« お釈迦さまの誕生日 法に出遇う | トップページ | ご報告 »

2012年4月12日 (木)

我が身の籠をば 法の水につけて聞くべし

Dsc_0912
我が身の籠(かご)をば
法の水につけて聞くべし

法(おしえ)を聞いて、
「難しくて」
「聞いてもすぐに忘れちゃって」
「右の耳から入って、左の耳から出て行っちゃいます」
というような感想をよく聞きます。
べつに、暗記が目的の聴聞ではありませんから、難しくても、分からなくても、忘れてもかまわないのです。
忘れてしまうという意味では、私たちの頭での受け止めは、ザルや籠(かご)のようなものです。入れてもザーザー漏れてゆきます。これっぽっちも溜まりません。
しかし、ザルや籠に水を貯めておく方法があります。それは、ザルや籠を水の中につけておくのです。そうすれば漏れません。ザルや籠を水の中につけておくかのように、仏法聴聞せよというのが、蓮如上人のことばです。法に生きよ!ということでしょうか。
そのようにいうと、常に仏法聴聞の場に身を置きなさい、常に仏教書を読みなさいとうことかしら?と誤解する人もいるかもしれませんね。
法の水に身をつけるとは、仏法聴聞の場に身を置いたり、仏教書を読むように心がけるなど、自分の思いとして、そのように励むという意味ではないと感じます。自分の思いで、法の水に身をつけたり つけなかったり するわけではありません。我が身は、常に、既に、法の水にどっぷりつかっているのだと思います。その中に生まれ、生き、往くのだと思います。ただ、その気付きに出遇えるか否か。

すでに法(おしえ)に生きてるからこそ、出遇うことができる。
すでに私を想う願いがあるからこそ、その願いに応えることができる。

「念仏申す衆生(生きとし生けるもの)をすくう」という阿弥陀如来の願いは、「南無阿弥陀仏」と口にしたものだけを救いたいという誓いではない。願いとしては、「すべての衆生を救いたい」ということに尽きる。その願いに気付いた者が、「南無阿弥陀仏」と、自然に口から出てくる。そう思います。

時代が違っても、国が違っても、宗教が違っても、誰もが願いの中にいる。法に生きている。常に、既に、法の水の中。

聴聞を続けていると、聞いているときは分からなくても、聞いているときはピンとこなくても、「あぁ!!」と想えるときがきます。苦難の壁にぶち当たったときに。

法の水に我が身をつけよ
「仏法聴聞せよ」ということばではなく、「法に生きる身なのですよ」という呼び声に聞こえてきました。


(注)
蓮如上人のことばとしては、
「その籠を水につけよ、わが身をば法にひてておくべき」と『蓮如上人御一代記聞書』にあります。
今回紹介した「我が身の籠をば 法の水につけて聞くべし」は、蓮如上人のことばをいただいたどなたかが、そのように言い換えたことばだと思います。
私が住職に「本堂の黒板に、ことばを何か貼らない?」と言ったら、次の日の朝、このことばを書いて貼ってくれていました。
ことばを見て、いろいろな思いが込み上げてきました。遇法の有り難さを思います。南無阿弥陀仏

« お釈迦さまの誕生日 法に出遇う | トップページ | ご報告 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« お釈迦さまの誕生日 法に出遇う | トップページ | ご報告 »

フォト
2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