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2012年3月

2012年3月28日 (水)

私色私光(春彼岸の風景2012)

青色青光
(青い花は 青く光り輝き、)
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黄色黄光
(黄色い花は 黄色く光り輝き、)
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赤色赤光
(赤い花は 赤く光り輝き、)
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白色白光
(白い花は 白く光り輝く)
〔『仏説阿弥陀経』より〕
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2012年3月23日 (金)

「東日本大震災(2011.3.11)を心に刻む集い」ご報告

3月15日(木) 「東日本大震災(2011.3.11)を心に刻む集い」開催(烏山 存明寺にて)
想うことがいくつもあり、つらつらと書かせていただきました。

存明寺 酒井住職(震災直後より、何度も被災地に足を運び、ボランティア活動をされています)の挨拶より

3月12・13日に、ボランティアで福島方面に行ってきました。高速を走っていると、「そこに、人がいる」と書いてありました。高速の補修工事をしているため、人がいるのでご注意をという意味なのですが、私には違う意味で聞こえてきました。「そこに、人がいる」。ボランティアを続けていると、自分たちのやっていることはこれでいいのだろうかと疑問を感じることもあります。しかし、人と人との出会いを通して、温もりを感じます。被災者何万人・死者行方不明者何人などと、数字で表されてしまう人数ではなく、想いをもった一人ひとりがいる。一人ひとりを感じること、「そこに、人がいる」ということを忘れないことが、支援なのだと思います。

清谷真澄さん(真宗大谷派 現地復興支援センター主任)お話より
現地でのこの一年間の動きと変化。これからの歩み。
地震・津波による被災と原発事故による現状は、切り離して考えなければいけないと思うということ。
関西に住む友人に、「報道によると、かなり復興が進んだように感じるけど、まだまだなんだな」と言われました。地域による温度差や、風化が進む現状も否定は出来ないけれど、「風化させてはならないことです」という強い一言をいただきました。
『末燈鈔』第6章を通して、我々の欲求の延長線上に原発の事故があり、「いのちの事実に立つ」ことの必然性をお話くださいました。
また、ある動画を紹介いただきました。たたみかける歌声に、「いのちの事実に立つ」という自己を問う声が聞こえてきます。

「最近、井元 麟之(いもと りんし)さんのことばが大事だなぁと感じています。そのことばを紹介させていただきます」と、最後に教えてくださいました。
    1年のはかりごとをなさんとする者は稲を植える。
   10年のはかりごとをなさんとする者は木を植える。
  100年のはかりごとをなさんとする者は人を植える。
復興まで、1年や2年の道のりではありません。何年かかるのかも分かりません。でも、それだけに長い目で見て、人の生きる道を見据えていくことが大事なのではないでしょうか。
(以上、私のメモより)

清谷さんには、東京教区駐在教導在任中いろいろとお世話になりました。東京教区における今の私があるのも、清谷さんのおかげです。今、決して万全ではないお体で、現地復興支援センターの主任としてお勤め(お努め)をされている姿を拝見し、個人的にできる限りのことをさせていただかなかればと感じています。などと言いながら、とんでもない紹介をしましたが。
囲む会で久しぶりに一緒に吞むことができて、安心しました。

清谷主任を囲む会にて
ある門徒さんが、「忘れてはならない、風化させてはならないということを否定するつもりは全くありません。私もその通りだと思います。でも、人間、忘れることによって前に進めるという一面も持っていますよね。忘れないという面と、忘れるという面と、その双方の想いが、私の中で行ったり来たりしています」と話してくださいました。
その方自身、20年ほど前に奥様を亡くされていて、「いつまでもクヨクヨしていたら、亡くなった妻に申し訳ないなと思って、前を向くことに決めました」ともお話くださいました。

忘れてはいけない・風化させてはいけないということ…
ボランティア活動に携わると、現地の方に「ボランティアに来ていただくと、私たちのことを忘れられていなかったと思えることが、なによりも嬉しいんです」と声をかけられます。ボランティアの内容以上に、来てくれたという事実が、「忘れられていなかった」という喜びを生みます。忘れられていないという想いが安心感を生みます。

