と手が合わさり、念仏が出ます。

つらい・・・けど、
だからこそ生きられる

今更ゴチャゴチャ考えているけれど、御遠忌を経て、一年の移ろいがあってのこと。
何も変わらなければ、想いも変わらない、生き方も変わらない、私も変わらない。
生死無常 諸行無常のいのちを生きるからこそ、
想いも変わり、生き方も変わり、私も変わる。

人生に、聞法にゴールはないということ。
常にスタート。

歩みが止まっていると言うことは、常に出発点に呼び戻されるということか!
なるほど、今 書いていて想いました。

生涯聞法とは、
「生涯をかけての聞法」という意味であるうえに、
「常に出発点に呼び戻されるのが聞法」という意味が内包されているのですね。

南無阿弥陀仏

(おまけ)
「仏々相念(ぶつぶつそうねん)」と打とうとしたら、「ブツブツ壮年」と変換されました。まさに今の私。

南無阿弥陀仏

2012年5月20日 (日)

頭が下がります

拝啓 旭天鵬関
大相撲幕内優勝おめでとうございます。
初優勝の最年長記録を更新したそうですが、テレビで取り口や所作を拝見していて、積み重ねてきたものの美しさを感じました。
先日の王さんの話ではありませんが、年をとったら年をとったなりの 力の出し方、力では敵わない部分を補う技や精神力が伴うものなのだなぁと思いました。
あらためておめでとうございます。


千秋楽本割の取り組みがすべて終わり、残すは優勝決定戦。
テレビは、優勝決定戦に臨む旭天鵬関と栃煌山関の様子を映し出します。
そして迎えた優勝決定戦、テレビは土俵を映し出します。 私は、きれいに整えられた土俵に感動していました。
取り組みが終わる度にならしてはいますが、優勝決定戦ということで、なお きれいにならされたことと思います。
テレビでは映されないけれど、きれいに整備してくださる方々がいる。他にも多くの人々の尽力で、物事はなされてゆく。そのことの大変さ、美しさ、有り難さを思います。それとともに、そういう人たちがいることを忘れたくないなぁと思います。


感謝の気持ちを持てば、練習に取り組む姿勢も、言動も変わってくる。ひとつの試合を開催するのに、どれだけの周囲の尽力がいるか。感謝の気持ちを忘れたら、人として終わり
(プロゴルファー 杉原輝雄さん)

2012年5月19日 (土)

もし無人島に一冊だけ本を持っていくとしたら

幼い子どもがいると、Eテレをよく見ます。
「フックブックロー」は、古書店を舞台にしたパペットと人間の物語。

昨日の「フックブックロー」で、登場人物のしおりちゃんは問いかけていました。
「もし無人島に一冊だけ本をもっていくとしたら、どの本を持っていく?」

しおりちゃんは、『世界のお菓子全集』
 美味しいお菓子のことを、せめて本だけでも思い出したいから。
フリーターの傑作君は、『ロビンソンクルーソー』
 無人島生活の参考になると思うから。
店長の もくじぃは、『書籍全集』
 数々の本を読み込んできたもくじぃにとって、本の題名を見ただけで、本の内容が思い起こされるから。
(といった内容だったと記憶していますが、間違いがあったらごめんなさい)


テレビを見ながら、「さて、自分なら?」と考えました。
本棚にいっぱい本は並んでいるけど、一冊と言われると困ります。困るとは、選べないという意味もありますが、選べないなら全部無くてもいいんじゃないの?という問いかけも含まれます。
そこで、『真宗聖典』や『歎異抄』などと、なんの迷いもなく選択できない自分も困りものですが。

さて、もし無人島に一冊だけ本を持っていくとしたら、あなたは何の本を持っていきますか?


