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2012年2月26日 (日)

人知の闇 人間の愚を知る

2012年2月23日(木) 本多雅人氏(蓮光寺住職)出版記念祝賀会
亀有にあります真宗大谷派 蓮光寺 本多雅人住職と東京大学の安冨歩教授の共著(講演録)『今を生きる親鸞』(樹心社)の出版記念祝賀会に参加させていただきました。

住職は、手に取りやすいものでは本山発行の「同朋新聞」に携わられています。「同朋新聞」を通して、親鸞聖人のおしえを、真宗僧侶・門徒だけのものではなく、生きとし生けるすべてのものに開いてくださっていると思います。あるいは、ご自坊だけでなく、全国各地にお話に出かけておられます。周りが心配するほどに、ハードなスケジュールで動いておられますが、ご本人は、その方が動きやすいのだと思います。
安冨教授は、ご本を読むことを通して初めてお会いしましたが、真宗とはまったく関わりのない人生を歩んでこられながら、自身の歩みを通して親鸞聖人が気になっておられたとのこと。自身の研究の果てに、親鸞聖人が見えてこられたそうです。体制に媚びない、ストレートな視線が魅力的です。
昨年暮れの出版と共に、住職よりご本を贈呈いただいたのですが、おふたりの対談から導き出される、震災後の日本人の歩みについての示唆が、決して避けてはいけないことを提示してくださっています。そこには、人知の闇を知ることの大切さ・必要性が語られています。

私は、このブログでもたまに原発からの脱却を訴えています。しかし、訴えながらも危惧がありました。ここで訴えるべきことなのだろうかと(反論されるかもしれないという危惧ではありません)。
このブログは、「親鸞聖人のおしえに出遇えてよかった。そうでなければ、今の私はいない(「今、私はいない」かな)。聖人に、聖人のおしえに、一人でも多くの人に触れてもらいたい。そのきっかけになれば」という想いで書いています。
原発推進にしても、脱原発・反原発にしても、そういうことを書くのは、ここにふさわしいのだろうか。ここで書くということは、私にそのつもりはなくても、親鸞聖人のおしえをバックに立ててしまうことになる。つまり、親鸞聖人を盾に、自分の主義主張をかざすこととなる。そんなことは、別のところでやればいい、と。
しかし、生きるということは、誰もが己の主義主張をもって生きているということ。原発問題に限らず、何を書くにしても、己の主義主張がある。大谷派僧侶の名を語り、このブログを書いているということは、そのこと自体、聖人を盾にしているようなもの。原発のことも、たまに社会問題のことも、偉そうに(そんなつもりは全くないのだけれど)書いている。家庭のことも。書いてはいけないことはない。でも、書いてある内容は、どこまでも白山勝久 私ひとりの主義主張。そう開き直っています。
ただ、自分の主義主張を正当化するために、聖人のおことばを使うことはしないでおこうと心がけています。そんなことが出来るほど勉強しているわけではないのですが。

さて、話が横道にそれたようですが、何を書いているのか。
本を読むと、震災後、脱原発・反原発を訴える人が増えたが、「それが正しい」「そうでなければいけない」というところに立って脱原発・反原発を訴えるのは、原発を推進するのとまったく同じことだと、喝破されています。その暗部に気付かず、脱原発・反原発を訴えていても、もしそれが叶ったとしても、人類は原発を有するのと同じくらいに、いえ、それ以上に大変なものを作り上げてしまうだろうと、警鐘を鳴らされています。
原発推進の反対に、「反原発好き」という人間の姿を表現してくださっています。原発を反対するというその行為にしがみつき、原発推進派(者)を攻撃するのです。何を主張するにしても、反対の主張をする相手を攻撃するということは、そのことにしがみついている点では、反対の考え方をする人間とも根っこは同じなのです。また、他を攻撃することによって、自分を省みる必要はありません。自分を省みず、他を攻撃する姿を「反原発好き」と表現されていることに吹き出してしまうとともに、私自身がそうなっていないか考えてしまいました。そこが、私の危惧したところでもあります。