忘れたいということ…
つらい事実は忘れて、早く過去のこととして、次の一歩を踏み出したい。
それも正直な気持ちだと思う。

その門徒さんと話していて、「立ち位置の違いかな?」と感じていました。
自分がつらい思いをした所に立っていれば、そこから早く立ち去りたいし、忘れたい。でも、つらい思いをした私のことは、温かく守ってほしいし、忘れないでほしい(でも、忘れてほしいと思う人もいるかなぁ)。
自分がつらい思いをした当事者でなかったならば、隣で悲しんでいる人を助けてあげたいと思う(思わない人もいるかなぁ)。
このときは、「立ち位置の違いかな?」と頭の中で考えていました。

時間は経ち、囲む会はお開き。
場を共にしてくださった皆様、ありがとうございます。

④「ここに、人がいる
かつて、清谷主任と、親鸞聖人のおしえについて語り合っているとき、「私は、親鸞聖人のおしえは、“ここに、人がいる”ことを感知させるおしえだと思います」と言ったことがあります。
言ったのは覚えているのですが、その後のやりとりはなぜか覚えていません。どんなこと言い合ったけなぁ…。
と、思い返しながら、寺に戻りました。
清谷さん、わざわざ東京までご出講いただき、ありがとうございます。また、ゆっくりと。

⑤一人一世界観
寺に帰って、何気なくテレビをつけてみる。
Eテレで、「青春リアル」という番組の再放送をしていました。タイトルは、「いい加減、復興、復興、うるさいです。」

番組をすべて通しで見たわけではないのでコメントは書きませんが、被災していない人びとの間だけでなく、被災された方々の間においても、想いはさまざま、人の数だけあるんだなぁと、あらためて思いました。

テレビを見ながら、今日届いていた因速寺様の封書を開けると、寺報が入っていました。ありがとうございます。
寺報の住職のことばに中に、
「一人一世界観」とは、千人がいたら千の世界があるという見方だ。68億人いたら68億の世界がある。
と、ありました。
“絆”ということばが大切にされるように、“みなともに”という想い・世界を思い描いてきたかもしれない。この一年間。しかし、千人いたら千の世界がある、千の境遇が、千の考え方が、千の想いがある。どれひとつ重なり合うことのない世界を生きている。。だから“みなともに”になれないと言おうとしているのではない。「一人一世界観」を生きている現実を知るということが、“みなともに”の大前提になるのではないか。
「忘れてはならない、風化させてはならない」ということと、「忘れたい」ということ。
被災者・被災地支援を誓ったのに、原発推進・反対で争い、仮設住居に住む人びとを邪魔者扱いし(仮設住居ができることにより、その土地のスーパーが品薄になったり、病院が込むことが許せないそうです)、被災地の廃棄物の焼却に関して賛成・反対でもめている。結局、自分がかわいい。
「自分がかわいい」というところを生きているという意味で「一人一世界観」を生きていると言っているのではない。「誰も代わって生きることのできない世界」を、一人ひとり生きている。その人の想いは、その人の人生において生ずる。誰にも代わってもらえない、誰も代わってあげられない身を生きながら。そういう身だからこそ、私一人尊い。天上天下唯我独尊。

共通の(普遍的な)答えを見いだそうとしていたのだろうか。
でも、そうじゃなかった。

⑥根を養う大地
清谷主任が最後に紹介してくださった井元 麟之(いもと りんし)さんのことば。
    1年のはかりごとをなさんとする者は稲を植える。
   10年のはかりごとをなさんとする者は木を植える。
  100年のはかりごとをなさんとする者は人を植える。

「100年のはかりごとをなさんとする者は人を植える」…復興を目指す現場にあって、このことばを大切に感じられるということは、復興とは、町並みが元に戻ることではなく、人が元気になることと感じられているのだと思います。
このことばを思い返しながら、東本願寺の日めくりカレンダー「一語一遇」をめくったら、16日のことばは「根を養えば、樹は自ら育つ」でした。

「人を植える」…人を育てるということは、一人前の人間を育て上げることと勘違いしていました。
根を養えば、樹は自然と育つ。一人前に育て上げるのではなく、育つ土壌、寄って立つ大地の存在を教えてあげれば、人は育つのでした。
寄って立つ大地…この世で受ける様々な出来事・出会いを通して、そこから逃げる・それらを都合の良いように変えようとするのではなく、教えをいただきながら縁に生きる。南無阿弥陀仏の念仏をいただきながら、人生を生ききる。その姿を、その喜びを後世に伝えてゆくことが、「根を養う」ことであり、「人を植える」ことでした。