2012年5月18日 (金)

ことばの日 生きるということは、言葉との出合い

今日は5月18日 こ・と・ば の日だそうです。
会話でことばを紡ぎましょう(^-^)

もとより琴線というものがあるのではない。しかし、真実の言葉に触れれば、自然に鳴りだす琴線を、人間は誰もが胸の奥にもっている。生きるということは、この琴線に触れる言葉との出合いではないだろうか。生きるということの喜びや感動は、本来、もっと素朴なところにあるのである。
(松本梶丸さん『生命の見える時 一期一会』中日新聞社より)

2012年5月17日 (木)

こんなこと しちゃってさぁ

人は、
自慢することがなくなると、
悪事すら
自慢の種にする。

2012年5月14日 (月)

いずれがあやめかかきつばた

境内に咲く花 あやめ か かきつばた か。
区別の仕方が分かりません。
聞法会で盛り上がりました。
ちなみに、あやめ も しょうぶ も、漢字で「菖蒲」と書くのですね。

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2012年5月13日 (日)

年輪と共に付いてくる ゛ ゛

ははの日、お花屋さんで娘にカーネーションの花束を選ばせる。
「どれがいい?」
「これ!」
娘にとっての“はは”の分は決まり。もう一束選ばせる。
「次は、ばぁば の分ね、もうひとつ選んでちょうだい」
「ばぁばの? じゃあねぇ、これ!」
私にとっての“はは”、娘にとっての“ばぁば”の分も決定。

こんなやりとりをしながら、ふと考えた。
“はは”は、子育てをし、経験を積み、“ばば(ばぁば)”となる。
積み重ねてきたもののぶんが、゛゛(点点)として付いたのかなぁ。
じゃぁ、“ちち”は、“じじ(じぃじ)”じゃなくて、“ぢぢ(ぢぃぢ)”が正しいなぁ。

なんてことを考えながらぼんやりしていると、娘は勝手にお花屋さんと話し始めている。
「いっちゃん(自分のこと)、さんさい になったんだよ」
「ほんとぉ! 生まれたばかりのときにお店に来てくれたの覚えてる? もう3歳になったんだ! はやいねぇ」

このお花屋さんに娘を連れて来たのは、娘が生まれた直後だった。A型のベビーカーに乗せてきたのを覚えています。覚えていてくださったんですね(厳密に言うと、私のことを覚えていてくださっていたのでしょうが)。ありがとうございます。

花は、いいですねぇ。

2012年5月12日 (土)

ズレてるんです

書類などに2つ穴を開ける文房具「パンチ」。
保存しておく書類も大量にありますし、他のお寺様の寺報もたくさんいただくので、「パンチ」は重宝しています。
以前は、書類や寺報と同じサイズの紙(A4かB5)を半分に折って、中心に線を引いて、一番上に乗せて“パンチ”していました。
そんなことをしていたら、なんと、そんなことをせずとも、紙のサイズに合わせてくれるゲージ付きの「パンチ」があることを発見。即購入、重宝しています。

で、毎度毎度そのゲージ付き「パンチ」で穴を開けるのですが、不思議なことに、書類や寺報に穴を開けてファイルに閉じたとき、微妙にずれているんですよね。おなじ「パンチ」で、ちゃんとゲージで調節しているのに、書類を束ねると、はみ出すものがあって、キチンとは揃わない。もちろん、ほんのちょとのズレです。当然、多少はズレるに決まってます、手作業ですから。

でも、微妙に、ちょっとずつズレている書類や寺報の束を手にするたびに思います。
俺の心根がズレてんだなぁって。ひとり笑ってしまいます。

2012年5月11日 (金)

ごめんなさい ありがとう

ごめんなさいって
なかなか言えなくて
ごめんなさい


ありがとうって
言わせてくれて
ありがとう

2012年5月 9日 (水)

見える人には見えない 見えない人には見える

2012年5月9日(水) 西蓮寺聞法会

如来の眼
 選ばず 嫌わず 見捨てず

衆生の目
 選び 嫌い 見捨てる

阿弥陀如来を、浄土を見ようとしても、見えはしない。
自分の姿を見つめ続ける中で、阿弥陀如来の本願が、ふと見えてくる。

心で見なくてちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ
(『星の王子さま』より…聞法会で このことばには触れませんでしたが、今、思い出したので書きました)


