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2012年4月24日 (火)

三毒(つづき)

眠れぬ夜に この世の生きにくさについて考えてたどり着いたのが、先日書いた「三毒」。
はじめから「三毒」について考え始めたのではなく、考えているうちに「あれ、これって“三毒”だ」と気がついた。
人のせいにしていた この世の生きにくさも、すべては自分であったかと、暗い部屋でほくそ笑む。

しかし、考えたといっても、私の浅知恵。文章を書く前にいろいろ調べてみると、自分が考えていたこと(文章に書いたこと)など、お釈迦さまが人々に伝えよう伝えようと努められたことのちょっとも分かってない。

「三毒」の「貪欲」「瞋恚」「愚癡」は、それぞれが独立いていて、それぞれが人々の持つ揺るぎない煩悩。
しかし、世間一般に解釈されている(文章に書いたこと)「貪欲」「瞋恚」…「貪りのこころ」「怒りのこころ」は、「愚癡(真理に暗いこと)」に収まると、あるものの本。
欲しがる意地も、怒る狭さも、真理に暗い故にあふれ出るのですね。

真理について語ってしまうと、その時点で真理でなくなってしまう。けれど、ちょっと語ります。
真理とは阿弥陀如来。阿弥陀如来とは、無量寿 無量光。
無量寿 無量光について、最近感じること

「無量寿」…はかり知れない寿(いのち) 限りない寿(いのち)
寿(いのち)は、連綿と受け継がれてきました。あらゆるいのちがつながりあって、今に続いています。過去の誰一人欠けても、今の私となって表われているいのちはありません。生まれてからのことを考えても、出会った人々の誰一人欠けても、自然のなにひとつ欠けても、今の私はいません。また、いのちのつながりは、現時点で私が最終ランナーではありません。私がいるという奇跡が、さらに後の奇跡を生み出します。そのようなことに想いを巡らすとき、人知の限界を超えた時間的つながりの中の一点を、今、私は生かされているということに気付かされます。

「無量光」…はかり知れない光 限りない光
光は、空間すべてに行き渡ります。しかし、自然が生み出す光にしても、人間が作り出す光にしても、そこに遮るものがあると光は遮断されてしまいます。ところが、阿弥陀の光(衆生をすくいたいと願うこころ)は、たとえ遮るものがあろうとも、十方世界すべての空間に行き渡ります。遮るものとは、阿弥陀如来など信じられないと疑うこころや、未だ阿弥陀如来に出会わぬ人々のこころです。生きとし生けるものすべてに光は届いています。その光には、空間的なつながりを感じます。
震災以後、世界中の人々が、日本に温かい手を差し伸べてくださいました。会ったこともない、顔も知らない、言葉も通じない人々とも、気持ちが繋がるのです。隣に住む人の顔も知らないのが現代日本の姿と揶揄されるのに、世界中の人々と繋がることができる。不思議なものです。“今”という空間を生きるすべてのいのちと共に生きている。
 
時間的・空間的つながりの一点を、今、私は生きている。誰一人、なにひとつ欠けても私はいないし、私一人いないだけで、つながりは成り立たない。時間という縦軸と、空間という横軸が織り合いながら、いのちが誕生していることを感じます。
 
無量寿 無量光とは、“縁”でありました。
廣瀬先生は、縁を生きる、縁に生きるわれらを「遇縁存在」とおしえてくださいました。
「遇」とは、予期せぬ出来事に出会あうこと。あえてよかったと言える出来事ばかりではありません。あいたくない人・出来事との出あいもあります(若坊守は「遇っちゃった」「遇ってしまった」と、素敵な訳をしてくれました)。
また、A先生に Bさんに C君に出あえたなどと、ピンポイントで語れるものではないのが“縁”。 「縁を生かされている」というと、つい、自分にとって良かった出会いばかりをイメージするけれど、そればかりではないし、ピンポイントで表現できるものではない。はかりしれない縦軸と横軸が織りなす“縁”に生かされているのだから。

それほどの縁を生かされている私ですから、「私に責任はない」とか「私のせいではない」では済まされないいのちを生きているのだと思います。
私にはそのように思う背景があるので、「ここにいるという“責任”を背負って生きている」とか「自分で生まれたいと思って生まれてきた」と表現することがあります。ところが、“責任”ということばのイメージが重かったり、「自分で生まれたいと思って生まれるわけないでしょう」(たぶん、その方があっているのでしょう)という理知が邪魔をして、私がこれらのことを口にすると、怒られるか 一笑に付されるかして終わってしまいます。
合っている合っていない、正しい正しくない、好き嫌いという思いを越えて、仏さまのおしえ、親鸞聖人のお念仏に向き合わなければ、真理に暗いままです。
好き嫌いを越えて おしえに向き合ったからといって真理に明るくなることは、人間にとってあり得ないことだとは思います。でも、自分のものさし(考え方)に合うときは頷いて、合わないときは 抵抗・反抗・無視していては、何も変わりません。私は変わりません。抵抗・反抗・無視せずに おしえに向き合った(おしえに出遇った)人々の縁が、今、私に仏法に念仏に出遇う縁をくださいました。

「三毒」について考えていたのに、「真理」について想いをめぐらせていました。
仏教語の意味について考えたとき、一語一語の意味について辞書的な答えを導くことはできるでしょう。しかし、突き詰めると、すべては「真理」に行き着くのだなぁと思いました。

これで眠れそうです。と、何時に書いているんだか。

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