⑦こんな私のこころに、変化を生じさせてくれた出来事
糸井重里さんのインタビュー記事より 〔「読売新聞」2012年3月21日(水)朝刊より〕
糸井さんが今、とても重要だと考えているのは、「忘れないこと」だという。忘れないことが、被災者の励みになるとわかったからだ。あの日起きたこと、あの日、自分が抱いた思いを忘れないよう努力することは、誰にでもできる。

「忘れてはいけない・風化させてはいけない」と言った場合、起きた事件・事故のこと、被災し(被害に遭い)つらい想いをしている人がいること、それらを「忘れない・風化させない」と考えてしまいがちではないだろうか。
でも、事件・事故を知り、つらい想いをしている人がいることに気付いたとき、この私のこころの中に、なんらかの想いが湧き起こっているはずだ。何も感じない人は…いないだろう。その、私のこころの中に何らかの想いが湧き起こった事実。その事実を忘れないようにする。
起きた出来事は、風化しない。起きてしまったのだから。風化してしまうのは、私の心の中であり、私の想い。1年前と、今の私の暮らし(姿勢)の変化を見れば、そのことはハッキリしている。
1年前、何を思った? 何を感じた? どうしたいと思った?  思ったことを為したかどうかが問われるのではない。こころに変化が生じた その事実を、忘れてはならない。

⑧今悲しいことより、この悲しみを忘れてしまうことが悲しい
最近ふと気付いた。泣かなくなった。あの日以来、ちょっとしたことで涙が出て、夢で何度も涙して、嗚咽して目を覚ますことがしょっちゅうだったのに。気付けば…泣かなくなった。
涙止まらぬ頃は、「この涙が止まる日が来るのだろうか」などと思ったが、涙が止まってみれば、そんな自分が悲しく感じる。
起きた出来事が解決したわけではない。無くなったわけではない。忘れたわけではない。なにも変わっていないはずなのに、なぜ涙が止まってしまったんだろう。そんな自分が、とても嫌だ。

自分が経験したことは、被災した方々の悲しみと比べれば、たいしたことではない。その程度のことだから、「涙止まる日も来たのでしょう」と言われれば、「そうですね」と返すだけ。
でも、悲しみの涙を流せる日々は、私を生かそう生かそうと働きかけている力を感じているときではないだろうか。悲しみの涙が止まったからといって、その感知がなくなったというわけではないだろう。でも、涙していた頃のこころの動きを、忘れたくはない。
ふと気付けて…よかった。

⑨すべてがつながっている
『「東日本大震災(2011.3.11)を心に刻む集い」ご報告』というタイトルをつけながら、その後の想いや出遇ったことばをダラダラと書きました。しかし、「集い」があって、それをきっかけに思い巡らすことがあり、それをきっかけに文章や人に出遇ったならば、それらすべてひっくるめて「集い」。
親鸞聖人の750回御遠忌法要団体参拝の記事を書いたときにも書きました。東本願寺御影堂で執り行われた御遠忌法要だけが御遠忌ではないと。今に届くまでおしえが伝わってきた流れも、御遠忌の準備も、御遠忌法要に接して自分の中に生じた想いも、御遠忌があったからこそ出遇えた人も、それらすべての縁をいただいてある これからの歩みも、すべてが御遠忌です。
東日本大震災の追悼法要・イベント・セレモニーの乱立を歎く声も聞こえます。しかし、乱立が問題なのではありません。自分のこころの中に生じた想いの変化を思い出すこともなく、法要・イベント・セレモニーをきっかけにあらためて想い巡らすことがないならば、それこそが歎くべきところでしょう。
今もまだ、つらい生活をしている人がいる、悲しい想いをしている人がいる。そして、温かい手に感謝しながらも、その状況を受け止めきれない人もいる。
一人ひとり想いの違う人が、生きている。
「そこに、人がいる」ということを忘れてはいけない。「そこに」って、「遠い被災地に」ってことではない。「私の隣に」ということ。人と人は、つながっている。

2012年3月11日 (日)

勿忘の鐘 ご報告

2012年3月11日(日)午後2時46分
西蓮寺本堂におきまして、「勿忘の鐘(わすれなのかね)」東日本大震災追悼法要を執り行いました。
4名の方がお集まりくださり、共にお勤めをさせていただきました。

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西蓮寺には梵鐘はありませんので、2時46分から1分間喚鐘を鳴らしました。その後、お集まりいただいた皆様、家族とともに「正信偈」のお勤め。住職法話・副住職挨拶をさせていただきました。

