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2012年4月 8日 (日)

お釈迦さまの誕生日 法に出遇う

2012年4月8日(日)
お釈迦さまのお誕生日
本日お寺でのご法事に、約60名の方がいらっしゃいました。
「ご自由にお持ちください」ではなく、「ご法事を縁として、おしえに出会ってほしいです」と書いて、本堂に読み物を置いてあるのですが、「同朋新聞」「サンガ」や寺報・自家製のプリントなど、持っていく人は誰もいませんでした。
読経の後の住職の法話がこころに触れる人もいるかもしれないので、読み物を持っていくだけが遇法のきっかけではありませんが、法(おしえ)に出遇うということはなかなか難しいことなのだなぁと思いました。
でも、それだけに法に出遇うということの有り難さを感じます。南無阿弥陀仏

お釈迦さまのお誕生日に、そんなふうに思っていたら、ドアフォンが。
「お寺の新聞がいつものところになかったので、いただけますか?」
山門の外の掲示板に、自由に持って行けるように寺報が置いてあります。
それが無くなっていて、さらに貰いに来てくれる人がいました。

「なにをもって法に出遇えたといえるのか」
「自分が法に出遇えているといえるのか」
「自分とこの寺報に、果たして法があるのか」
等々、問われれば尽きることはありませんが、寺報を楽しみにしてくれる人がいて、だからこそ、寺報やブログを書き続ける力をいただいています。それもまた遇法かと思います。有り難うございます。

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コメント

釈尊はお生まれになられた途端に北に七歩歩いて十方を見回されて、われ(釈尊)は世界の首(かしら)であり、最高、最善なる者である、これが我が(釈尊の)最後の生であり、再び生まれることはない、と宣言されたとか。

これは、この話の直前に、この話の文脈として、釈尊は十分な自覚と認識を持って、兜率天からこの世界に降りてきた、という理論の証明になっている部分ですね。

その話の後ろ、続きは、というと、シャカ族に王子様が生まれたよ、ということで、周りの人々が、お宮参りに連れていこうとなり、叔母(後に養母)が着飾らせていると、釈尊はご自身をどこに連れて行くのかをたずねられた。お宮参りに行くんですよと言われた釈尊は、自分が生まれたときに三千世界が震え、帝釈天や梵天を始めとする神々がことごとく自分を礼拝したのに、あなたが、私を連れていくというその神はいったい何の神でしょう、(^~^)うふふふふと笑い、自分は神々を超えた神であり、自分に等しい神はいない、もちろん、自分を超える神はいないと、お教えになられたそうな。

つまり、オリジナルの天上天下唯我独尊の意味は、釈尊より尊い神はいないというか、どんな神より尊いという意味以外のどんな他の意味にも取りようがないですね。

で、私はこのオリジナルも、味わい深いと、4/8に思いました。

慣れ親しんでいる真宗バージョンの解釈も、現代的、合理的で、分かりやすいので、嫌いではないです。

↑ このエピソード(お宮参り)の肝は、ま、しかし、「世のならい」で、お宮さんには釈尊は行かれるんですね。拒否しない。世の習いだから。そこが味噌。

だから、単純に俺は偉い、他の人に礼は尽くさないでよし、という意味ではオリジナルでも全然ないです。そういうことではオリジナルもない。

叔母さんとかの気持ちも汲んでいる。

で、それは何故なんだと考えたら、真宗的な解釈も、もちろん、おかしくありません。

もっとも、やっぱり帝釈天とか梵天とか神々が全員、釈尊にひれ伏して、讃嘆するので、ちょっと神様にしたら迷惑だったかも(^0^;)。

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