原発推進か反原発か、そこで争うのではなく、自分が持つ心の闇(人知の闇 人間の愚)に目を向け、人間にクエスチョンを付けるはたらき(阿弥陀さま)を持つことの大切さが語られています。
本の内容をまったく言い表せていませんが、身内だからいうのではなく、必読の書です。私以上に、妻が楽しそうに読んでいました。「親鸞聖人を知らない人・阿弥陀って何?って思う人が読むと、シックリくると思う」と申していました。坊さんが分かったふりして書く入門書よりも、感覚的にとても共感できるのだと思います。

安冨教授にお会いできることをワクワクしながら祝賀会に出かけたのですが、先生はインフルエンザによるドクターストップで欠席でした。残念でした。でも、これからもお会いする機会があると思います。
出席者の中に以前からお会いしたかった方がいらっしゃって、お話ができました。嬉しかったです。
安冨先生 本多住職 お体お大事に

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コメント

昨年3月11日に言葉を失い、以降、私は自分のブログの更新頻度が落ちました。

胸をえぐられた、突きつけられた問いの一つは、多分お若いお坊さんではないかと思いますが、

宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌なんてものをご本山でやるのは即、中止して、そんなことにかけるお金は一円残らず東北へ、

というような文でした。

親鸞聖人がいまここにいたら何をしていると思いますかと。

それを思ったら自明だと。

その問いを突きつけられた全ての人の胸に切り裂かれるような痛みが走ったことと思います。

血を吐くようにして出された問いだと思います。その前には、何も言うことができませんでした。何を言っても、抽象的な、血の通わない、回答になってしまうからです。言葉の無力さ。

しかし、私の頭の中には、口にすることも、ブログに書くことも、今の今までできませんでしたが、去来した考えがあります。

親鸞聖人が生きておられたら、何をされたか?淨土三部經を読誦されようとはするかもしれませんが、やはり、途中でやめられるだろう、そして、お念仏なされるだろう、と。

すえとおらない。

ボランティアに行っても問われるし、行かなくても問われる。

口にすることも、ブログに書くことも、今の今までできませんでしたが…。

☆theotherwindさんへ
自分が被災していたら、どうしているだろう…。
そういうことを考えることもありますが、でも、現実は今の私。
それならば、今の私の想いを、感動を、出遇いを語るしかない。
そう思って、今年に入ってブログ更新の頻度をあげています。
でも、語れない・書けないのも、表現のひとつだと思います。

簡単に言ったら、己の業を尽くす以外のことは、人にはできない、というのは全くの真理以外の何物でもないですね。

しかし実際には、問いをつきつけられて、では、自分とは何なのか、何をもって己の業を尽くしたと言えるのか、自分の願いはなんなのか、等々、生きている間は、逆説的に生に埋没しているわけで、分からない道理でもありますよね。

死んだ後に、自分の人生が完全に完結したあとで、振り返ってみることができる場所が、あたかもあるかのように前提しているからこそ、実は、いま・ここで生きていられるという不思議なことに気がつきます。

あたかも死後の世界が実在するかのように用らいているという真実。

なぜ、それが不思議かというと、頭では、理性では死後の世界が実在するなんてことは、誰一人信じていないし、もう少し、洗練された思考であれば、それは、考えても分かることではない、沈黙すべきことであり、考えても実践的ではなく時間の無駄、人間の理性で死後の世界があるかないかを考えることは、思考の使用方法が間違っていると言い換えても良いですが。

にもかかわらず、よおく、考えてみると、頭ではない、ということは、身体的にということになるのでしょう、人がいま・ここに生きていけている大前提は、死後の世界が実在していること。死後の世界が実在していることが、いま・ここに生きていけているという生活実践、事実の前提として要請されている。

じゃ、実在する、とは、当然言えません。明らかな間違いです。少なくとも、人間の理性からしたら間違い。人間の理性で死後の世界が実在しているかいないかは分からない、分かることではないことも、明らか。

よって、あたかも死後の世界が実在するかのように用らいていると言えます。

死後の世界は存在するのとは別の仕方で……

と「……」としか言えない。つまり「実在する」とは言えない。

しかし、作用している、立脚地になっている。生きていく上の規矩になっている。

実に不思議なことです。

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