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急な呼びかけで、お集まりいただいた人数は少なかったかもしれませんが、法要前後に、震災や原発について語らいの時間を持てました。このことは、昔話として他人事として語り合うということではなく、今も、これからも続く話として、自分事として呼び覚まされる語らいであったと感じました。法要とは、法の要とは、まさに「私」に対する呼びかけです。問いかけです。
決して忘れない…お集まりの皆様のこころに刻まれたことと思います。

3月15日(木)には、烏山 存明寺様におきまして、東京五組同朋会「東日本大震災(2011.3.11)を心に刻む集い」が開催されます。(1時30分 2時開会)。
会場であります存明寺 酒井義一住職と、真宗大谷派現地復興支援センター主任の清谷真澄さんにお話を伺います。おふたりとも、震災直後より、現地の様子・人びとの息吹を肌で感じておられます。おふたりのお声を通して、被災された方々・被災地のことを、こころに想い刻んでいただきたく、ご案内申しあげます。
西蓮寺副住職 白山勝久

2012年3月10日 (土)

甲斐和里子さん 「ほかのことは、みんな、こまい こまい」

(昨日の続き)
さて、甲斐和里子さんの紹介を書く前に、河村とし子さんの紹介をさせていただきました。
仏縁によって親鸞聖人に出遇った河村さん。聴聞生活を続ける中で、どうしてもお会いしたい人がいました。それが、甲斐和里子さん(明治元年~昭和37年)でした。
甲斐さんは、広島県勝願寺(本願寺派)にお生まれになります。ご法義の篤いご両親(住職・坊守)、ご兄弟に囲まれ、生まれながらにしてお念仏の生活をされていました。明治29年 芸術家の甲斐虎山氏と結婚され、明治32年 夫虎山氏と共に文中女学校(京都女子学園の前身)を創設、大正9年 京都女子専門学校を新設されました。学校設立の背景には、仏教精神を土台とした学びの場が必要であるという想いがあり、自らも教鞭を執りました。
甲斐さんの著書『草かご』『草かご その2』『落葉かご』を通して、その温かく包み込むような人柄に触れた河村さんは、どうにかして甲斐さんにお会いしたいという想いが募ります。京都に住む師に紹介をお願いし、そして想いが叶う日がきました。
河村さんが住む山口県萩市から、甲斐さんの居られる京都まで、まだ新幹線のない時代、時間をかけて甲斐さんの住まいを尋ねました。甲斐さんにお会いしたらあれを聞こう これを聞こうと、質問したいことをたくさんメモしていきました。
そして、挨拶を交わし、甲斐さんが河村さんに話しかけられました。
「遠いところをよう来られましたのう。聞けば、キリスト教から浄土真宗にうつられたとか。よう念仏に出遇われたことよのう。よかったのう、よかったのう。ほかのことは、みんな、こまい こまい」

そのお姿、声、言葉、仕草に河村さんは言葉をなくします。胸がいっぱいになり、涙があふれ、「ありがとうございます」とお礼を言うのが精一杯で、何も話を聞かずにその場を去ったそうです。
間に立ってくださった師が、「聞きたいことがたくさんあったんじゃないのか? あれでよかったのか? 今なら引き返せるぞ」と声をかけてくださったそうですが、河村さんには充分でした。

「ほかのことは、みんな、こまい こまい」
そのことばのみが、河村さんの耳の底に留まりました。
念仏のみぞまこと。念仏に出遇わせていただいた身にとって、ほかのことはこまい こまい。とるに足りないことでした。

その後、河村さんが甲斐さんにお会いすることはありませんでした。甲斐さんは昭和37年11月27日 95歳の生涯を閉じられます。河村さんの耳の底には、甲斐和里子さんのことばの響きが、いつまでも残っています。
「ほかのことはこまい こまい」


み仏の み名を称える わが声は わが声ながら 尊かりけり

み仏をよぶわが声は み仏の われをよびます み声なりけり

(参考『親鸞に出遇った人びと』③ 同朋舎)

2012年3月 9日 (金)