数日前の竜巻が起き、雹(ひょう)が降ったときのような天気になるという予報だったにもかかわらず、本日の聞法会にお越しくださり、ありがとうございます。

2012年5月 8日 (火)

今だからこそできること

王貞治さん(現ソフトバンク球団会長)のことば
「若いときにベテランの知識があれば、何本ぐらいホームランを打てるのか。そういう話題になって、『それは無理』と。『若い時は体で打ち、年を取れば知識で打つ。その時々にしか出来ないことがある』」
(2012年5月8日 読売新聞朝刊「Gの群像」より)

含蓄がありますね。
スポーツ選手に限らず、仕事でも勉強でも、若いときは体が動くし、年を重ねたら知識と経験で事を成せる。
子どもは、ちっとも休まずに動き続けます。その姿を評して「あれだけの運動量で働けたら、何億円も稼げる」と言われた方がいますが、当然、幼いときにビジネスはできません。
仕事をはじめた頃は、仕事を覚えることや人脈作りで精一杯。
仕事を覚え、人脈も出来た頃には、昔のように体が動かない。
でも、その時々で出来ることを、その時においては一生懸命にやっているんですよね。
肝心なのは、体の動きが落ちてきたときに、若いときと同じ事をしようとしないこと。それこそ、本当に知識や経験を積み重ねたのであれば、自分のスタイルを変えるとか、他の人の手を借りるとか、そういうことが出来るはず。

経験を積み重ねた知識と、若いときの体で動けたら…
仮に、そんな夢みたいなことがかなったとして、何本ぐらいホームランが打てるか。おそらく、まったく打てなくなると、王さんは感じていたのでしょうね。知識に体は対応できないし、体が動こうとするときに知識が邪魔をしてしまうから。

今の体と知識で、出来ることを懸命に努めたい。
今しか出来ないことは、未来にはないのだから。

2012年5月 7日 (月)

ことばに出遇い 人に遇う

寺報(ペーパーメディア)の整理をしました。毎月発行で今月は165号、14年弱になります。ファイリングしてあるものを、1号から見直してみました。
「10年ひとむかし」と言われるように、10年も経てば いろいろなことが変化しますね。はじめはワープロで作っていましたし、文章やレイアウトもも硬い硬い。時代背景・社会状況も変わったなぁと感じます。

見直していて目に留まった ことば たち

人は、笑顔の中に どんなにたいへんなことがあっただろうか

門徒さんに文章を書いていただき、その文中に出てきたことば。
お子さんを亡くされ、先の見えない悲しみの暗闇の中で、親鸞聖人のおしえに出遇われました。
悲しんでばかりいたけれど、亡き子は、私に仏法に出遇わせるために、我が身をもって諸行無常の理を教えてくれました。そのように思えてから、笑顔が出るようになりました。でも、人の笑顔の中には、誰もが悲しみを抱えているのですね。そのことに気付かせていただきました、と。
「人は、笑顔の中に どんなにたいへんなことがあっただろうか」という ことば をいただき、私は、親鸞聖人のおしえの真髄がここにある!!と感じました。今でも大切にしている ことば です。


事件とか悲しいニュースとか、その責任追及をするのではなくて、自分の内面に責任とか原因の一端があるんじゃないかと常に感じていたい(Mr.children 桜井和寿)

