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2012年4月 1日 (日)

2012年4月のことば

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無明
分からずに迷うのではない
分かったふりだから迷う

「無明」は、仏教用語です。「明るくない」つまり、「知らない」「見えない」「分からない」といったことを意味することばです。さて、何が「知らない」「見えない」「分からない」のでしょうか。
たとえば、自分のこと。私たちは、「自分のことは自分がよく分かっている」と言いますが、果たしてそうでしょうか?
たとえば、学びのこと。分からないことがあるからといって、勉強します。一生懸命に勉強して、学ぶことがないくらい学び、「あの人の右に出る人はいない」と言われるほどに学んだとして、分かり尽くしたといえるでしょうか。
これらのことは、知っているようで知らないことがたくさんあるとか、まだ学ぶ余地があるとか、そのようなことを言っているのではありません。
お釈迦さまや親鸞聖人が、生涯をかけてお伝えくださった「縁を生かされている」ということ。私たちは、あらゆる事柄が織りなす縁を生きています。自分の想いで物事を為している、人生を歩んでいるつもりでいるけれど、なにひとつ自分で決められることなどありません。世の中で悪事とされていることを、「私は そんなことはしない」と思っていても、縁によってはしてしまうこともある。せずに済んでいるのは、せずに済む縁を生かされているから。逆に、善い行いと思われていることも、したくてもできないこともある。それも縁。
「悪事とされていること」「善い行いと思われていること」と書きましたが、「縁を生かされている」ことには複雑さがあります。悪意あってやったことなのに、相手を助ける結果になることがある。善意のつもりでやったことが、結果的に相手を苦しめることがある。一部の人のことを真剣に守ろうとして、そこから外れる人を苦しめることがある。生きとし生けるもののためを想って為したことが、すべてを貶めることがある。
想いと結果が結びつかない。ひとつの行為によって、想っていたことを遙かに超える出来事が生じてゆく。「縁を生かされている」という真実は、一つひとつの出来事で凝視できることではありません。みんなつながっているのですから。
今起きている原発の問題は、そういう側面を如実に表しています。原発推進の人は、誰もが快適な暮らしをできることを夢見て、推し進めていることでしょう(そうではない人もいるのかもしれませんが)。原発反対の人も、放射能の脅威からの脱却、自然への敬意を忘れてはいません。
津波による瓦礫(思い出がいっぱい詰まった品々を、瓦礫と表現せざるを得ないことをお許しください)の撤去にしても、焼却受け入れの推進と反対で揉めています。推進の人は、被災地の負担を軽くしよう・分け合おうと考えます。反対の人は、放射能の汚染が広がることを危惧します。どちらの言い分が正しいとか間違っているとかいうことではなく、誰かのことを想えば、他の誰かが苦しみ、何かを切り捨てれば、巡り巡って自らも切り捨てられてゆく。そんな現実が、目に見えて明らかになっています。
その原発にしても、勉強・研究を重ねてきた人たちは、人類を豊かにする夢の装置として開発してきました。中には、その危険性に気付き、警鐘を鳴らし続けてくださった方々もいらっしゃいます。しかし、「夢」に踊らされ、「安全」という言葉に乗っかって、私は原発を受け入れてきてしまいました。
「安全です」…たしかに、日本の技術力からすると、原発自体は安全なのかもしれません。原発以外のあらゆる機械も、自動車や飛行機や電車も、それそのものは安全なのかもしれません。でも、作るのは、動かすのは、メンテナンスするのは、人間なのです。どんなに細心の注意を払っても、どんなに習熟した人が為しても、失敗や事故は起こりえるのです。それなのに、「安全」ということばにすべてを覆い隠して、見て見ぬふりをして、「大丈夫」「たいしたことはない」「なんともない」という錯覚を起こしています。それが、震災から一年経った私たちの姿です。
「無明」という、お釈迦さまのおしえをいただくとき、「知らない」「見えない」「分からない」故に迷っているのが衆生と考えがちですが、そうではありませんでした。私たちは、ある意味知っているし、見えているし、分かっているのです。自分のこと・原発だけではなく、この世のありとあらゆること。分からないことは、研究を続け解明してゆく。DNAの解明などは、この数年でかなりのことが明らかになってきました。その結果、移植や病気を無くす研究・クローン技術の発展へとつながってゆきます。人類の幸せのためと信じて。書きながら思います。原発と同じように、数年後に大きな事故が起こるのではないかと。
「知らない」「見えない」「分からない」が許されない現代の人類において、人知はあらゆることを知り、見え、分かろうとしています。しかしそれは「知ったつもり」「見えたつもり」「分かったつもり」になったにすぎないのです。で、結局何も分かっていなかった。迷いを無くすために、迷っていることに無自覚で、迷い続けているのです。
「知っている」「見えている」「分かっている」と思う背後には、相手のことを知ろうとしない、見ようとしない、分かろうとしない私がいます。
何も知らない私です。何も見えていませんでした。何も分からず生きてきました。そんな私の自覚、「無明」であることの気付きが、迷える人生に一筋の光明を与えてくれます。
4月8日はお釈迦さまの誕生日です。「花まつり」としてお祝いをしますが、私たちがお釈迦さまの誕生を祝う以前に、お釈迦さまから本当の私の誕生(無明な私の自覚)を願われています。

   

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ワイルドだろォ~

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