河村とし子さん「おしえに出遇えることは、当たり前のことではなく、有り難いことなのです」

2012年3月の掲示板は、甲斐和里子さんの「み仏の み名を称える わが声は わが声ながら 尊かりけり」という ことば を掲示させていただいています。
この ことば は、真宗大谷派の機関誌『真宗』の取材でお話をお聞かせいただいた住職から教えていただきました。取材中、住職がこの ことば を言われ、素敵な ことば だなぁと感じました。しかし、失礼なことに、甲斐和里子さんのことは存じ上げませんでした。
取材を終え、寺に戻って本棚を確認すると、以前読んだ本の中に、甲斐和里子さんのことも、今月のことばも書いてありました。そんなものですねぇ。

さて、甲斐和里子さんについて少し書こうと思ったのですが、甲斐さんに触れる前に、お一人紹介させていただきます。河村とし子さんという方です。
河村とし子さんは、明石の熱心なクリスチャンの家庭に生まれ、幼い頃からキリスト教の日曜学校に通われ、洗礼も受けられた方です。進学のため上京し、そこで萩出身のご主人と出遇われます。ご主人の家の宗旨が何であろうと、クリスチャンであり続けることを条件に結婚されました。
クリスチャンとして「信者はすなわち伝道者たれ」ということばが心に刻み込まれていた河村さんは、ご主人のご両親に、毎晩毎晩キリスト教の教えを説いて聞かせます。ご主人のご両親は、嫌な顔ひとつせず、ニコニコとお嫁さんのお話を聞き続けたそうです。
改宗させるのは時間の問題だと思ったのですが、話し続けているうちに、河村さんの方にこころの変化が起こります。なぜこんなにニコニコしているんだろう。義理の両親は、お寺で法座があると、畑仕事を休んででも出かけ、帰ってくると嬉しそうに法座の話をしている。いったいお寺とはどんな所なんだろう。お寺で何をしているんだろう…。
ある日、河村さんは思い立ってお寺での法座に出かけられます。その日のお話は「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」で有名な『歎異抄』第3章だったそうです。そうです。河村さんのご実家の宗旨は浄土真宗だったのです。
今まで、「善人は神に救われ、悪人は神の裁きを受ける」という おしえ に生きてきた河村さんにとって、「善人ですら救われるのですから、悪人が救われることは言うまでもありません」という おしえ は驚き以外ありませんでした。お話をされていた僧侶に、「今日の話のご本は何なのか、あなたたちの宗旨の開祖は誰なのか」尋ねたそうです。そのときに『歎異抄』をもらい、何度も何度も読み返しました。この出来事が、親鸞聖人との出遇いでした。
『歎異抄』を通して親鸞聖人に出会ったわけですが、畑仕事を休んでまで遠い遠いお寺まで法座に出かけるご両親の姿・キリスト教の話をし続ける嫁に対し、嫌な顔ひとつせず、それどころか温かく迎え入れてくれたご両親のこころ。それらに触れ、親鸞聖人に敬慕の念を抱きます。
(河村さんも言われていますが、決してキリスト教がダメで、真宗が良いと言っているのではありません。河村さんが抱いた人生の疑問に応えてくださったのが、親鸞聖人だったのです)

しかし、それで気持ちがスッキリした、すくわれたわけではありません。キリスト教を信じていた頃の疑問は氷解したけれど、親鸞聖人に出遇って、ますます分からないことが出てきた。なぜ浄土真宗なのか。なぜ念仏なのか。両親は起きてから寝るまで、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と言っているけれど、私の口からは念仏が出てこない。どうすれば念仏が出てくるのか。
河村さんは聴聞を続けます。でも、なかなか頷けない。そんな自分を嫌い、仏法聴聞に専念するために、離婚をしたいと両親に訴えます。
「仏法を聴聞したいという気持ちが出てきたと言いうことは、もうすでに仏さまの御手の中に抱かれているということです。離婚などということは考えないでいいから、子どものことも家事のことも私たちにまかせて、あなたは日本のどこまででも出かけていいから、仏法聴聞をしてください」と、ご両親から言われたそうです。
仏法聴聞を続けるある日、ふと念仏が出る不思議な瞬間がありました。今まで自分が、自分がの想いで生きてきたけど、自分の想いを超えた大きなはたらきの中を生かされていたんだということを、ふと思われたそうです。
何か明確な答えを、ある僧侶の話から得たというわけではありません。仏法聴聞を続ける中で、生き続ける中で、ふと出遇えたのです。仏法聴聞しても分からないというけれど、仏法聴聞しなければ分からないのです。仏法聴聞し続けていたから、念仏の声が出る瞬間(とき)が訪れたのです。