ミスチルのボーカル 桜井さんが、ニュース23に出演していたときに話していた ことば。
事件や事故が起きたとき、報道も世論も、その犯人捜しに躍起になり、犯人が分かれば 非難を浴びせます。
たしかに、事件・事故を起こした事実は消えないし、許されることではありません。でも、私たちは、歩んできた道がちょっと違えば、出会う人々がちょっと違えば、行動を起こすタイミングがちょっとずれていれば、それだけのことで被害者にもなるし、加害者にだってなり得る。誰もがみんな。そんな当たり前のことを忘れて、罪を犯した人間を責めるだけ責め立てる。どこにそんな権利があるのでしょうか。そのように私は思っています。
桜井さんは桜井さんの意図・想いがあって、この ことば を発したのでしょうから、私の想いとは違うかもしれません。しかし、桜井さんの ことば に共感し、ことば を掲示しました。
ある日、ひとりの女性が寺を訪ねました。毎日バスに乗って西蓮寺前を“通過”しているとのこと。しかし、この長い ことば を、「なんて書いてあるんだろう?」と、毎日目を凝らして読んでいるうちに、「責任は自分にもある」と書いてあることに驚き、その感動を伝えに、わざわざバスを降りて寺に来てくださったのでした。もちろん、想いは私が考えていたのと同じようなこと。周りのみんなが、「犯人はひどい奴だ」と言い放つ姿に悲しさと違和感を覚えていたとのこと。そんなときに、「責任は自分にもある」と公に言ってくれる人がいて、気持ちが落ち着きました。そのことを伝えに、お寺に来てくださいました。もう少し寺でお話をして、帰って行かれました。ありがとうございます。

「ゆとり」って、時間の余裕じゃなくて こころの余裕なんだよね

朝、山門前の掃除をしているときに、ある女性に声をかけられました。毎朝顔を合わせている方でした。それまでは挨拶程度で、話をしたことはありませんでしたが、初めて話しかけられました。
「今月のことばを見て、こころがホッとしました。なにか時間に追われて、焦ってばかりいました。世間では“ゆとり・ゆとり”って言うけれど、全然“ゆとり”なんかないし。それで、追い詰められた感覚になっていたときに、この ことば に出あいました。時間的ゆとりばかり考えていたけれど、気持ちの余裕なんですね、“ゆとり”って。そう考えられるようになってから、なんだか“ゆとり”が生まれました。あせったときには、ことばを思い出しています。ありがとうございます」
その後も、この ことば の話をしたものですが、最近お会いしていません。元気でいらっしゃるでしょうか。


目に留まった ことば たちと書きましたが、ことばを通して人に出遇っていました。
ことば から教えられることがあるというよりも、ことば が出遇いを紡ぎ出してくれます。
寺報の歴史は、出遇いの歴史でした。有り難いことです。南無阿弥陀仏

2012年5月 6日 (日)

自分を見ているようで

お寺でご法事
長女と同じ年ほどの女の子が来ていました。
はじめは、お互いの様子をうかがっていました。
仲良くなるのも早いもの。
ご法事までの待ち時間、お座敷をふたりで走り回っていました。

お参りには、他の方もいらっしゃいます。
「すみません」と謝ると、
「いいんですよ、元気があっていいじゃないですか


住職に言わせると、私もあんなだったとか。
時代は繰り返すというか、
親子は似るというか…
お客さんのお茶を飲まなかっただけ、私より娘の方がお利口さんでした


2012年5月 5日 (土)

5月5日 原発ゼロの日

原発ゼロの日 さようなら原発5・5(ゴーゴー)集会

集会に参加したかったのですが、寺を空けられず、パレード用の鯉のぼりを掲示させていただきました。
できる形で参加させていただきます。

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2012年5月 4日 (金)