(参考『ほんとうのしあわせ―仏縁に恵まれて真の人生』河村とし子 東本願寺伝道ブックス24)

2012年3月 6日 (火)

佐々木道範さん「『真宗聖典』を開けるようになりました」

佐々木道範さんの、
「最近やっと、『真宗聖典』を開けるようになりました」
ということばを聞いて、親鸞聖人が表明されている「愚者の自覚」「愚禿の名告り」とは、こういうことなんだなぁと痛感させていただいています。
佐々木さんは、原発の事故後、初めは怒りが国や東電に向いていました。しかし、外で自由に遊べなくなった子どもたちと接するうちに、「こんなことになったのは、原発の危険性を疑わず、原発が有る生活を享受していた私のせいだ。子どもたちを自由に遊べなくしてしまったのは自分なんだ」と深く懺悔されます。
そこから、こんにちに至る佐々木さんの歩みがあります。福島の声を聞いてほしいと、全国各地でお話をされています。NPO法人「TEAM二本松」を立ち上げ、放射能測定装置を購入し、子どもたちの口に入る食べ物の放射性物質の数値を測定したり、今は、新たな目標として、空間線量の数値の少ない福島県内の土地を購入し、徹底的に除染をし、子どもたちが遊べる場を作ろうと歩み出されています。
その姿から、自身に対する徹底した懺悔と、子どもたちに対する讃嘆を感じます。その自覚こそが「愚者の自覚」であり、だからこそ『真宗聖典』を開けるようになった、おしえに出遇うことができたのだと思います。

愚者の自覚…「愚か者である」という自覚ではありません。
お釈迦さまや親鸞聖人がお説きくださった、縁を生きる存在。私たちは、生きとし生けるものは、縁を生かされています。そのことは、「つながりを持てたことに感謝」とか「良い行為には良い結果がくる」などといいう話ではありません。縁を生きる、いえ、生かされているということは、たとえ自分にその気はなくても、人を傷付ける・苦しめるということが起こりうるのです。あるいは、自分が傷付けられ、苦しめられるということもあります。
佐々木さんの、「原発の事故の責任は自分にある」と言われるようになる転換には、縁の気付きがあります。「愚者の自覚」とは、「縁の気付き」ではないでしょうか。

~回想~
「縁」によって生きているということは、事件事故に遭うこともある。
と言ったら、僧侶仲間から「そんなこと、被害に遭った人の前で言えるのか」と首を絞められたことがあります。

つらい出来事も縁によって起きます。
と言ったら、「そんなこと言わないでください」と泣かれたことがあります。

自分ではその気はなくても、人を傷付けることがあります。
と言ったら、「私はそんな生き方はしていません」と怒られたことがあります。

親鸞聖人は「愚者の自覚」「愚禿の名告り」をされました。
と言ったら、「しんらんさんって、そんな人だったんですか」と蔑まれてしまったことがあります。

「愚者の自覚」は、おしえに出遇う大切なことです。
と言ったら、それが目的になってしまったり、私は自覚をしましたと堂々と言われてしまったことがあります。
~回想 ここまで~

思い出すままに書いていたら、いろいろ思い出してしまいました(まるで私はトラブルメーカーのような)。
「自己の懺悔・弥陀の讃嘆」「愚者の自覚」「愚禿の名告り」が大切で、親鸞聖人にはそれがある。と言うと、私たちはどうしてもそれが目的になってしまったり、あるいは否定してしまったりする。
佐々木さんの自覚には、目的だとか、そんなんじゃダメだとかの思考(こうすれば阿弥陀に遇える・救われる)はまったくなく、生きているものが抱える悲しみ(縁)に出会い、感じ、受け止め、歩み出されています。その歩みの中で、真宗聖典を開けた、おしえに出遇えたのだと思います。
賢くなるため、理解するため、そのことによってすくわれるために『真宗聖典』を開くのではなく、生きているなかで『真宗聖典』が開かれてきた(おしえに出遇えた)のです。

佐々木さんの
「最近やっと、『真宗聖典』を開けるようになりました」
の一言に、親鸞聖人に出遇えた人がここにいる!という感銘を受けました(佐々木さんからは「そんなたいそうなことではありません」と言われてしまうかもしれませんが)。大切な告白だといただいています。

2012年3月 5日 (月)

青年研修会

2012年3月1・2日(木・金) 真宗大谷派東京教区青年研修会 in 東京(真宗会館にて)
自坊にて仏教青年会立ち上げの志を持つ若人が集まり、既に青年会を立ち上げている先輩方からお話を聞く会。講師は存明寺 酒井義一住職。
私自身は都合がつかず申し込んでなかったのですが、青年会を立ち上げている(白骨の会)ということで、参考に「呼びかけのチラシ」を要望されました。その際、「参加者は何人くらい?」と担当に尋ねると、「スタッフも含めて50人ほどです。東京教区だけでなく、他の教区からも参加される方もいらっしゃいます」とのこと。青年会立ち上げの志を持つ若人がたくさんいることを心強く思いました。
知った顔もいるかな?という思いで、3月1日の午前中に真宗会館に顔を出しました。知った顔、懐かしい顔がいて、嬉しくなりました。
さて、「2012年3月のことば」中でご紹介した佐々木道範さんもいらっしゃいました。久しぶりにお会いできて嬉しく思いました。思っていたよりも元気そうでしたが、それは、気持ちを分かち合える仲間と一緒にいるからかなと感じました。青年会を通して知り合った仲間とは、強い結びつきができるよに感じます(なぜかは分かりませんが)。
教区の若人に、佐々木さんのことを知ってもらいたいという思いもあって会館に足を運んだのですが、ご本人がいらっしゃったので、一泊二日の研修会中、大切なお話・熱い想いを聞くことができたことと思います。
青年会立ち上げにもう一歩足を踏み出せなかった子も、この研修会が、酒井住職のお話が、佐々木さんとの出会いがきっかけになることを望むものです。わたしも、「きっかけ」がなければ青年会を立ちあげていませんから。立ち上げられてよかったと思っています。
帰り際、佐々木さんと少しだけお話をすることができました。「末永いご支援をお願いします」と声をかけられました。佐々木さんや仙台教区仏青のみなさんと比べれば、なにも妨げとなるものはありません。一生を通して支援させていただきます。
用事があったので、研修会開会式が始まってから失礼させていただきました。後ろ髪を引かれる思いでした。開会式前まで、教区の若い子たちにさんざん声をかけまくってきたので、研修会中「あれ、白山さんいないの?」と思われたかもしれません(いないことに気づいてくれたらいいけど…)。自分に出来る形で、最初から気張らずに青年会を立ち上げてください。

西蓮寺では、真宗大谷派現地復興支援センターの呼びかけに賛同し、3月11日午後2時46分より、「東日本大震災追悼法要」をお勤めさせていただきます。本堂正面の扉を開けてお勤めしようと思いますので、自由に出入りのうえ、お参りいただきたく思います。


2012年3月 1日 (木)

2012年3月のことば

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み仏の み名を称える わが声は
わが声ながら 尊かりけり

甲斐 和里子

福島県二本松市眞行寺副住職・NPO法人「TEAM二本松」理事長の佐々木道範さん。彼は、原発による放射能汚染から子どもたちを守るために不断の活動をされています。子どもたちの口に入るものに放射性物質が混入していないかを調べ、除染活動をし、福島県に住む人々の叫びを知ってもらうために全国各地で講演をされています。耳に(目に)出来るかぎり、彼の講演やインタビューを聞いてきました。始めは、原発事故を起こした国や東電に対する怒りがあります。しかし、お寺と併設している同朋幼稚園に通う子どもたちが、外で遊べない姿を目の当たりにし、原発を許してきたのは自分であり、いのちをいのちと感じられずに生きてきた人生が、今、福島の子どもたちを苦しめているんだと見直されます。だから、自分がなんとかしなくてはいけないと立ち上がられます。
子どもたちを苦しめているのは、彼だけの話ではありません。私たち一人一人の想いや行為の積み重なりが、子どもたちを苦しめてしまいました。
彼の話を(本・新聞・HP等で)聞き続けてきましたが、最新の『同朋』2012年3月号(東本願寺宗務所発行)で、今まで聞いたことがないことを仰っています(私が聞いたことがなかっただけかもしれませんが)。

最近やっと、『真宗聖典』を開けるようになりました。震災後、ずっと僕は放射能の本しか読むことが出来ませんでした。でも、最近になってやっと、ちょっとずつ『真宗聖典』を開くことができました。
僕は国にも見捨てられて、いろいろな嫌がらせも受けて、でも、その中で親鸞聖人は福島県民を「われら」と言ってくれる人だなと思って。「愚禿(ぐとく)」と名告った親鸞聖人の精神、そしてその生き様が僕の勇気になっています。福島県の人たちと同じ大地に立って、福島県の人たちを「われら」と言ってくれるのが、僕は親鸞聖人なのかなって。