できることって、すこしずつ すこしずつ ふえてゆくんだなぁ

2012年5月4日(金) 多摩動物公園に行ってきました。
3歳になる娘は話し始めるのがけっこう早く、会話も成り立っていました。なので、親としては つい何でも理解しているもの、分かりがいいものと勘違いしてしまいます。あるものを指さして、「ほら、○○だよ」と言っても、どこを指さしているのか分からなかったり、見れば分かるだろうと思いながら「○○があるよ」と言ってもまったく気付かなかったりします。そうすると、こちらの勘違いは棚に上げてイライラしてしまったりします。まだ2、3歳なのに。分からなくて当然です。
しかし、今春から幼稚園に通うようになり、幼稚園でいろいろ教わり、友達との交流が急激に増え、言葉や出来ることが目に見えて増えてきました。指さしたものもハッキリ認識できるようになりました。動物園でも、私が指さした 遠くにいる動物がハッキリ分かるようになっていました。
今日までに何度か動物園に行ったことはありますが、「ほら、あそこに子猿がいるよ」「木の陰にキツネがいるよ」などと言っても、まったく通じないのです。しかし今日は、指さしたものがどこにいるか、動物がどこで休んでいるか、ハッキリと認識していました。それゆえ本人も、今までに見せたことがないほど、動物園に興奮していました。楽しかったのだと思います。
とはいえ、園内を飛び回るチョウチョを気にしたり、動物そのものよりも、動物が体をつける貯め水に興奮していました。 「ほら、カバだよ」「あっ、お水があるよ! お水だ!」(どうして水に興奮?)

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長時間は疲れるので、午前で切り上げて帰宅しました。帰ってから雨が降り始めました。
夕刻、雨がやみ、少し光がさしたとき、空に虹がかかっていました。
「ほら、虹だよ、空に虹があるよ!」 娘が指さします。
暗くなり始め、月が見え始めました。
「ほら、お月さんだよ、まん丸だよ!」 娘が呼びます。

なにか特別なことがあって、驚いたり感動したりするのではなく、
ほんの些細なことにでも驚いたり感動したりする気持ちを大切にしたいです。



2012年5月 3日 (木)

未来・過去・現在

2012年5月3日(木)
ご近所の存明寺様の永代経法要に出仕。
お寺の玄関にタイムカプセルの大きな箱が置いてありました。存明寺様​は、今年の報恩講で御遠忌法要を勤められます。その一環として、​50年後の御遠忌に向けてタイムカプセルを用意されています。
50年後、日本は、世界はどうなっているでしょうね。子どもたち​が元気に外で遊べる世界だったらいいなぁ。

タイムカプセルを見て50年後を想い、あらためて50年前のことを考えました。
まだ原発に依らない生活をしていたとき
まさにこれから原発がある​生活に足を突っ込もうとしていたとき
「あのとき あのようにしていたら(していなかったら)」という考え方は好き​ではないので、原発がなかったらなどとは言いません。現に原発の​ある生活を営んできたのですから。
でも、50年ほど前、原発で明るい未来が開かれると信じ込んでい​た(信じ込まされていた)人々にとって、まさか50年後にこのような世の中になっているなんて、思いもしなかったことでしょう。
だけど、予測・予期しながらも原発を推進した人もいたことを思う​と、私利私欲に突っ走ることの恐さを思います。

未来のことを思うとき、
同時に過去のことを思い起こされます。
そのことによって、現在(いま)が明らかになってきます。

2012年5月 1日 (火)

2012年5月のことば

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人は慣れると、
手ですることを足でする

子ども(3歳)に手を洗わせるとき、洗面台の前で子どもを抱き上げて、足で踏み台を動かして、子どもを台に乗せてしまうことがあります。
子ども(1歳)のオムツを替えるとき、子どもを抱えたまま、床に散らばるおもちゃを足でどかして、スペースを作ってしまうことがあります。
格好良いことではないなぁと思いつつ、つい足を使ってしまいます。
「人は慣れると、手ですることを足でする」…相手を邪険に扱ったり、見下したり、まともに対応しなかったりすることを、「足でする」と教えられます。思い当たることはありませんか?
「五月病」ということばがあります。希望や決意をもって、新しい歩みを始めた4月。一ヶ月の歩みを経て、想いと違ったり、人間関係で苦しんだり、生活のペースが変わったりして、気分が落ち込んでしまうのが5月。新しい歩みになかなか慣れないのも無理はありません。
反面、慣れすぎてしまうという厄介な問題も人間は抱えています。熱意をもって頑張っていたのに、長いこと続けていると対処方法を身につけてしまい、手や気を抜きながらこなしてしまいます。まさに「足でする」状態ですね。