『真宗聖典』を開けるようになりました…この告白は、『真宗聖典』を読む時間的・精神的余裕ができたということではないと思います。親鸞聖人のことばが、直に胸に響いてきたということだと思います。
人間、誰もが苦悩を抱えて生きています。でも、その苦悩は、誰かが引き起こしているのではなく、この私自身が私を中心にして生きているからこそ生み出している苦悩です。私を中心に(善に)おいていることに目を向けず、そこで苦悩を取り除く方法・手段としておしえのことばを読んでも、「なにを言っているか分からない」ことでしょう。しかし、苦悩を引き起こしているのは、誰でもない、この私であったという自覚に目覚めたとき、おしえが、私を生かすためのものであったと見え方が変わります。
佐々木さんはお寺の副住職ですから、当然震災前から親鸞聖人のおしえに触れてきました。しかし、震災を通して、厳密に言うと、子どもたちの目を通して自分の罪業性に目覚めたときに、親鸞聖人のおしえが、私を支えてくれるものとして誕生したのです。
親鸞聖人は、「あなたたちは…」と諭すのではなく、「あなたが胸の内に抱いた罪業性は、この私にもあります」と告白してくださった方です。「われら」との呼びかけが、こんなにも温かく、こんなにも力強いものだったとは。私の中にある罪の目覚め…はじめは、つらく苦しいものです。押しつぶされそうです。罪の意識から誰々のためにと動くのですが、それだけでは心身共に持ちません。でも、私を支えてあるはたらきが、既にあった。一人で背負っていたものが、「われら」という呼び声によって、背負い続ける勇気となります。背負うものの重さが軽減されるわけではありません。重さは変わらなくても、両足がしっかりと大地に踏ん張っている感覚が生まれます。『真宗聖典』を開けるようになりましたという告白は、親鸞聖人に、そして阿弥陀如来に出遇えたという喜びのように聞こえてきました。つらく悲しい現実の中に開かれてくるのが、値遇(ちぐう:出遇い)の喜びです。

子どもが、親(というか、母親だと思います)を呼ぶ声「ママ」。「ママ」と声にできるのは、自分のことを想ってくれている存在がいてくれるからです。昨今、子どもへの虐待のニュースが後を絶ちません。客観的に報道を眺める私たちは、「ひどい親がいるものだ」と、他人事として嘆きます。でも、当事者はもっとつらいのです。つらさが子どもへの虐待として表われてしまう親自身も悲しいですが、虐待されてもそれでも子どもは、「ママ」と呼び続けます。行動としては虐待(あるいはそれに準ずること)をしていたとしても、子どもにとって母親は自分に想いをかけ続けてくれている存在なのです。生身の体という意味での存在ではなく、「想い」という存在として母親を感じているのです。だから、「ママ」という声が発せられるのです。
ママが好きだから、ママを頼りにしているから「ママ」と呼ぶのではなくて、かけられている想いがあるからこそ「ママ」と声が出ます。今月のことばを詠まれた甲斐和里子さんは、このようにも詠まれています。

 み仏をよぶわが声は 
  み仏の われをよびます み声なりけり

「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えることができるのは、私の想いに先立って、私を想ってくださっているはたらきがあるから。そういうはたらきに包まれて生きてきたのでした。「南無阿弥陀仏」の声が出るということは、耳に入るということ。「南無阿弥陀仏」という尊い声が、苦しみ悲しみを生きているからこそ響いてきます。きっと、佐々木さんにも聞こえてきたのだと思います。

甲斐和里子さんプロフィール
1868年~1962年
広島県深安郡 勝願寺(本願寺派)に生まれる。
明治期、仏教の根ざした学校が必要との想いから京都女子学園の前身「文中女学校」を設立

   

掲示板の人形
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Dsc_0575

3月の人形は、4羽のウサギです。京都で買ってきました。
2月29日は雪。一ヶ月経ち、3月が終わる頃には、「そういえば3月の頭は雪がのこってたねぇ」なんて会話するのかな。暖かくて穏やかな気候になっているといいですね。花粉症持ちにはつらいですが

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