以前、寺の掲示板に、
「あぐらをかいて字を書けば、字もあぐらをかく」
と掲示をしたことがあります。後で分かったことなのですが、このことばが掲示してあるときに、作家の阿川弘之さんが友人の墓参で西蓮寺に来られたそうなのです。
寺の掲示板のことばなど説教くさくて嫌だと気にも留めない阿川さんも、このことばには、おやと足を止めました。阿川さんは、原稿を書くのは気にならないけれど、手紙などを書くときは、自分の字が嫌で筆が進まないそうです。で、どうしても書かなければいけなくなってから嫌々筆を執ります。パジャマを着たまま。
掲示板のことばを見て、「パジャマを着て字を書けば、字もパジャマを着るということだなぁ」と感じられたそうです(と、ある雑誌のコラムに書かれていました)。
嫌々やっていると、やったことのすべてに嫌々な雰囲気が染み付いてしまいます。
ダラダラやっていると、やったことのすべてにダラダラ感が染み付いてしまいます。
足ですると、邪険に取り組んだ跡が残ってしまいます。
たとえ形は整っていたとしても、嫌々な雰囲気・ダラダラ感・邪険に取り組んだ跡が漂っていては、あなたにお任せすることは出来ませんと、他者(ひと)に愛想を尽かされることでしょう。
「足でする」と、他者から愛想を尽かされます。それだけでなく、何事をも「足でする」態度を続けていると、自分で自分自身を軽んずることにもなります。他者を粗末にし、仕事を粗末にし、責任を粗末にするということは、実は自分自身を粗末にしていることの表われなのです。

掲示板には「人は慣れると」と書きましたが、「なれる」には「慣れる」だけでなく「馴れる」もあります。「人と親しくなる」という意味の「馴れる」です。「馴れ初め」とか「馴れ馴れしい」と言いますよね。
「人は馴れると、手ですることを足でする」という面も持ち合わせています。せっかく親しくなり、分かり合えるほどの仲になったのに、大切に接するどころか、高慢な態度で相手に接するようになってしまう。出会えた有り難さを忘れ、そばにいてくれることが当たり前になってしまうのですね。そばにいなくなったときに、その存在の大きさに目覚めても、気付いたときにはもう遅いのに。

さて、「足でする」ということで文章を書いてきましたが、どうしても「足でする」=「失礼なこと」という文章になってしまいます。しかし、書いていて思いました。足でしてはいけないことを足でしてしまうのは、実は私自身の問題なのでした。足は、まったく悪くありません。「慣れて(馴れて)しまうと、手ですることを足でしてしまう私です」ということばでもよかったですね。

足の偉大さを思うとき、作家の高 史明さんのお話を思い出しました。
ある日、「死にたい」と訴える女子中学生が高さんのお宅を訪ねます。
高さんが「死にたいって、あなたのここ(頭を指して)が言っているの?」と尋ねると、女子中学生はコクリと頷きます。
高さんは言います。「頭で〝死にたい〟と考えていると言うけれど、あなたが死ねば、手も足も死んでしまいます。手を開いて相談しなさい。そして、あなたを支えている足の裏に相談してみなさい。足の裏を洗ってから」と。
彼女は帰り、数か月して手紙が届きました。その手紙には「足の裏の声が聞こえてくるまで、歩き続けることにします」と書いてあったそうです。

誰もが平等に立つことが出来る大地があります。大地があるからこそ、私たちは立ち、歩み、生きることができます。そして、その大地に私たちを立たしめてくれるのが、足です。大地を踏みしめているのが、足の裏でした。
足の裏の声に耳を澄ませながら、一歩一歩の歩み(立ち止まることも含めて)を大切に生きて往きたいです。

   

掲示板 5月の人形
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